砧教会説教2015年10月25日
「互いに仕えあう共同体へ」
フィリピの信徒への手紙2章1~18節
先に見たように、パウロは迫害にあって獄中にありながらも、応援してくれる教会にあきらめることなく、励ましとさらなる祈りを求めている。それを「同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」(1章30節)と表現しました。
本日はその続きの箇所です。パウロの切迫感はかなり強いように思われます。もちろんこれは、獄中にあるために常に死と隣り合わせであるという緊張感が一見主な原因とみられます。しかし、彼にとって、神の支配の始まりに前後して起こる、古い世の終わりと審判という、より深刻な出来事の切迫感の方が大きいと言うべきではないでしょうか。しかも、そうした歴史理解は理解されず、むしろあざ笑われ、世を惑わす者として迫害されているのです。そうした状況を前提に読みませんと、なぜ1節以下の勧告がこれほどに執拗であるかがわかりません。普通の共同体(地域や部族、家族)に向けてこうしたくどいような勧告をわざわざ残す必要など考えられません。この章の言葉は、パウロとフィリピの教会の信徒の置かれた状況を思い浮かべないと、簡単には納得いかないものです。
さて、1節には「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら」という仮定ないし条件のような言葉を述べています。こうした冗漫に見える言葉の真意は、にわかにはわかりません。様々な人々の集う教会での真の交わりを作るには、各人にこれらの思いや心構えがなくてはならないということでしょうか。それにしてもくどい感じがします。しかし、この条件が一人一人に「いくらかでも」(1節)満たされるなら、つまり皆がそうした気持ちや心構えが少しでもあるなら、それらの気持ちや心構えをより大きなものとしてまとめなさい、つまり小さな力を結集しなさいということです。すなわち「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」(2節)ということです。それがパウロの喜びを満たすのです。ではパウロの喜びとは何か?言うまでもなく、迫り来る審判の時を教会が乗り越えること、つまりそこに集う人々が救われて新しい神の国に生きることが教会員一人一人にはっきりと確信されることでしょう。パウロの喜びとはそのことです。その喜びを、満足するほどに高めてくださいと願っているのでしょう。
そのための方法というか態度というか、それが3-4節の言葉となります。この言葉はそのまま読めば、何のことはない、単に互いに謙虚になりなさいという普通の道徳的なお勧めの言葉にすぎません。しかし、よく考えて見るとこのような態度をはぐくみ実践するのは難しいのです。だれしも振り返ってみればわかることですが、多くの行動は虚栄心や利己心から起こすものです。むしろそれがないと、例えば経済の発展はないのだともいわれます。例えば消費社会は隣の人の買うモノを買いたいという動機に支えられています。それは虚栄、要するに自分がほしいのではなく隣の人のほしいモノがほしいという奇妙な欲望です。欲望とは他人の欲望であるなどと言われますが、要するに自分は遅れていないことを誇示するのです。一方利己心はその逆で、他人を無視するか関心の外に置き、自分だけ得をしたいということです。それは投機の世界に一番はっきり見られます。他人に知られていない情報、あるいは他人には見つけられない理論を使って自分だけ膨大な利益を獲得したいといった心です。
そうした心を抑えることは非常に難しいように思えます。そしてパウロの時代になおさらそれが難しいのは、わたしたちが普通に考えるような、ひとまず誰もが平等で対等であるという近代的な感覚がおそらくは全くない時代であるという点にあります。当時は身分社会であり、ローマの皇帝と貴族、軍人は圧倒的に偉く、また大土地所有者、豪商の財力、ユダヤの大祭司一族の権威などもおそらく非常に優勢なのであり、他方農奴や普通の商人・職人、そして奴隷などは劣位にあることは言うまでもありません。おそらくある種のカーストのようなものとして理解しうるかもしれません。
そのような身分制度のなかで、そうした虚栄心・利己心を抑えるということは普通では考えられません。むしろそれが前提で成り立っている世界なのですから。
にもかかわらず、パウロは続けます。「へりくだって、互いに相手を自分より優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(4節)と。これは小中学校の道徳の時間ではありません。これは圧倒的な身分の差、貧富の差、あるいは血筋の差、家柄の差、に基づく区別や差別を前提にしている社会の中から出てきて教会に集まってきた人々に向かって言っているのです。高貴な人が奴隷出身の信徒にへりくだることとはどういうことか、家柄や民族が違う人々とどのように対等に付き合うのか?これはたぶん大きな問題です。そしてパウロはこうした問題に繰り返し対処しています。パウロの手紙はキリスト教の弁明より、教会のまとまりに心砕いていたと言ってよいほどです。
パウロはおそらく人間どうしの対等な関係を構築することがどれだけ大変かを知っています。そしてそのことをもっとも根本的なこととして人間世界の在り方の革命を目指したあのイエスも当然そうだったのです。だから次の節でパウロは語ります。「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と。そしてそのあとに、おそらく初代教会のキリスト理解のケリュグマとも言うべき文句を加えるのです。すなわち「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名に優る名をおあたえになりました」(6-9節)と。
この言葉は、パウロがへりくだって互いに仕えあうことを単に勧告として言うだけでは効果がないことを知っていることを暗示しています。つまりどんなに良さそうな勧告も、納得いく根拠がなければ実現しないのです。キリストが言ったことだからというのでも駄目です。だから「キリストにもみられます」と言います。キリストもそう言った、ということではありません。これはキリストの出来事、すなわち彼がさまざま困難の人々のところに歩み寄り、救い、それどころか彼らの罪さえ背負って十字架にかかったではないか、ということです。この出来事こそが、われらが教会に集まることの根拠であるのなら、すくなくとも、つまり十字架にかからずとも、みずからを低くすること、互いに低くすることは理解もできるし、実行できるであろう、というのがパウロの説得の仕方です。そうした新しい精神的な次元に教会の一人一人がたどり着くとき、キリストは初めてすべてのものの頭となるのです。そのことを、非常に誤解を招く言葉で言っているのが10-11節です。何かキリストが全宇宙の王であるかのように。パウロはおそらくそのイメージで自分を奮い立たせていたでしょうし、教会もそうかもしれません。しかし、これはあくまでへりくだった最後の地点での逆転のようなものであり、上へ上へと昇って行ってついに獲得した頂点のようなものではありません。ですから「イエス・キリストは主である」という告白の完成が「イエスの御名にひざまずく」という皇帝礼拝の比喩で語られているにもかかわらず、これは全く逆のことを意味しているはずです。すなわちキリストがすべての人の下になって世界を支え続けていることの尊さ、有難さにただ倒れ伏して感謝するという姿です。これを誤解すると、のちの中世的世界、あるいは過剰に厳格なプロテスタント教会の権威主義になっていきます。そして現に今だってそういう傾向をまぬかれません。
だから、パウロの言葉はやはりしっかり解釈されなければなりません。そうしないとおそらく真意にたどり着かない。なるほど、解釈者の数だけ解釈があり、真意などないという人もいます。しかしそれは単に自分の解釈の正当性を担保するための姑息な主張にすぎません。ある解釈の妥当性の高さは歴然としています。(だから、たとえば古代の寓意的解釈は捨てられているし、逐語霊感説もほぼ相手にされないし、さらに進化論を否定するような原理主義的なものも同様である)。つまり、パウロの時代と世界観を正当に評価しながら彼の思いをなぞりつつ、なおそこから私たちの時代へのメッセージをくみ取ることが真に聖書を読むということでしょう。そしてその「読み」にこそ「真意」があるというべきかもしれません。
さて、パウロは逆説的にキリストの王的支配を語り、かつそれが神の栄光であることを示したのち、さらに続けています。12節では教会員に向けて「従順」でいるよう勧めています。この従順は何に対する従順なのでしょうか?これは神の意思の働きを常に自分の心に意識しながら歩みなさいということですが、より具体的には何を行うことを求めているのでしょうか。14節には「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」とあります。残念ながら、はっきりとはわかりません。ただ、次の言葉「よこしまな曲がった時代の中で」という言葉からすると、パウロはキリスト者の生きる道が非常に困難であることを予想していますので、この従順さ、不平や理屈を言わずにことを行うというのは、教会の外での生活の中でうまくマネージして、つまり変に対立したり、自分の正当性を説得したりするのでなく、ひたむきに生きよと言っているのでしょう。これは山上の説教の、人を裁くな、腹を立てるな、誓うな、復讐するな、といったある種の(卑屈にさえ見える)従順さ、ないし謙遜と呼応するものかもしれません。多分パウロはそうしたイエスの言葉を重ねているのでしょう。もちろんイエスの意図とはズレながら。
最後は非常に感動的な展望を語ります。すなわち「……世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことが無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」(15-16節)と。彼はすでに終わりの時、すなわち「キリストの時」を想像しています。つまり終わりの時の姿から現在を考えているのです。このような想像力はキリスト教にとって最も大切なものです。この終末論的完成、世界の完成はもちろん旧約聖書に由来します。ユダヤ教ファリサイ派だったパウロは当然そうした歴史観を持っています。それがこのような言葉になるのです。
しかしパウロはさらに加えます。それは彼自身が苦難の僕、あるいはイエス・キリストの歩みをなぞることになるという覚悟です。彼は「さらに信仰に基づいてあなたがたがいけにえを捧げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。同様にあなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(17-18節)と言いますが、この「わたしの血が注がれるとしても」とは、「自分が犠牲になったことを記念するとしても」という意味でしょう。彼は、たとえ自分がいなくなったとしても、それは世の救いの一助となったのだから、悲しみではなく喜びを優先してほしいと望んでいるのです。
わたしたちはこうして、パウロの覚悟にたどり着きました。彼は自分をすでにキリストに重ね、殉教者に重ねています。このような高揚感と切迫感に、当然ある種の感動を覚えることは否定できません。しかし、最も大切なのは、死や殉教への感動ではなく、その困難な時代にあって、世界の新しいあり方、身分も出自も貧富も越えうる人間の相互の愛に満ちた世界を述べ伝え、実現する共同体を維持し、大きくしていくことの喜びなのです。それなくして、死や殉教を讃えることは本末転倒というべきでしょう。
わたしたちはパウロの本旨、本義を忘れてはなりません。