日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年11月8日
「信仰に基づいて与えられる義とは」フィリピの信徒への手紙3章2~11節
 この単元はおそらく別の手紙の一部であろう。3章1節前半が終わりの句。後半から、がぜん調子が変わってくる。パウロは繰り返し注意を語ることを面倒だとは思っていません。むしろ会員の安全のために必要である、と考えている。では何のための注意をこれほどまで呼びかけるのでしょうか。
 2節には「あの犬どもに注意しなさい」とあります。これはキリスト教を迫害し、追い詰めたいと願う人々であり、もちろん保守的ユダヤ教徒です。このようなユダヤ教からの圧力は日増しに多くなっています。その過程の中でパウロは、自分も受けているはずの割礼を真っ向から否定します。彼は露骨に言っている。「切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と。パウロによれば、これは傷でしかないのです。そしてこう言います。「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」(3節)。ここで「神の霊によって」という言葉に注意が必要です。パウロは、礼拝は律法に基づいて行われるのではなく、神の霊に基づいて行われるのであり、文字で書かれた律法に批判的です。そして自分たちがキリスト・イエスを誇りとするとは、あの十字架の死がただの死や敗北ではなく、あるいは預言者的殉教でもなく、人間の罪そのものの贖罪、すなわち罪の帳消しのための犠牲であったがゆえに、わたしたちはその死を誇りとするというのです。したがって、肉に頼らないとは、肉体に傷をつけて、その傷をもって自分たちの卓越性を主張する必要はもはやないということでしょう。
 しかしここでパウロは一部留保しています。「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない」と。この後、彼は自分の出自、これまでの歩みを手短に回顧します。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ち所のない者でした」と。だから、わたしは肉に頼ろうとも思えばできるというのです。これは次に述べる事柄を引き立たせるためのレトリックと思われますが、彼は律法が極めて重要であること、旧約聖書の諸伝承が大切なことは百も承知なのです。さらに、自分が教会の迫害者であったことも加えています。これらのことはユダヤ教徒として、あるいはファリサイ派の人間として、実に名誉なことであり、「有利」なことでした。
 しかし、彼はキリストのゆえにこれら一切を損失と見るようになったというのです。これはいかにも極端です。パウロはこうしたある種のレトリック、非常に断固とした弁舌を多用しますが、この点は注意しなくてはなりません。彼は一切を損失とまで言い切りますが、それでは律法を成就するとしたイエスやマタイのより穏健で寛容な姿勢を見失わせるからです。彼は一種の自己否定をするのですが、いつもゼロか百かの極端に振れていくのです。それは喜びの表現としても、やや危険である気がします。「キリストのゆえに、すべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」という表現は、彼自身の自己批判としては了解しますが、彼を模倣することは危険であるというべきでしょう。本来、彼は自分のこれまでの迫害の行動を厳しく問われなければならない立場にいたはずなのです。なぜ元来の弟子たちが彼を本格的に問いたださなかったのかは、今となってはわかりませんが、ともかく、キリストに捕らえられたという一点で、これまでの人生を帳消しにできるというのは、身勝手に見えるのです。
 しかし、これまでに読んできたように、彼がその転回によって確かにキリストの弁護者、伝道者に変わったことも確かであり、かつ、彼が身を賭してその伝道に尽くしてきているのも、また真実なのです。わたしたちはこのパウロの両面をよく見る必要があります。わたしたちはそれぞれ身勝手に自分の信じる価値に基づいて生きています。そして時にはある集団の一部の価値が広く民族や国家を覆い尽くし、それに翻弄されるほどに、自分を見失いながら、あたかもその一部の集団の価値が自分のものであるかのように思い込む(あるいは思い込まされる)ことさえあります。今から70年と少し前の日本やドイツを見れば明らかです。それがある日を境に、今度は一夜にして民主主義を奉じる国になり、戦争の被害者意識を前面に、自分たちの本来負うべき責任を自覚することがなく、国家を運営してしまったという事実がありますが、こうした在り方は問い直されなければなりません。つまり、転回したとはいえ、それ以前の営みに対して申し開きをすることが必ず必要です。もちろんパウロはそのことを、身をもって示したといえます。それはすでに述べたように、自らを迫害されるものの立場に置いたからです。彼はそのような生き方を、キリストを身にまとうという表現で語りましたが、本日の箇所では「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」と言っています。この「キリストの内にいる」という言葉は彼の申し開きと読むべきでしょう。これまでの価値観はすべて捨てた、無駄であったと宣言することで、キリスト者と認められたいというのです。
 もちろん、これもまたレトリックであり、かれはだれよりもキリスト者として忠実であるとの自負を持っているはずです。
 最後に示されるのは、この断章の核心となるパウロ自身の希望です。すなわち「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と言います。パウロでさえ、復活は希望であると述べていることに注意が必要です。復活はキリストにおいて起こったことだと信じているけれど、それは私に実現するのかはまだ心もとない。そのためにはどうするか?復活の力を知ることが第一、そのうえでキリストと同様の苦しみを共有すること(あずかること)、さらにその死の姿に自分を似せること(あやかること)を通じて、復活に達することができると信じているのです。こうしてみますと、パウロはキリストの伝道者であるという見方では不十分であることがわかります。彼は彼自身をキリストに重ねている。つまりキリストを演じている。それは舞台で演じていて、幕が下りればまた元に戻るというのではありません。そうではなく、実演している。つまり舞台の外はないということです。
 このような覚悟を本気ですることは難しいことです。しかし、彼はそのための方法が何かを、実は完全に知っているのです。それが、すでに挙げた9節後半の句、「(わたしには)信仰に基づいて神から与えられる義があります」という宣言です。これはよく知られた「信仰による義認」という彼の神学です。では信仰に基づく義とはわかりやすく言うとどんなことか?
 信仰とは一言でいえば、神からそれていた生き方を改めて神の方に向けなおすことです。つまり、間接的に神の言葉を忠実に守るという生き方、律法によって自分を自力で正していく生き方ではなく、全面的に神に心を重ねるとでも言いましょうか。直接的に神の愛のもとに自らを投げ出す、帰依するということです。そのためには自らの罪を明らかにしなければなりません。しかしそれを律法に照らして秤にかけるように計測するというのではなく、全面的に罪人であることを認めるということです。パウロはローマ書では原罪論を強調しますが、ここではそうしていません。ただ、背後にそうした理解があるに違いありません。それがなければ、「義があります」と断定できないからです。
 では神から与えられる義とは何でしょうか。これは先ほど述べたように、罪をみとめ、自らを神に全面的に向けたときの神の赦しということです。義というのはそれ自体であるのではありません。あるいは律法の中にあるというのでもありません。それは常に自らを省みる中で、自分の罪を意識できたときにはじめて義を見出すのです。そしてそのことが赦しとなる。そのことの繰り返しが実は生きるということの真相かもしれません。神によって義とされるとは罪を捨て神に向き直ったときに生じる赦しのことである。これでもややわかりにくいですが、要するに自らの罪を深く自覚したことによる、あるいは深い悔い改めと同時に起こる精神の解放、心の重荷の取り除きの瞬間こそが、神から与えられる義であるということです。言い換えれば義認とは赦しであり、与えられるという受動性から言えば「恵み」であるといえるでしょう。
 パウロはそれをもとに、復活に達したいといいます。この復活はどんな復活を言おうとしているのでしょうか。これは迫害の中にあり、獄中にさえいるこの状況からの復活でしょうか、それとも来るべき終末の時の審判を前にした復活でしょうか。あるいは、彼自身の重い過去からの復活でしょうか。違います。彼が語るのは「死者の中から」の復活です。では死者とは何か。死者とは彼が生きているローマの支配(というか、この世の秩序の中)で生きている人間たちのことです。彼にとっては生きている人間こそが死人なのでしょう。だからキリストの死に重ねて、あやかってこの世とは別の世界に生きることを願うのです。これを死後の世界とか天国というのは誤りです。あくまで、この世の支配が終わり、新しい支配が始まり、その転換した新たな世にもう一度復活するということでしょう。
 つまり、信仰に基づいて与えられる義、つまり赦しと恵みを抱いて、新しい世を生きることができるのです。パウロはそのような恵みを、逆説的にイエスの苦難に自らを重ねること、その苦難を共有することに見出します。それゆえ、わたしたちもまたイエスの苦難を少しでも共有することが、自らの救いに至る道であることに気付くのです。