日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年11月1日
「世の完成を幻に見つつ生きる」イザヤ書35章5~10節
 わたしたちは普段、なにげなく今日も明日も同じように続いてくと感じています。今日の私も、明日の私も同じ私である、もちろんその前もこの先も、同じ名で呼ばれてきたし、また呼ばれるだろう。だから私は変わらない、変わるのは目の前の世界の方で、眺めている私は、私のままである。そのように普通は了解しているのではないでしょうか。
 しかし、私たちは日々変化しています。それはまず、生物学的に見てそういえます。人間を形作る個々の細胞はすべて、半年くらいで入れ替わっているそうです。つまり、半年前の自分の体を作っていた細胞は全くなくなり、新しくなっている。つまり、私とはその肉体から言えばすでに違う私になっているのです。ただし、姿かたちはそれほど変わりません。それぞれの細胞は遺伝情報を新たな細胞に伝えているので、また同じ細胞に変わるからです。つまり、私の形式は変わらない。モデルチェンジはないのです。だから、ひとまず私は私のままであると了解できるのですが、しかし、形作っている個々のパーツは完全に入れ替わっているのです。
 ただし、驚くべきなのは、わたしが私であると了解できるのは、脳に蓄積された記憶によるのですが、その蓄積された記憶、つまりはシナプスのつながりさえ、情報として次の脳細胞の集合体に移行される点です。個々の細胞の形態だけでなく、もっと大きな集合体としての形態も次に伝えられているというのです。それがなければ、単なるクローンであり、私ではなく、別な人間になっているでしょう。
 ともあれ、変化しつつも同一性を保っているのがわたしたちですが、その同一性はつねに同一性の破れにさらされている。眺めている世界が変わり、眺めている私は変わらないと申しましたが、それは単純化して言っただけで、真実は違います。外界と私を分けることはできません。本当は、私とは、出来事なのです。つまり、生き物として誕生した一人の人間は、誕生した瞬間に外との関係を作り続けなくてはなりません。最初の他者はおそらく母親ですが、その関係から出発して、次々と新しい他者、つまり世界との関係に入り込み、次第に自分の居場所を、つまり自己を形成する。やがてそれは「わたし」としての独立性、固有性をもった確固たるものになり、自らを主張し、自らを完成させようと、つまりは一つの王国を築こうとする。しかし、その自我の王国は、その起源において、自存しているのではなく、かえって関係の中のさまざまの結節点で区切られた場所、つまり網の目のようなものにすぎない。であるなら、網の糸が一つ切れればゆがむし、もっと切れれば網自体が用をなさなくなる。つまり自己は解体するのです。
 糸が切れるという譬えがいう最も深刻な事態は、身の回りの人々、親しい人々、家族の「死」でありましょう。私は一人外界から離れて世界を眺めているのではなく、関係そのものだった。網の目だった。だからその人、つまりある結節点が消えて網目が壊れると、自己はゆがまざるを得ない。この歪みをわたしたちは「悲しみ」「怒り」「憎しみ」といった感情で表すのでしょう。その感情は、安定していた自己の記憶が強ければ強いほど、激しくなるに違いない。そしてそれが人間の苦しみになるのです。
 わたしたちはその苦しみを誰しも経験します。(いや、正確には違うかもしれない。そうした網の目をうまく形作ることのできなかった人は、そうした苦しみをもたらす感情を生み出すことができないかもしれない。あるいはそれを禁じられた人々もいるだろう。)その苦しみを乗り越えていくことはできるでしょうか。
 ひとつには伝統的な仏教の考え方を挙げることができます。つまり、そもそも世界は無常である。大乗仏教的に言えば、「空」である。つまり変わらぬ普遍的なものはないのである。だから私もなければあなたもない、空である。先ごろニュースになった天台密教の荒行である千日回峰行の行者がありましたが、彼は水も飲まず9日間不眠不臥で護摩をたいたといいます。この荒行を終えるということは何を意味するかと言えば、最後の煩悩である死の恐れを乗り越えるということでしょう。そして死も生も実体ではないこと、そのことを、身をもって示すことで、いわば生き仏となったと感じられ、多くの人々の信仰を集めることになる。つまり、そんな厳しい修業はできない衆生はせめてその人に近づき、少しでもあやかりたいと願う。その心の底からの願いを彼に向ってささげること自体が、その衆生の苦しみを癒すのです。これは祈りの効用というべきものです。
このような構図は、キリスト教の十字架にもあることはすぐにお気づきでしょう。キリストの苦しみは贖罪(罪の帳消し)に重きが置かれますが、それと並んで、あるいは重ねて、死の克服としての復活が語られます。これは阿闍梨となった行者が、もう一度娑婆へと、つまり衆生の世界に姿を現すことに似ています。そして、それにあやかることとキリストにあやかることは、やはり似ているといえるでしょう。
しかしながら、これとは根本的に異なる仕方による克服も同時に存在します。それが本日のテキストに示されています。先ほどお読みいただいた5節以下はとても信じがたい未来像が列挙されています。見えない人の目が見える、聞こえない人が聞こえる、歩けない人が歩ける、口のきけなかった人が喜び歌う、……と。みなさんはこれをどのように読まれるでしょうか。このことについては、たしか去年のアドベントでも触れましたが、もうすこし先に進めた言い方をしますと、ここに見られる願望というか未来像の性格は「反自然」ということです。旧約聖書の思想的枠組みを一言でいうとたぶんそうなる。つまり、わたしたちが日本で普通「摂理」と考えるのは、自然の営みのアレゴリーです。人も動物も生き、そして死ぬ。その繰り返しを自然の循環にかさねて、一人一人の生きることの意味を全体として了解する。つまりわたしたちはめぐっているのであると。
これに対して、聖書は全く違った見方を示す。自然の営みは部分的なものであり、それを超える命の神、創造者としての神ヤハウェの支配があり、この支配は、わたしたちがおよそ不可能と感じるもの、あるいはまったく自然の摂理に反すること、それどころか自然そのものさえ解体するほどの力があるとされるのです。このようなヤハウェへの信仰を前提に旧新約聖書は編まれています。ですから、自然的世界の営みに基づく世界観(自然の摂理)のみならず、仏教的な世界理解とも次元を異にする。つまり、空とか無常ではなく、世界は完成へと向かう、終わりへと向かう、そして新しい世界が始まるということです。もちろんそれは信仰の次元です。この信仰は、不条理なもの、死、戦争、疫病、事故、障害といったあらゆる不幸(に見えるもの)が完全に克服されることを願うのであり、これらを自然の摂理や無常ということでプラスマイナスゼロにするかのような、ある種の諦観、あきらめの境地のようなものにとどまることを許さない。旧約聖書の預言者たちは、そのような新しい世界の到来の信仰を前面に掲げて、それぞれの時代の過酷な現実に立ち向かったのでした。これがいわゆる終末論的倫理へとやがて収斂していきます。キリスト教がそうした倫理を中心据えていることは言を俟ちません。
しかし、あまり難しく考えることはやめにしましょう。わたしたちはそれぞれ、本日先に召天された方々を記念するために集まっています。教会は記憶する場所ですから、彼らのことを覚えます。ところでこの「覚える」とは何を意味するでしょうか。覚えるとは記憶に残すことですが、なぜ残すかと言えば、その覚えるべきことが大切だからです。ではなぜ大切なのか?それは彼らが私たちの一部であるからです。一部であるとは、わたしたちの命の一部という意味です。言い換えれば、彼らの命が私たちを支えているということです。それは単に自然的な血のつながり、あるいは親戚・姻戚関係にあるというにとどまりません。それはより広く私たちの教会共同体を形作っている限りにおいて、相互に一部である。相互に支えあっているということです。もちろん、すでに召天された方は身体としては存在しない。しかし、キリスト教信仰に基づけば、彼らは新たな世界、自然的世界、この世の厳しい現実、克服しえない課題の多いこの社会、つまりは神の支配の完成途上にある世界をひとまず去り、この35章に描かれた世界にすでにいるのです。当然ながら、完成していない世界にすでにいるというのは、あまりに矛盾があるという声が聞こえてきます。しかし、それは矛盾ではありません。わたしたちはこのような完成された世界を確かに想像できる。想像できるとすれば、それはすでに心の中にその世界は完成している。ここからはプラトン的思弁になりますが、未来にあるものさえ、すでにあるのなら、その存在を疑うことはできない。なぜなら、その想像された姿の源は完成の姿、つまり永遠のイデアに由来するはずだからです。
もちろんこのような思弁はどうでもよろしい。改めて確認しますが、旧約聖書は自然的秩序やこの世の秩序、あるいは不条理を乗り越える意志そのものなのです。それを私たちキリスト教は受け継いでいるのです。だから私たちは彼らを記念することが、今日を境に、世の完成に至る道筋を改めてまた一年生きることへとつながらなければなりません。故人を偲ぶことを、わたしたちの生きるこの世界を完成に導く営みに繋げるということです。そして故人を偲びながら、同時にすでにキリストが望まれた世界にいるということ、そして私たちもそれに連なる者であること、したがってわたしたちは今もなお彼らとともに生きていること、さらに、その生きている世界は今ここでの世界としっかりつながっていること、これらの四つのことに思いを至らせなくてはなりません。
イザヤ書35章の8節には「主ご自身がその民に先立って歩まれ」とあります。これは神ヤハウェ自身のことですが、キリスト教徒はこれをイエス・キリストと読み替えてよいでしょう。そして最後の9節の末尾には、「喜びと楽しみが彼ら〔神の世界へと凱旋する民のこと〕を迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」と書かれています。彼らの信仰とは予想だにしない世界の姿、完成の姿です。その信仰をわたしたちは受け継ぎながら、教会の、今は亡き仲間たちとともに未来に向けて今の時を歩むのです。
このような信仰が、わたしたちにとっての、あの網目の破れの克服の仕方なのです。
本日を境に、改めて一人一人の歩むべき道を思い描いていただきたいと思うものです。