日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年9月27日
「貧しい人を忘れないでください」詩編10編1~18節
 この詩編は前の9編と一体であったらしい。ギリシア語訳とウルガータはこれを一つに見ている。9-10編はおおむねアルファベット詩になっているので、元来は一つであっただろう。ただし、現在のテキストはアルファベット順の構成は乱れているので、伝承過程で何らかの不都合があったのかもしれない。
 さて、こうした構成の観点ではなく、内容的に見ると二つは分ける方がよい。先週から今週にかけて9編を交読しているが、9編は「異邦の民」に対する敵愾心が強烈であるのに対し、10編では「神に逆らう者」に対する非難が目立つ。ただし、どちらの詩にもこうした敵対者にたいして「貧しい者」に言及している。
 さて、10編を見ていきたい。まず神への問いかけから始まる。「主よ、なぜ、遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」と。この問いの背景は、何ら書かれていない。以前にも触れたが、詩編は具体的な歴史の状況にほとんど言及していない。ここでも「苦難の時」とあるが、これがいつの時なのか、そして誰にとって苦難なのかは、よくわからない。もちろんこれは意図的な態度だろう。詩編を編纂した人々は、具体的に書くことを意識的にやめて、この詩が誰にとってもいつの時代においても、その人と時代の苦難に重なるように書いたのだ。日本の歌謡曲によくある「あの時」「あの夏」「あの町」という表現は、そこに誰もが何かを重ねられるようにできている。それゆえある人は自分の思いをその歌に託して記憶するだろう。つまりはやり歌は実はたくさんの人の思いを乗せることができるゆえに、「はやる」のだいえるだろう。
 詩編も、おそらくそういう力を持った歌である。しかし、それでもなお、この歌を書いた人がその時誰の苦難を思っていたのかを知りたいとも思う。そのカギはおそらく「貧しい人」にあるだろう。そして9編と関連させれば、「異邦の民」への言及はやはり捕囚から帰還した後の、ユダヤ地域、そして都エルサレムの状況に関連するであろう。つまり、都が陥落し、王国が滅亡し、さらに捕囚となってしまった後には異邦の民が当然住み着いたのである。やがて50年後に戻ってみたら、世界は変わっていたというのが実態であろう。もはや声高に自分たちの権利を主張できるとも思えないが、やはり故郷である。何とかして自分たちの町を再建したい。しかし、それは非常に困難であった。こうした事情はネヘミヤ記の前半に多少とも残されている。したがって「貧しい人」とは、経済的貧困という意味ではなく(もちろん含んでも良い)何らかの権利を失っている人と考えるとよいだろう。住む権利、仕事をする権利、そして自分たちの宗教を保持する権利などいろいろ考えられる。
 さて、2節で「貧しい人」を責めている「神に逆らう者」とは誰だろう。これは単に異邦の民というのではなく、「貧しい者」の宗教を否定し、迫害する者のことである。つまり、ユダヤ地域にいる人々で、多分もともとイスラエルに民であったにもかかわらず、今では確固としたヤハウェ信仰を捨ててしまった人々のことだろう。さらに言えばパレスチナの土着的宗教や世俗の富と結びついた偶像崇拝をしている人たちだろう。
 彼らは「自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている」(3節)といわれ、形だけは主を讃えているというからには、イスラエルの同胞であったはずである。しかし、もはや形だけである。ただし彼らは権力者である。だから、貧しい者や「不運な人」「罪もない人」を捕らえ、暗殺するという。これはただ事ではない事態である。この背景には何かあまりに恐るべきいびつな対立があるようだ。いったいこれを書いた、ないしは歌った詩人はどのような気持ちで状況を見ていたのだろうか。それともすべてフィクションなのだろうか。私は違うと思う。レトリカルな詩ではあるものの、この背景には非常に深刻な対立が帰還後のユダヤ州にはあったのだろう。それを想起するために、やや時を経て詩人は技巧を凝らした歌をつくった、というのが真相だろう。11節は新共同訳では「不運な人」の嘆きのつぶやきのように訳しているが、フランシスコ会訳は全く違って、そうした不運な人々を迫害する「神に逆らう者」ととっているので、神は自分(迫害する者)を見過ごし続けるだろうという意味となっている。
 さて、12節以下は神への呼びかけと期待である。この現実を何としても逆転してほしい。だから「貧しい者を忘れないでください」と呼びかける。現実にはこの貧しい者たちは見捨てられているかのようである。この個所を説教題としてえらんだのは、打ち続いているシリアの戦乱から逃れている100万を超える難民たちのことを思ってのことである。彼らはこの詩編の事情とは逆に、祖国を追われたり、仕方なく脱出したりした人々である。彼らはどこの地に逃れても、「国民」でないから、権利がない。それどころか全くのお荷物である。それゆえ、ヨーロッパではたらい回しに見える事態が続いている。このような難民の祈りがこの個所の祈りに重なる気がしたのだ。もはや自分たちの力が及ばない事態に至って、しかしなお自分たちの人生を切り開いて生きるしかない。そのとき、彼らは(そしてわたしたちも)「立ち上がってください、主よ。神よ御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください」と祈るだろう。この言葉にはとりわけ切実さを感じざるを得ない。そして他方で「なぜ、逆らう者は神を侮り、罰などない、と心に思うのでしょう」と問わざるを得ないのである。このような感慨は、この日本での先々週の国会での安保関連法案の成立と沖縄の知事の困難な決断(工事許可の取り消し)を前に、思わず語りたくなるフレーズである。
 しかし、詩人は次にこう言う。「あなたは必ずご覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてお任せします。あなたはみなしごをお助けになります」と。最後は主にゆだねるほかはない。もはや先に進めない、立つ瀬がない事態に臨んで、このように歌うしかないのは、しかし、あまりに無念である。わたしたちは政治的社会的な抑圧という次元だけでなく、病や老いという実存的個人的次元でも、もちろんそうした無念を歌わざるを得ない。しかしよく見れば、これは無念ではない。あなたに任せるという言葉は、もう私は悩むこと、泣き言を言うことをやめます、そしてこの世界の転換を未来に託しますということです(そしてそれはやがて「復活信仰」を生み出すのだ)。しかし、それだけでなく、「逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き、彼の反逆を余すところなく罰してください」と付け加えて祈る。これは旧約的伝統では当然の、同害報復の理念に基づくのであって、ルサンチマン(怨恨感情)というだけではなく、正義の回復ということだ。したがって、主に任せるとは、あきらめることではまったくない。わたしの生きている時には無理でも、未来にはそのバランスが回復されることを願う。これこそが「歴史」を形成する。つまり「歴史の形成」とは過去や現在を未来につなげることなのである。だからイスラエルの民はこのテキストすなわち旧約聖書を残さねばならなかった。そして、この書は単にイスラエルの人にとどまらず、苦難に打ちひしがれる者はだれであれ、このテキストを通して、自分たちが生きるべき道を見出し、あるいは自分たちの未来を展望するであろう。
 最後には、前の9編の2-3節と呼びかけ合うように、主の支配による世界の完成を展望している。「主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消えるでしょう。……この地に住む人は再び脅かされることはないでしょう」と。これは取るに足らない願望とみてはならない。この願いこそが、信仰に根差した、未来を拓くもっとも素朴で、しかし最も強い願いなのだから。
 最後に、わたしたちはこの歌の「貧しい人を忘れないでください」という言葉を今こそ主に呼びかけるときなのかもしれないと思う。それはもちろん祈りとして。当たり前だが、この言葉は神に逆らう者にはどこ吹く風なのだから。だから例えば「憲法守れ」と政府に叫んでも無駄である。この政府を倒そうと呼びかけ集まるのが正しい。しかし、困難な時代は続くだろう。それでも、わたしたちは「あなたにすべておまかせします」という根本的な態度を魂の奥に秘めておくべきである。
 この詩編から読み取れるこの詩人の強靭な信に触れることができて幸いである。