砧教会説教2015年10月11日
「本当に重要なことを見分ける」
フィリピの信徒への手紙1章1~11節
フィリピの信徒への手紙はパウロの獄中書簡の一つとされています。エフェソの地で獄につながれていたときの手紙であると学者の間では推測されており、パウロの伝道活動がどれだけ困難に満ちたものだったかを伺うことができます。そのパウロを、フィリピの教会の人々は物心両面で支えたのでした。このことは手紙の最後の方(4章10節以下)でパウロが感謝の言葉を記していることからよくわかります。
ところで、このフィリピという町はどんな町かというと、使徒言行録16章12節には「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市である」とあります。この町は大王アレクサンドロスの父フィリポス二世が占領した時にそれまでのクレニデスに変えて自分の名にちなんで名付けた町です。その後紀元前31年にローマがエジプトを滅ぼした後、この町に軍人を住まわせ、ローマの植民都市となったのでした。市民の大部分はローマ市民権を持つようになり、パウロの時代には当然ローマ皇帝の直接的影響が強い都市であったのです。パウロはマケドニアの最初の伝道地としてこの地に入り、このような性格を持つ都市に婦人たちを中心とした教会を設立したのでした(使徒言行録16章13節以下)。その後この教会はパウロの伝道を支援するようになり、パウロが獄中にあったときでさえ、彼を支えたのでした。このような実に協力的で有難い教会に、彼は感謝と励ましの手紙を書いたのです。研究者はこの手紙は一時に書かれたのではなく、3通の手紙を編集したものとみています。つまりフィリピの教会に残された手紙を編集したものと見ているのです。確かに日本語で読んでも3章1節後半から調子が過激になっています。これは教会への敵対者に対する非常に辛辣な言葉にあふれています。したがって1章から2章までとは時期が違うのでしょう。手紙の成り立ちにはいろいろ説がありますが、ひとまずそれはおいて、本日の箇所を読んでみます。
今日の箇所の最初の見出しは「挨拶」、次に「フィリピの信徒のための祈り」とあります。いかにも手紙らしい形です。最初の挨拶には宛先に続いて、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように」と書かれています。すでに神とイエス・キリストの二人からそれらが由来することを語っています。イエスが昇天したと信じられた後、イエスはキリストとしてすでに神と同じ地位にあるという考え方が浸透し、神格化が進んで行きます。したがって、恵みと平和は両者の名において告げられるのです。このことは、私たちにはもはや普通の、というか、すでになじんでしまった言い方ですが、しかし、こうした定型句を聞いたユダヤ教の人々は全くけしからぬことと感じたはずです。なぜ神だけでなく、イエス・キリストも、なのかと。おそらくもはやこの時期にはすでにキリスト教は自分たちをユダヤ教とは違うのだということをはっきり意識していたのでしょう。パウロは、ひとまず「神」とは言いますが、中身はイエス・キリストであり、彼のその生涯と最後の出来事によって、彼は神の右に座した、つまり永遠のキリストとなって、世に救いの力を及ぼし続けるのだ、と考えたのでした。
4節ではこれまでの援助に対して感謝を述べます。そしてそのあと5節以下にはフィリピの教会の始まりから今日まで福音に与っていると語りますが、これを証明するのは実は教会員の「善い業」によります。つまり福音に与っているということは、ただその人が心でそう思って悦に入っているということにあるのではなく、外から見てその人が良い業をなしているのかどうかに拠っているのです。パウロはそうした善い業を行っている人たちが、「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」といいます。ここで「キリスト・イエスの日」とはおそらく最後の審判の際のキリストの再臨を思い描いているのでしょう。パウロにとって、世の終わりとキリストの再臨、並びに審判は切迫していると感じられていました。そしておそらくフィリピの人々はそうしたパウロの歴史理解を受け入れました。そして再臨と審判にふさわしい「善い」生き方を貫くことを決意したのでしょう。
では、善い業となにか?ここには書かれていませんが、そこには自分が信じたキリスト・イエスを述べ伝える人を支えるということが含まれています。キリスト教は単に聖書を読んでいればわかって終わりというのではなく、聖書を解き明かす人がいて、人々に具体的に働きかけ、実際に共同体を作ることが肝心です。しかし、そのためにはリーダーが必要です。それをボランティアとするのではなく、もっぱらそれにかかわる人、すなわち伝道者を立てなくてはなりません。つまり、キリスト教は閉じられた共同体が喜んでいればそれでよいのではなく、喜びの共同体を広げていかなければならないと考えるのです。つまり喜びはともに分かち合わなければならない。自分だけ独り占めにするのは良くないのです。だから、町で仕事や商売をしている人は、その場にありながら、伝道者を支えるという意味での善き業に参与すべきなのです。要するに、善い業の一つは伝道への参与と援助です。
パウロはそのあと「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなた方一同のことを、ともに恵みに与ると思って」と言いますが、これは自分の働きはこのフィリピの教会の人々とともにあるということ、つまり協働作業なのだと言っているのです。そして8節ではパウロは「キリスト・イエスの愛の心で」この教会員を思っていると語ります。この「愛の心」と訳されていることばは「憐みの心」とも訳せる言葉で、実際2章1節ではそうなっています。パウロはすでに自分のフィリピの人々への思いをキリスト・イエスの慈しみの思いに重ねています。これは単なるレトリックではないと思います。パウロはキリストからの召命によって、意外にも迫害すべきものの擁護者、弁護者になりましたが、これはイエス亡き後の後継者は自分自身であると強く感じていることの証です。だから彼はイエスに自分を重ねている。それゆえ、もはや彼が語るのではなく、キリストが語っているのだ、と感じていたはずです。このような強い思いをもってフィリピの教会の人々を勇気づけますが、そのあと、「知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」という祈りが始まります。
祈りというより、これは勧告というべきものでしょう。キリスト者は知る力と見抜く力を兼ね備えなければならない。これらはやや漠然としていますが、要するに物事をしっかりと見極めることです。具体的には何を見つめ、見極めるのか?それはこの終末が近づく時代に何が最善であるかということです。しかし、何が正しいことか、だれが正しいのか、は簡単にはわからない。このローマの植民都市では正しいのはローマの皇帝の命令に従うことと、この地の様々に混交した宗教的伝統への参与でありました。それは当然であり、疑うことはたぶん許されない。そうした中で、パウロは新しい真理を宣教していますが、これはそうした伝統やローマの支配を疑うことを意味します。もちろんそれを肯定する結論もあるに違いないが、少なくとも彼らは疑って、最善の生きるべき道を見出さなければなりません。その意味で、この勧告は実は非常に重要な意味を持つのです。「本当に重要なこと」は何か。それはキリスト教ではイエス・キリストを主と仰いで、その教えにしたがうことと言ってよいでしょう。もちろんこんな漠然としたことでは困るので、じつはユダヤ教の律法も大切にしています。ただ、それは異邦の新しいキリスト者にはよくわからない。そこで、実際の行為として、あのイエスの活動、すなわち愛の実践をするということに落ち着きます。しかし、より根本的にはローマの権威や伝統的宗教と決別し、終末を前にして最後は世界を超えた者、神でありキリストを心の中心に置くということでしょう。これは単に内面的なことではありません。それはやがて外に向かって告白することを求められる。そしてこの世の支配とは別の支配をわたしたちは受け入れるのだと広く知らせることになる。そのため教会員は「キリストの日に備えて、清い者、とがめられることのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるように受けて、神の栄光を誉とをたたえることができるように」と祈られるのです。つまり、パウロの求めているのはこの世の習いとは別の、人間の真の生き方を生き抜けということです。
さて、このようなやや抽象的な祈りというか勧告から、わたしたちは何を思うでしょうか。
わたしはこの言葉を、この時代の人間への直接の忠告のようなものとして受け止めることができると感じています。私はこのところの祈りの中で、時代の変わり目とか、大きな力に翻弄され、一人一人が弱くなっていることに言及していますが、これは本当に重要なことを見極める力が弱まっていることを図らずも示しています。いや、本当に重要なことはわかっているのかもしれません。しかし、それをまじめにしっかりと打ち出す覇気がないというか、時代遅れなので言ってもしょうがないのでは、と妙に弱気になっているのかもしれません。あるいは教会が高齢化しているのでその力が弱くなっているという現実もあるかもしれません。
しかし、言うべきことを言う、危険なものは危険という、そして、はやりすたりに惑わされず、本物、真実を伝えるということが大事です。そして、高齢化しているからこそ、かえって未来の幻を語ることが必要でしょう。むしろそれがなければ未来は始まらない。そして信仰とはそうした幻の実現を信じることです。今や、臆面もなく暴力を前面に出すことがもはや普通になりつつある日本、そして世界で、そのような力とまったく逆の力で世界に新たな光をもたらしたあのイエスの出来事は、今こそ、その可能性の核心において、発信されなければなりません。フィリピの信徒への手紙のこの冒頭の言葉は、彼らへの祈りというだけでなく、まさに今のわたしたちが襟を正して聞くべき言葉であると思うのです。