砧教会説教2015年9月13日
「聖なる霊に満たされて、心は新たになる」
使徒言行録8章4~25節
まず先週の説教の中でトルストイの『光あるうちに光の中を歩め』はヨハネ福音書からのものでした(渡辺先生にご指摘を受けました)。うろ覚えで語ってしまい失礼しました。
さて、今日は再び使徒言行録に戻ります。ステファノの殉教後、「使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていった」と記されています(8章1節)。以前の説教で取り上げましたようにサウロ(のちのパウロ)は迫害者として登場しましたが、彼だけでなく、ユダヤ教の主流派、ローマに従順な人々はこの新しく始まったキリスト教を迫害します。今日はその後の話となります。散っていった人々のうち、フィリポはサマリアに下ってキリストを述べ伝えたとされます。このフィリポとは使徒の下働きをするために選ばれたかのように6章の初めに書かれていますが(2,3節)、実際にはステファノ、フィリポを含む7人は伝道者です。そしてその後ステファノは殉教しましたが、このフィリポがサマリアへと伝道に行ったのです。彼は多くのしるしを行ったらしい。それゆえ群衆は「こぞってその話に聞き入った」のです(6節)。そして「汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出ていき、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった」と言われます。フィリポはイエスや使徒たちと同様に、奇跡的な病気治癒者として活動したというのです。フィリポの権威は高く、その威力も並ではない。
ところで、サマリアには以前からシモンという名の魔術師がいて、彼もその術で人心を集めていたといわれます。しかしフィリポが現れると民衆はフィリポの福音を信じ、かつ洗礼を受けるようになり、さらにそれにとどまらず、シモン自身もその福音を信じ、洗礼を受けたという。つまり、フィリポの伝道者として力はその町の魔術師をも虜にするほどに優れていたのです。よく読んでみますと、人々は魔術ゆえにシモンに「注目していた」(9節末)にすぎず、信じていたのではない。魔術や占いの歴史を見ると、彼らが涙ぐましい努力をしていたことがわかります。彼らはその魔術のために人を雇い、あたかも本当らしく思わせたり、予言を実現させるために、その予言通りに例えば暗殺させたりとか、様々な謀略を重ねていたといわれます。そうして自分たちへの注目を維持していたのです。これに対してフィリポはもっと素朴な、しかし強い信頼感を与えたのでしょう。技術(魔術)ではなく、福音すなわちキリストの出来事による神の支配の始まりと未来展望によって、新しい生き方、新しい命を与えられたと感じたのです。もちろんそこまでは書かれておりませんが、おそらくそうでしょう。ただし、悪霊の追い出しといった、やや呪術的にみえる行為や医療行為もひと役買っていることも事実でしょう。
ここでもう一度確認しておきましょう。福音書や使徒言行録によく出る悪霊とか汚れた霊というやや一方的な表現に込められた意味です。これはいわゆる精神病的な様態である、とみることもできますが、他方で、いわば世俗の、あるいはローマの支配の中で、それにどっぷりとつかっている人々、具体的には偶像崇拝を含むさまざまな宗教や魔術に傾倒している人々のことを比喩的に言っているのかもしれません。ただし中風患者とか身体に障害を負っている人々に言及しているので、偶像崇拝者などの比喩ととるのはやや無理があるかもしれません。つまり、実際の狂気や病気の治療に深くかかわったといえるでしょう。しかし、こうした治癒行為による人気が福音の信仰へとまっすぐに結びつくのでしょうか。むしろ治癒自体が目的であり、それ以外を民衆が望んだのでしょうか。それだけなら、キリスト教の未来は広がるはずがありません。そしてキリスト教が現に広がったことから見ても、やはりそこには福音への信頼という根本的な事実があったと考えるほかはありません。つまり、民衆は表面的な病気や狂気の治癒ではなく、自分の人生や生きている社会でのふるまい方全部を新しくもっと確かで生きやすい、あるいは平和で安全なものへと変えることを求めていたのであり、だからこそ、それに応えるフィリポによるキリストの福音が非常に大きな力となったのです。その結果、魔術師シモンも含め信仰を持ち、洗礼を受けたのでしょう。
しかし、話は続きます。不思議なことにエルサレムの使徒たちはサマリアで福音が受け入れられたことを知るや、ペトロとヨハネをその地に派遣します。エルサレム教会は迫害されたとはいえ、使徒たちはその地で頑張っているのです。なにしろ、エルサレムはユダヤ教の中心であり、自分たちもユダヤ教の新派としてその地に根を張るべきことは自明なのでしょう。その中心から幹部二人がやってきます。ここで不思議なことが記されています。要するにサマリアの人々は洗礼を受けて福音を受け入れたが、まだ聖霊は受けていないというのです。明らかにフィリポの権威とは別の、より高い権威からの言葉です。つまり、聖霊は正式な手続きがなければ受けられない。エルサレムの使徒の権威のもとに伝統的な按手、つまり犠牲の獣に手を置いて霊の転移を図ったあの犠牲の儀式(レビ記参照、ただし贖罪のための汚れの転移である)なしには受けられないというわけです。ここには明らかに使徒的権威の表明、いやより強烈に「宣揚」というべきものがあります。こうしてキリスト教のサクラメントの権威(要するに客観的な手続き)の基礎ができていくというわけです。それゆえ「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」と書かれているのです。
では聖霊を受けたということの現象的側面、つまり聖霊が降ったときどうなったのでしょうか。一説には、何らかの異言を語ったのだろう、と言われますが、どうでしょうか。たしかに聖霊降臨と異言はかかわっていますが、あれは異言というより、外国語とみる方が適切でしょう。何らかの宗教的現象を伴ったのかもしれませんが、それは悪霊の憑依と似たようなものでしょうか。私は、聖霊が降るとか、聖霊に満たされるという場合の「聖霊」は、かつてイエスの痕跡と申しました。そして先週はより具体的に「イエス・キリストの思い」と規定してみました。要するに、異言だとか、外国語だとかを話すといったような、異様な現象のことはなく、福音を伝えられるなかでキリストの思い、すなわちキリストの慈愛、神の愛に気が付き、その思いにその人自身が満たされ、同時にその救いの大きさと深さに言葉を超えた感動を味わうことである。それは外から見たらある種の現象を伴う場合もありましょう。涙を流したり、感謝の言葉を発したり、それこそ言葉にならない言葉を発することもあったかもしれません。ともかく、現象の背後というか、一人ひとりの心の中での感動が第一であることは間違いないでしょう。
ただし、この個所ではそうしたことには触れておりません。話題は別の方向に転換します。すなわち、あの魔術師シモンの再登場です。彼は使徒たちが按手によって聖霊を降すのを見て、「お金を持って来て」「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と言ったというのです(19節)。なんとも露骨な話ですが、要するに使徒的権威を金で買いたいというのです。ちなみにそうした宗教的権威(利権というべきか)の売買を「シモンする」というのだそうです。もちろん使徒たちは彼を厳しく諫めます(20-23節)。もちろん、シモンはその愚かさに気付き、使徒たちに取りなしを願っています(24節)。この記事を読み、だれでも気付くのは、かつてローマ教会が売り出した贖宥状のことです。煉獄から逃れる手段として、すでに誰かによって積まれたとされる天の富を証券化して売りだし、それを買えば罪の一部を償却できるという経済的な合理性に基づいた贖罪システムです。もちろんこれは例の二酸化炭素排出権を金で買って自分の国が排出しなかったことにするというのとも似ています。つまり、権利はいろいろ証券化され、それの売買は合理的、かつ合法的である、というわけです。日本では宗教法人が売買されていますが、これもそこに利権があり、それを金で買うことは合理的であるのです。
権威や権利、利権を金で買うということは、広く社会に蔓延していますが、この時代の初代教会にさえ、そうしたことがほのめかされているというのはやや驚きです。しかし、そうした権威の売買のようなことはかえって普通にあったのかもしれません。それゆえに、ルカはこのような話を残したのでしょう。キリスト教は聖霊を与える機械的なシステムではない、むしろそれは心からの悔い改めと、それにこたえる本当の権威によるのであり、それはキリスト・イエスに起源するものでなくてはならない。
ただし、その権威を独占するのが使徒に連なる教会的権威であるとなると、それはそれでいかがなものかと思う。確かに、ルカ文書はそうした権威を擁護する立場に立っているように見えます。他方で、やがてこの書の主人公となるパウロは使徒的権威の外にいた人物である。とすると、どのような経緯が背後にあるかは不明瞭とはいえ、その権威は相対的であるという見方も可能でしょう。ただし、そのパウロは使徒的権威を超えて、直接イエスの召命を受けたと主張する点でやや異質であるのですが、このことはまた改めて考えたいと思います。
ペトロとヨハネは一連の活動を終えるとエルサレムに帰って行ったと言われます。彼らが登場したのは、やはりステファノの殉教後、フィリポに代表される伝道者たちの権威を二次的に位置づけることにあるように見えます。キリスト教は次第に使徒的権威に基づいて制度化されていくのですが、その際、聖霊をやはり非常に大切にしているように見えます。なぜでしょうか?
イエス自身はすでにいない(天にいる)。そしてやがてはイエスを直接知る使徒たちもいなくなります。ではだれがどのように未来に向けて福音を伝えるのでしょうか。もちろんそれはやがて聖典として結集されていく新約聖書が大事な道具となります。そしてその権威も絶大です。しかし、それは読んで解釈しなければなりません。それは結構大変です。しかし、使徒たちによって始められた(しかもそれは古くからの伝統を持つ儀式である)按手の儀礼を通じて、聖霊がつながっていくという信念です。これは使徒から弟子へ、弟子からさらにその弟子へつながっていくと信じられ、現在もそう信じられている。ということは、その儀式を通じて、聖霊が、私の言葉で言えばイエス・キリストの思いがそれに与る人を満たし続けるのです。聖霊とはイエスの痕跡、つまり思いのことだとすれば、それを忘れたときに、正確に言えばそれを伝えることに失敗すると、その命脈が途絶えるのです。だからこそ、キリスト教の正統派は、その伝え方を慎重に、厳格に守ってきたのです。
しかし、その伝え方に拘泥するあまり、その中身の豊かさを見失ってはなりません。サマリアの人々がフィリポと出会い、すでに福音を受け入れ洗礼まで受けていた事実を見逃してはなりません。そこに聖霊が下りていなかったとは到底断定することはできません。ルカがそう書いているにもかかわらず、です。私たちはキリストに連なるものとして、それを伝えていく義務も持ちますが、形はどうあれ、福音が人々の心を満たし、心が新たになることを中身とすべきでしょう。その時にはすでに聖霊も同時に働いているはずですから。そしてそこにはすでにキリストが臨在しているのですから。