砧教会説教2015年9月20日
「パウロの召命、あるいは再出発」
使徒言行録9章1~22節
この個所はパウロの回心を物語るよく知られている断章です。彼はまだヘブライ語の音でサウロ、すなわちあのサウル王にちなんだ名で記されています。このサウロは生まれたばかりのキリスト教を迫害していました。すでに読みましたように、サウロはステファノの殺害に同意していたとされています。非常に熱心な迫害者であり、時代が違えば犯罪者であり、非常に危険な人物であるといってよいでしょう。他方で、彼は当時の偉大なラビ、ガマリエルに学んだファリサイ派の論客でもあります。さらに彼は天幕づくりを生業とし、ローマの市民権をもって各地を巡っていたと思われます。そのような彼が、ダマスコへの途上でイエスの幻にであったというのです。この物語に記されたことをどれほど真剣に受け取るべきなのか、私は正直、よくわかりませんでした。奇想天外な話であり、いったいそれをだれが見ていたのか。主観的な(心的)出来事を誰かが聞いて残したのかもしれませんが、古代ならともかく今の時代の人々は、この話をまともに聞くことはなかなかできないでしょう。
しかし、ルカ文書はこうした幻の話をたくさん残しています。ルカ福音書の誕生物語、エマオで出会った復活のイエス、そしてサウロの物語の後に出る、コルネリウスやペトロの幻の記事がそうです。このサウロの話は、必ずしも特別ではないといえるでしょう。
しかし、こうした幻は話としては興味深いとしても、それをどのように受け止めるべきなのでしょうか。サウロという迫害者がこれをきっかけに回心したという趣旨を知るだけでよいのでしょうか。
さて、ひとまず本文を読んでみましょう。「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それはこの道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムへ連行するためであった」(9章1節)とあるように、ダマスコのユダヤ人共同体にキリスト者を密告させるために、大祭司に指示書を出すよう求めている。非常に周到な準備をして、合法的な取り締まりを行うのである。それにしても、警察権がない世界で(ただしローマの軍隊がいる)、一人のユダヤ系ローマ市民は自らの立場に一定の法的根拠(大祭司の書状)をもとに、この新しいセクト運動に警察権を行使しても良いのだ、と見える。それにしても、それがパウロ一人によって遂行できるものではないだろう。迫害あるいは警察権の行使には、当然集団としての力があるに違いない。ファリサイ派を含むユダヤ教保守派の全体的意志、つまり大祭司の権威も動員されていることから、迫害の規模は相当大きいと思われる。
このような断固たる姿勢で取り締まるために、ダマスコへ向かったパウロであるが、その途上で「天からの光が彼の周りを照らした」とルカは語る。ここからはルカのファンタジーになる。サウロは地に倒れしまうと、呼びかける声を聞く。「なぜわたしを迫害するのか」という。サウロが尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。……起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。聞こえたのは声だけで、姿を見ることはなかった。それどころかサウロは視力を失っていたのである。もちろんこれは先に現れた光、つまり神の栄光に触れたせいであるが、そんなことは解説されていない。彼は三日間目が見えず、食べも飲みもしなかったという。ただし、こうした憑依現象は特に珍しいものではないだろう。こうした現象的側面よりも重要なことは、この記事の意味である。この記事はパウロの回心において重要な箇所であるが、わたしはこの個所全体の意味を彼の回心とみるのには、いささか疑問を感じる。なぜなら、今取り上げた個所は、イエスに直接出会って使命を受け取るという、彼の召命というべきものであり、回心といったものではないように感じられる。これについてはこの先でもう一度触れたいと思う。
さて、これに続くのはダマスコにいるアナニアという弟子に起こった出来事である。彼にも「主」の幻が臨んだ。アナニアはサウロの危機的状態を回復する使命を与えられるが、もちろん彼はその使命に違和感を覚える。なにしろそのサウロという男が恐るべき迫害者であることをすでに知っているのである。これに対し主は「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示そう」と告げ、アナニアをサウロのもとに遣わした。アナニアはサウロの上に手を置いて彼を癒す。これはサウロに聖霊を満たすわざであった。その結果かれは目からうろこが落ち、見えるようになった。
サウロはアナニアという第三者の働きかけを通して癒された。そして聖霊を受けた。つまり、この時から彼はキリスト者になったのである。それは彼が主体的に選び取ったことではない。これは彼の意図とは関係なく起こったことである。ある人がキリスト者になることは、その人が自分で選ぶことだ、と普通は考えてしまう。もちろんそれを選び取るためには、誰かの話を聞き、書物を読み、それに感化されるという面があるが、やはりその人がキリスト者であろうと決意する、あるいは他の宗教ではなくてキリスト教を選ぶのである。すなわち自己の責任においてキリスト者になる。しかし、サウロの場合は、そうではない。彼の思いとは別の、神ないしイエスによる選びである。神がサウロを選んだ。そしてサウロはそのことにやがて強い自覚を持つようになる。例えば彼は、私が語るのではなく、私を通じて主キリスト自身が語るのである、という言い方をするが、これは彼が、自らを神の器として自覚しているともいえるし、神の権威を借りて自分を語っているともいえるが、本日の記事を通して言えるのは、彼自身の思惑とは全く別の、すなわち単なる自覚とは水準の異なる、強烈な力、すなわちカリスマ(上からの賜物)を得て、ないし囚われて、語り活動しているというべきであろう。
もちろん、こうした強烈な選び、すなわち召命は、旧約の時代に現れた預言者に特徴的である。ほとんどの預言者は、命の神ヤハウェのいわば道具となる。そして、その困難に満ちた生涯を生きることになる。彼らの生涯も、サウロと同様、自分で選んだものではない。イザヤにおいては主体的に神の召命にこたえているように見えるが、それとて、もとは神ヤハウェの幻と天使の炭火による赦しという象徴的出来事による自らの刷新を受け入れた結果である(イザヤ書6章)。つまり元来は受け身の出来事であった。モーセにおいてはあの燃える芝の出来事のうちに現れた神の声との対話が存在するが、もちろんこれもまたほとんど一方的であることは言うまでもない(出エジプト記3章)。(まったく身近な例で恐縮だが、わたしがかつてインタビューした霊能者も、そうした幻での体験を語ってくれた。彼もまた自らの意志ではなく、瀕死の状態での観音様と出会いを語っていた。そして彼はそれを機に修行を始め、やがて霊能者として大衆の悩みを救っている。)このようにサウロに起きた出来事は、預言者の召命であり、それは彼自身の回心にみえるが、ほんとうは神の言葉を語る道具となること、いや、キリスト教なのだからイエスの預言者となることであった。
しかしながら、わたしたちは問いたくなる。ファリサイ派であった彼は、本当は初めからキリスト教の真理性に気が付いていたのではないか、と。彼はそれに気づいていたからこそ、こうした出来事を受け止めることができたのではないか、と。しかし、このような見方は合理的すぎるとも思う。やはり、彼は捕らえられたのであり、召されたのである。このことをキリスト教信仰一般に拡大することはやや危険であるが、キリスト教徒になることは一見自らの選びにみえつつも、それは選ばれた、あるいは出会われた、あるいは神の方がこちらに歩み寄ってきてくれたと解釈しうるのかもしれない。アブラハム・ヘッシェルは『人間を探し求める神』というタイトルの書を書いたが、彼によると一般に人間は自分が神を求めていると考えるが、実は神自身が人間を探し求めているのだと主張する。つまり、人間が求めている神は実は神ではなく、自分の欲望を実現させる力にすぎないのであり、それは神ではなく、結局はこの世の力にすぎない。ユダヤ教でいう神とはそうした人間の求める対象などではなく、人間の思惑の彼岸において立ち現れる神であり、つまりは神が人間をとらえるのである。思うに、真の宗教とは本質的に自分の力で獲得する真理ではなく、向こうからやってくる真理であろう。サウロの回心と言われるこの記事は、サウロを神がとらえたのであり、主体的な回心ではない。たぶん一般に回心と呼ばれる事柄は、実は向こうからやってきたものにとらえられることなのかもしれない。
さて、サウロはアナニアとの出会いを経て、聖霊を受け、食事をして元気を取り戻し、ダマスコの弟子たちと交流を始め、ついに神の子イエスについて宣教を始めた(20節)。これを見た人々は非常に驚き、怪しむが、サウロはイエスがメシアであることを論証していったという。
サウロの話は、劇的な展開となったが、もちろんこれはルカの文学的構想力に基づいているだろう。したがって、実際のパウロの召命の姿は明らかではない。しかし、ここに残された記事には真実が反映されていると思う。つまり、彼は選んだのでなく、選ばれたのである。だからこそ、彼の手紙はどこか非常に謙虚であると感じられるのだ。あれほど自意識に翻弄されているように見えるにもかかわらず、である。彼が語ったいわゆる「愛の賛歌」をみても、主体的な信仰を却下し、愛すなわち自己を捨てることを優位に据えているが、これも彼のこの出発点にかかわっていると思われる。キリスト者をとらえ迫害し、殺しさえする一人の過激な迫害者を、かえって赦し選び、働き手とさえするイエスの選びには、彼を謙虚にさせる力があるのは明らかであろう。
ただし、彼は単にイエスの代弁者になるのではない。彼はイエスの出来事の宣教者となるのである。もはや彼は預言者ではない、つまり世の乱れを非難し、審判を語り、民を立ち返らせる役割を担うのではなく、彼はすでに神の支配と救いはすでに起こっていることを伝えるのである。これはイエスの出来事を完了形で語ること、すなわち、世界は新しく始まったことを告げているのだ。そしてその新しい世界にふさわしい生をすぐに獲得できることを示す。もちろんそれは律法ではなく、キリストを受けいれること、すなわち、信仰である。そしてそこから新たな命が立ち上がるのである。パウロにとって、イエスにとらわれた経験は召命であると同時に、自分自身の再出発でもあった。
このことはパウロにおいて特殊に起こったことに思われるが、決してそうではない。それは私たちに一人一人にとって、その劇的さの程度において差はあるにせよ、その構図は多分変わらないと思う。すなわち、私たち一人一人が、あのダマスコの途上の出来事を経験しているのである。だからこそ、日ごろの自分の思いを捨てて、キリストに従うことができる。もちろんすべての瞬間がそうとは限らないが、それでもキリスト者は、自分の思いとは別の、思いもよらない活動ができるのである。これを神の選びによる「愛の力」と呼ぼう。パウロの召命の物語を読んで、改めてその力を世に向けて発揮したいと思う次第である。