砧教会説教2015年9月6日
「光の子として歩む」
エフェソの信徒への手紙5章1~20節
私が砧教会にお世話になり始めてもう1年がたちました。この間、主任牧師としては初心者の私を、いたわりの心をもってお支えいただきましたことに感謝申しあげます。だだし、何かあっという間に過ぎたという感があり、1年という時間の中でなせるはずのことができていないという忸怩たる思いがあります。積み残したことを早急に終え、新たな1年を充実させたいと思っております。
さて、礼拝での聖書は特に日課に沿っているわけではなく、私の大雑把な計画に沿って選んでおります。去年から今年にかけて、ルカ文書を主に取り上げつつ、一部エフェソ書の主な部分を読んでおります。もちろん旧約も折に触れて取り上げてきました。本日はエフェソ書の5章の前半で、教会共同体への包括的な勧告です。エフェソの信徒への手紙は5章21-6章9節にかけて、妻と夫、子と親、奴隷と主人といった見出しにある通り、家族内の秩序のあるべき姿を打ち出していますが、これはさすがにまともには読めません。身分制と家父長制が当然の時代の限界があるからです。としますと、本日の箇所をもって、この書の主要な勧告が尽くされているといってよいでしょう。もちろん、手紙の最後には非常に戦闘的に見える勧告(6章10-20節)がありますが、これはやや過激な激励の言葉にすぎません。
さて、5章1節には「神に愛されている子供ですから、神に倣うものとなりなさい」とあり、2節には愛の意味が端的に記されています。「ご自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神にささげてくださったように」という言葉です。著者にとってキリストの愛とは、イエス・キリストが自らの命を賭けて人々のために父なる神の赦しを引き出した、獲得したということです。ただし、このテキストをよく読んでみますと、ここには二つの愛があることに気付きます。一つは、1節にあるように「神に愛されている」という受動の表現に出てくる「神の愛」。もう一つは2節にあるように「キリストが私たちを愛して」という言葉にある「キリストの愛」です。
ここには非常に重要なことが示されていますが、そのことは特に説明されていません。神の愛とキリストの愛は質が違うのか同じなのか、キリストが犠牲になったとすればその愛はよくわかるが、では神の愛とは何なのか。神の愛を、私たちに命を与えてくれたという根源的な事実に重ねて考えることも良いのですが、それではやや漠然としてしまいます。もちろんそれを第一義とすべきですが、ここではもっと別な観点から見なくてはいけません。神の愛とは人間のために、キリストを送った、つまり神自身が受肉したということ、そしてその受肉した神自身、すなわちキリストが自らを犠牲にしたということです。つまり、神自身が神自身の子を死なせた、自らの子供を犠牲としたというヨハネ福音書のキリスト論と呼応するのです。要するに著者にとって、イエス・キリストが十字架につけられたことはその具体的な犠牲の姿を通して直接的に感じ取れる愛であり、他方、神の愛とはそのキリストの出来事、つまり神自身が自ら犠牲になっているとする、一段高い、あるいは抽象化された、「父の愛」ともいうべきものです。このように愛には二面性というか、二重性があるというわけです。
しかし、その愛は本質的には一つです。だからこそ、神の愛といってもキリストの愛といってもどちらでもよい。そしてその中心には、十字架上のキリストの死、すなわち神自身の死という途方もない大きな犠牲がある。しかも、神が永遠である以上、神の受肉であるキリストは死自身も越えて、復活し、再度天に上るという非常に壮大な神話的物語へと展開していく。キリストの愛、神の愛によって赦された人間たちは再び立ち上がり、最終的には神のもとに行く。このような大きな救済の枠の中で、エフェソ書の著者は書いているのですが、2節まで読んだだけではそう簡単にはわかりません。それゆえ、ここでいったん3章14―19節にもどると(ちなみにエフェソ書はこの3章までで一つの手紙が閉じられている可能性がある)、18-19節には「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによってみたされるように」という祈りがありますが、この著者の愛の理解の一端が明瞭に表現されています。
さて、愛によって、あるいは愛に基づいて生きることとは具体的にはどのようなあり方であるか。そのことを3-5節で言っています。要するに俗なる生活から身を引きなさいということですが、それはその時代の一般的な宗教性、さまざまな偶像崇拝を拒否することです。当時の偶像崇拝は多種多様で、それぞれの民族、階層、土地の伝統に従い、あるいは混交しつつ、祈りと犠牲をささげていた。その中には密儀的なものもあれば、金儲けのようなものもあったし、呪術や医療と重なるものもありました。そうした雑多で時に猥雑な宗教性を、キリスト教は丸ごと拒否したのです。これはまことに深刻であり、危険であり、しかし、まったく新しく、かつ革命的であったのです。そして、それはそうした宗教性の否定というレベルにとどまらず、それらを前提していた生活(家族、社会)そのものを変革していくのです。
そのような新しい次元の生き方を「光の子として歩む」と表現しているのが、次の段落です(6-20節)。まず「むなしい言葉に惑わされてはなりません」と語ります。これは単に土地の宗教性だけでなく、パウロの教えとは別の、もっと神秘化され、知恵に特化したキリスト教の流れを指す可能性もあるかもしれません。いずれにせよ、著者はこのエフェソの教会に集う人々の連帯を壊さないよう、慎重にキリストの愛のもとに歩むよう勧告します。それが8節「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」という言葉です。(この言葉は私の記憶ではトルストイの『光あるうちに光の中を歩め』という小説のモチーフになっていたと思います。)著者にとって光とは「あらゆる善意と正義と真実が生じる」(9節)起源のようなものです。いいかえれば神の意志のようなものです。創世記では光が神の創造の最初に出てきますが、それは闇を打ち破るものでした。エフェソ書の著者はそれをもちろん念頭に置いています。旧約の伝統に従って、神は目に見えるものとして現れるのではなく、むしろあらゆるものを明るみに出す能力として、すなわち光として、みずからを打ち出すのです。これに対して、著者が口を酸っぱくして非難する偶像崇拝は暗闇の業と言われています(11節)。つまり、それは真実と正義と善意を見えなくさせる人間の業なのです。
このような批判はなにもあの時代のことだけにあてはまるものではありません。この批判は時代を超えて、私たちの時代にさえ、適用すべきものであることは言うまでもありません。偶像崇拝に象徴されるものは、わが国なら、かつての現人神とされた天皇を元首とした戦前の天皇制ファシズムが真っ先に思い浮かぶでしょう。しかし、このようなあからさまなものだけではなく、日本では国家自体が「お上」すなわちおそれ多い「カミ」としていまなお君臨しているとさえ言えます。あるいは伝統と称して、あるいは文化と称して、差別的な制度が温存されています。もちろんこのこと日本だけに限ることではありません。広く世界各地に存在します。
エフェソ書の思想、ひいては聖書の思想、中心にあるイエスの言葉と活動は、今なお新しいといえるものです。逆に言えば、イエス以後2000年程度の人類の歴史にとって、聖書の言葉の本質的なものの実現は、まだ緒に就いたばかりなのです。それゆえ、私たちがキリスト教、聖書の宗教に基づいて生きることは極めて貴重なことであります。と同時に、実に困難なことでもあります。聖書の言葉を一般の人々が読み始めてようやく500年、もちろん初代教会の時代にはもっとみんなが読んでいましたが、そもそもその時代はまだ聖書は確定していなかったのですから、いろいろな文書をみんなで読んでいたのでしょう。いわゆる聖書が確定してからは一部の人しか読めなくなりました。したがって解釈も独占されていました。プロテスタント革命を通して諸国語に訳され、だれでも読めるようになりましたが、それでもなお教会的権威のもとで読まざるを得ません。もちろんそれはそれでよい面もありますが、その権威を前提にせず、テキストそのものをより深く、主体的に読む可能性も探らなければなりません。と同時に、テキストを恣意的に利用することの危険を意識する必要もあります。
さて、話を本文の方に戻します。13-14節には「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかになります。明らかにされたものはみな、光となるのです」とあります。先に私は、光は神の意志のようなものと言いましたが、より正確に言えば本日の最初の箇所にある「愛」であるといってよいでしょう。明るみに出されたものが光になるとは比喩であり、実際の姿は愛の行動をする、奉仕する、人の痛みや悲しみを自分のことのように感じ取ること、そして不正や悪に対して、神の義と公平をもって対決することなどを含みます。そのような具体的な営みを通して働きかけられた人々は、その愛に気づき、やがて満たされて、今度はその人自身が愛の営みの働き手となっていくのです。そのことを、「明らかにされたものはみな、光になるのです」と言います。月が太陽に照らされて、自らが光となり、夜を照らすように、光によって明るみに出されたものは、すべてそれ自身が光となる。この物理的事実は、もちろん比喩でありますが、私たちは根源的な光にあたることを通して互いに知られるようになるのです。互いに知られるようになるということは、互いに信頼し、互いに認めあい、そして互いに助け合うということです。そのためにどのような態度で生きるのか?
15節以下には多少とも具体的に書いてあります。「賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」とあります。これは単に気配りしながら生きよということではありません。慎重に生きなさいということです。つまり「今は悪い時代なのです」(16節)とあるように、自分たちの信仰による歩みがいつ咎められ迫害されるかわからないという危機感から発せられた言葉です。だからこそ、「無分別にならず、主の御心がなんであるかを悟りなさい」ということ、すなわち、この悪い時代にあって、投げやりになったり、途方に暮れたりするのではなく、かえって心を律して生きていくことを求めるのです。18節には実に現実的な勧告が残されています。酒に呑まれるな、身を持ち崩すな、ということ。こうしたことは普遍的なことです。
最後に、「むしろ霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い……」(19節)と言います。ここにある霊に満たされ、ということの意味ですが、これをある種の雰囲気、ある種の荘厳さ、ある種の厳格な秩序、ある種の静謐さ、ある種の自然的偉大さへの感動、といったものに重ねてしまうことが一般的な気がします。しかしこのような雰囲気や感動と、聖書で言われる霊性とは、おそらく本来は全く違うのではないか、と感じています。かつて、私は聖霊をキリストの痕跡と表現しましたが、それではまだ不明瞭であり、いまだ隠喩的です。本来の聖霊とは、おそらくイエスの、キリストの「思い」のことである、その思いを自らの思いとしたときを、聖霊に満たされたというべきである、思うのです。このことについては、改めて考えますが、キリストの思いはもちろん多様である。しかし、核心にあるのは、深い慈しみとその力を受け、かつ与えることにあると思います。
エフェソの信徒への手紙はキリスト者としての生き方を示していますが、その核心においてキリストへの深い思いと感謝をもとに、この時代の在り方とは別の生き方を強く打ち出しています。この感動的なテキストは、これを私たちの糧とすることを求め続けているのです。