砧教会説教2015年8月9日
「日々の暮らしの中に平和の種を見つけよう」
エフェソの信徒への手紙4章17節~32節
昨日は鈴木ミキさんの葬儀でありました。ミキさんの生前の活動を想起しつつ、戦後70年に間もなくなるという節目の時に天に召されたことにある種の感慨を覚えました。葬儀準備の間に広島の原爆の日を迎え、本日は長崎の原爆の日です。満州事変の前年に生まれ、その少女時代を戦争の中で過ごしたミキさんのことを想像しますと、昭和ひとけた世代の精神史的な困難に思い至らざるを得ません。かつてアメリカは敵であったのに、戦後は庇護者であり、民主主義の手本であり、最友好国となるという不思議。これは多分に精神衛生的によろしくないある種の変わり身の早さです。それゆえに、いまだに敗戦の意味を正確に認められないまま、あるいは敗戦を承認しないまま、いまだに敗戦状態のままであるという見解さえ登場しています(白井聡『永続敗戦論』)。それは例えば未だに沖縄が、横須賀が、横田が事実上アメリカのものであることに現れていますし、今回の安保法制も実質的にアメリカの思惑に沿っていることからも見て取れます。本当の意味での日本の主体性は、敗戦の意味をしっかと見据える、他方東アジアでの戦争責任を明確にすることをよほど厳格にやらない限り、回復されないのかもしれません。広島と長崎の原爆は、日本のファシズムの暴走を止めるための正当な手段であると言い続けるアメリカに対し、あれが虐殺であると批判するためには、決然とあの時期の日本ファシズムを否定する必要があるが、歴史の真相をごまかそうとする勢力が内閣を構成している不幸の中に日本は現在あるのです。
さて、そうした大きな歴史の認識や政治的な情勢について、やや高飛車に構えた評論家的な批判も大切ですが、そうした認識や情勢を支えている、あるいは知らぬ間に支えてしまっている、私たちの日々の生活を見直すことも大事なことではないでしょうか。このところ読んでおりますエフェソ書は、まだキリスト教が生まれたばかりであって、なにか大きな世界情勢や和平の問題についての回答を与えてくれるものではありません。むしろ、どうすればあの古典古代末期の世界を背景とする日々の暮らしの中で最も安心で平和な生き方をしていくことができるのかを示しているのです。
さて、本日の個所に先立つ4章2節には「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つよう努めなさい」とあります。ここでは柔和、寛容、愛に基づく忍耐が勧められています。このことを受けて、本日の個所に至ります。
17節では異邦人(これは異教徒とも言える)と同じように歩んではなりません、などといささか差別的な発言があります。こういうのは注意が必要です。キリスト教にはこういう悪い癖があります。自分たちが救いに与かっているが、信じない人は駄目であると。ただし、キリスト教に触れた人から見ると、異邦人は様々な不法行為や悪、性的な放縦など、それが普通のこととして行われていることが我慢ならないのです。一般にキリスト教は性的禁欲、性的差別が強く、それは非常に問題ですが、他方で帝政ローマ末期のあまりに過剰な富の浪費、権力の乱用による暗殺や戦争、性的放縦、そして剣闘士による殺し合いの見せ物など、きりもない快楽の一般化・大衆化があったのであり、そうした古代末期の帝政ローマの爛熟から腐敗にいたる時期の社会の風潮に対抗することも必要であったのです。要するに、もっとまともに、静かに、穏やかに、平和に生きたい、そして死んだ後も平安でありたい、と願う人もたくさんいたのです。その人々がユダヤ教から派生したキリスト教に引かれていったのです。本来ユダヤ人が多かったはずの教会ですが、次第に一般の人々もキリストを受け入れ、キリスト教に改宗していきます。そしてそれゆえに次第に教会が混乱してきたというわけですが、19節以下はかなり厳しくいさめています。つまり、古くからの慣習を捨てられない人もたくさんいたのでしょう。戻りますが18節では「知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために神の命から遠く離れています」という言葉ありますが、パウロは無知であることの怖さと危うさを強く訴えかけています。キリスト教は無知を諌めます。それはその人自身を苦しめ、貧しくさせ、命を無駄にさせるからです。無知はキリスト教にとって敵でさえあるのです。
22節では「だから、以前のような生き方をして情慾に惑わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と語ります。いささか、堅苦しい。事実、修道院はこれを真に受けて生活します。しかし、これは古代末期のヘレニズム社会、ローマの支配の東地中海世界と小アジアにおける、ささやかな道徳です。それでも確かにこれは後のキリスト教に強い感化を与えたのも事実です。
さて、その次。25節「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは互いに体の一部なのです」とあります。教会はキリストのもとで皆兄弟姉妹である。だから一つの家族同様であり、それゆえ偽る必要はなく、真実を語りなさいということです。これもそう簡単には行きません。教会に来てキリスト教徒となったとしても、古代のあの時代ですから、身分の高い人、ローマの市民権を持つ立派な人もいれば、奴隷、解放奴隷、やもめとなった女の人、さまざまな職業の人々がいたのですから、彼らが互いを信頼するに至るには、相当な曲折があったでしょう。しかし、イエスが伝え、実践したのは、いかなる身分であれ、いかなる出自であれ、あるいは貧しくとも富んでいようとも、あらゆる人が創造者である命の神ヤハウェの前では、互いに平等であり、生きて幸福になる権利は皆等しく持つのであるというものでした。それだから、みんなで信頼し合って、うそではなく、真実を語りつつ前に進もうというのです。
そのために具体的な指示を出しています。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」。怒りは罪を産む。つまり人を傷つけたり殺したりしてしまうほど強い感情です。しかしたとえ復讐であっても、殺したりけがを負わせたりしてはならない。そして怒りは鎮めなければいけない。怒りはその人自身を狂わせてしまうからです。ここでの勧告は、わたしたちの普段の生活に向けて言っていると考えて差し支えありません。キリスト教であるかどうかはひとまず関係ありませんが、キリスト教を受け入れている人はすでにイエスの出来事を知っているので、なぜ自分がこうした勧告を告げられるのか、そしてそれを実践しなければならないか、についてはわかってかるはずです。それでもこうした勧告が必要なのです。つまりキリスト教を受け入れたとしても人間はそう簡単に変わることは難しいのです。いずれにせよ、このことはキリスト教であろうとなかろうと、大切です。この後には盗みをしてはいけないし、「今まで盗みを働いていた人は、今から盗んではいけません」とまで言っています。具体的な泥棒の可能性もあるし、人をこき使ってその人から絞り取っていたということも含まれているかもしれません。いずれにせよ、「自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」というのは実に真っ当なことです。
このような勧告はわたしたちの時代においてより一層必要なことです。わたしたちは今や持てる者がより多く持ち、少なく持つ者はさらに少なくなる時代に生きているのです。最近ではトマ・ピケティというフランスの経済学者が今の市場社会は必ずそうなってしまうことを証明したことが話題となりました(『21世紀の資本』みすず書房)。しばらく前に、ジョセフ・スティグリッツというノーベル経済学賞をもらった(2001年)ことのあるアメリカの経済学者は、一貫してグローバル化は多くの人を不幸にすることを指摘していますが、まさにそうなってしまいました。もはや、分け与えるどころか、どれだけ自分の取り分を多くするかにひたすら邁進するという、極めてさもしい時代になってしまっているのです。
(そのあおりを受けて、日本では少子高齢化が深刻となっています。つまり子どもを持つことさえ、難しいと感じられるほどなのです。しかし、日本は経済大国であり、アフリカやアジアの一部のような貧困の国ではないのです。それなのにひどく後ろ向きです。それは互いに助け合い、困っている人に分け与えるようにしなさいという素朴な勧告が決して実行されないのではないか、そうならば自分も助けられないし助けてもらえないので、未来を造るのを止めようとなってしまうのです。)
だからこそ、パウロは互いの信頼関係を造り出すために、具体的に語るのです。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」といいます。悪い言葉はその人自身を醜くするし、相手を傷つける。そうではなく、相手を高める、相手のためになる言葉を与える、それも、のべつ幕なしではなく、「必要に応じて」です。
さて、31節は「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」と簡潔に求めています。やや修道院的ですが、これはわたしたちの心の平安のための勧告です。すこしでも自分を抑制すること、謙虚であること、「おれがおれが」ではなく、譲り合うこと、あなたのために私が少し我慢すること、こうしたささやかな実践が大事なのです。それにしてもパウロは、人間の醜さや悪さを実によく見ています。人間の悪意は底知れないことも良く知っています。それはローマ時代の人間模様を良く知っているからでしょう。
最後に32節「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」。これが最も大切であり、かつもっとも難しいことでしょう。キリスト教の本質は、本来はここにあります。赦すこと、相手を受け入れること。かつてマザー・テレサは、なぜあなたは赦せるのかという新聞記者の質問に、赦さなければ先に進めないから、というニュアンスで答えます。しかし行われた悪を受け入れるわけではないし怒りもある。それでも赦しを言わなければ、怒りと憎しみによって先に進めなくなる、そういうことだと思われます。
パウロはだからこそ「赦し合いなさい」という。そして先に向かって進めというのでしょう。先に進むために赦すこと、それは世界の悪を受け入れてしまうこととはまったく違います。むしろ悪に、罪に負けないための「赦し」であり、そこから世界の罪や悪を乗り越えていく、あるいは世界をよりよい方向に変えていくことが可能になるのです。私たちは、戦後70年となるこの年、非常に混沌とした時代の中にいます。しかし、それを嘆いたり、非難したりしているだけでは変わらない。私たちが日々生きている生活の中で、無知を脱し、真実を語り、悪意を捨てて、互いに赦し合うということがかえって必要です。もちろん、街頭でデモをし、積極的に異議申し立てをすることも当然必要です。他方、日々の日常の中で、あるいは住んでいる身の回りで、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、……互いに赦し合」うことを心がけることによって、平和な世界がおのずと生まれてくると思います。身近な平和的なつながりが世界を変えるということ、実はこのことをイエスはいちばんよく知っていました。私たちは、あのガリラヤの村や町を歩いていたイエスから出発しているのです。そして、そこから真の平和の歩みが始まり、かつ実現したのです。その証拠が、われわれの教会の存在です。
長崎の苦難と悲しみと嘆きを思うだけでなく、その時そこにいた人々と時を越えて繋がることができますように祈りつつ、日々の生活から平和への道筋をつけてゆきたいと願うものです。