日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年10月18日
「伝える者と信仰者の心構えについて」フィリピの信徒への手紙1章15~30節
 パウロは獄につながれている中で、この手紙を書いたとみられます。本日読んでいない12節には「わたしの身に起こったことが、ますます福音をひろめる結果となっています」とあるように、迫害を名誉とするくらいの毅然とした伝道者の姿が、第一に浮かんできます。しかし、よく見ると伝道者の思惑が二通りあるらしい。そのことが本日の箇所の最初の言葉です。「キリストを述べ伝えるのに、ねたみと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者もいます」と15節にあります。この言葉は、次の文と照らすと理解できます。「福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうする」とはパウロに同調して、あるいは慕ってキリストの信を述べ伝えている人々、つまり善意でする人が一方にいる。他方はパウロとは違う立場でキリストを宣教する者がいる。彼らはパウロの考えと活動に対して批判的な立場でキリストを述べ伝えている者で、「獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを知らせている」人々がいる。こちらが「ねたみと争いの念にかられてする者」ということになるでしょう。
 しかし、パウロは18節で次のように言います。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」と。不思議な言葉です。彼を批判し、貶めるためにキリストを述べ伝えている者でさえ、「キリストを述べ伝えている」というその一点で、それは喜ぶべきことである。パウロに対する見解や態度とは別に、キリストについて宣教することは喜びである。つまり、パウロは自分の考えるキリストの弁明とは違うからと言って、他の弁明をする人々、パウロに敵対的な人々の弁明も当然有効であると考えているのです。ここにはパウロ自身が自分を相対化し、自分の考えに従わなければだめだというような度量のせまい伝道者ではないことが示されているように見えます。もちろん、パウロは教会内で議論となっている様々な考え方、ユダヤ教の律法をどうするかとか、異邦人とユダヤ人と改宗者の位置づけとか、いろいろ議論がある中で、一定の見解を示し、それを指針とすべきという態度です。しかし、そうしたこととは別に、数ある伝道者の思惑の違いに捕らわれて、互いにつぶしあっていく、つまり内部分裂して、結局全体としての宣教がしぼんでいくことは避けなければならない。そのことを強く意識した言葉がこの18節でありましょう。私は現状の日本のキリスト教の展開を見るにつけ、こうしたパウロの寛容さ、うがった見方をすれば、戦略的思考、リアリズム、と言える見解にある種の感動を覚えます。
 さて、彼はキリストが何はともあれ告げ知らされていることが喜びであると言いつつも、この喜びを生み出す支えとして、フィリピの教会の祈りと、キリストの霊の助けがあることを加えています。単に宣教の喜びだけでなく、背後の祈りと助けがあるということ。(この19節の「このことが私の救いになる」という句はヨブ記13章16節からの引用とされるが、文脈上どうなのか?唐突な感じがする)。20節からパウロは次第に高揚し、「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によって」キリストを明かしすることがやがて公然となり、恥をかくこともなくなることを願うのである。すでにパウロは自分の命を惜しむことを捨てている。そのことを次の文でこう言っています。「わたしにとって生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と。これはすでに殉教の思想となっているが、要するにパウロの歩みはキリストに重なっているのであるから、彼自身捕らえられてやがて刑場で殺されるとしても、すでに復活したキリストを証言する以上、自分の復活も約束され、神の国に入ることを確信しているのであるから、「死ぬことは利益」であるというのです。ここで注意が必要なのは、自暴自棄的に死の恐れを無理に忘れるとか、無念を感じながらあきらめて死ぬといったものではなく、死ぬことは「利益」であるといっている点です。もちろんこの考え方は大きな危うさを含んでいます。目の前の現実と戦うために、背後の世界、ないし彼岸の世界を打ち立て、そこですでに救われることが約束されているということを思い込むことは、現実の「死」やさまざまな苦難を乗り越えるための思考の形式であるが、これは殉教の精神と呼んでよいだろう。これは時には人の人生を棒に振らせることもありうるだろう。確かに、初期キリスト教は、例えばオリゲネスが『殉教の勧め』を書いたように、宣教のために命を惜しむことを軽蔑したように見える。しかし、これは世を軽蔑しているのではなく、世を救うためなのであり、この世を見捨てることとは全く違うのである。この点で、グノーシス主義、すなわち世を軽蔑し、世を捨てて観念的な救済の世界に入っていくのとは違います。ただし、のちのキリスト教は一般に世の課題や問題にとらわれることを軽蔑してきた。そして救済と現実世界とを切り離してきた憾みがあることは否定できません。確かに、このパウロの、世界に対する二元的な見方、あるいは次の22-23節に見られる言葉を読むと、この世での活動と死ぬこと(つまり死刑になること)を比べている感じがあり、しかも「この世を去ってキリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」などと言っていることから、彼は圧倒的に自分の彼岸的救済を望んでいるように見えるのです。
 しかし、そうではありません。これは自分を鼓舞するために、キリストの復活に与れることを強調しているのです。彼の真意は生きても死んでも(死刑になること)どっちでもよいといったものではありません。それどころか、どちらも完全に喜びであるといっているのです。だから、彼はこう言います。「だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう」。つまり、死んでキリストのもとに行くことが喜びであるなら、ましてこの世にとどまって生きてキリストを宣教することは喜びであるということでしょう。彼は自信をもってこういいます。「そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスにむすばれているあなたの誇りはわたしゆえに増し加わることになります」(26節)と。
 もしかしたら、この獄中からの解放された後のパウロに会ったフィリピの教会員は「復活」ということの真の意味を感じ取ったのかもしれません。「わたしがあなたがたのもとに姿を見せる」という光景を想像すると、復活のイエスと重なってくるのです。だからこそ、「あなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります」と言えるのでしょう。
 こうして27節以下の勧告に至ります。上のような高揚した思考を経て、最終的にはやはり「戦い」のメタファーを用いることになります。
 彼はまず、やや漠然と「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活をおくりなさい」と言います。これは愛の実践にあふれた生活をせよ、ということです。やがて教会のみなさんから次のようなことを聞けることをパウロは希望しています。すなわち「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のためにともに戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。」(27節)後半はややわかりにくいのですが、「このことは」に注目すると簡単です。つまりたじろがないことこそが、敵対者の滅びと自分たちの救いを示すということ、あきらめたりおびえたりするのではなく、毅然と耐えること、毅然と主張すること、そして最後は死を恐れずに歩むこと、この姿こそが、すでに勝利のしるしであるということです。脅しや迫害に屈することなく、たとえ途中で倒れようとも、その姿がすでに勝利を示すのであると。言い換えればイエスの十字架の歩みを歩むこと。これ自体が「神によることです」ということ。つまりあなたがたの不屈さ、勇気、信仰こそがすでに神の支配を明示しているということです。キリスト教は結局そうした不屈さ、勇気、愛の実践によってキリストの支配、いや神の支配を、暗示ではなく、明示してきたといえるでしょう。
 このことを一言でまとめるのが29節の言葉でしょう。すなわち「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。これはすでに見てきたように、パウロが「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」といった21節に応答するともいえるでしょう。苦しみ(死刑になることも含め)も恵みとして与えられているというのは「死ぬことは利益なのです」と同じ意味でしょう。
 こうしてパウロは自分の宣教の危機と命の危機に際して、自分自身を鼓舞すると同時に、フィリピの教会の人々を鼓舞しているのです。当然パウロの危機は教会の危機であり、彼らの苦難をも予想させるし、そうしたことが現実となっていたのかもしれません。その中でパウロは、非常に強烈なことを、確信をもって言っています。これを単なる二元論的な、かつこの世を離れた救いを志向しているかのように読むのはおよそ誤りであるといってよい。パウロはどちらも喜びである、というのです。それは、この世が喜びであること、それゆえこの世のために死ぬことは結局この世の救いが最も大切であることを示しています。つまりキリスト教はこの世で働いてナンボの宗教である。それを忘れたとき、キリスト教の命が失われるのだといえるでしょう。
 パウロが危機にある中で、かえって高揚して書いたこのテキストを、わたしたちがその危機を想像できないままに読むとき、きっと誤解が生じるでしょう。しかし、ひとたび想像できれば、実に力強い勧告であることに気付くのです。パウロのテキストだけでなく、聖書のテキストを著し、残した人々の息吹に近づく努力を続けたいと思います。