日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年11月15日
「わたしたちの本国は天にある」フィリピの信徒への手紙3章12節~4章1節
 フィリピの信徒への手紙を読んでまいりましたが、今日でひとまず主な箇所は読み終えることになります。この手紙は三つの手紙を編集したものとされており、たしかに読み進むとややつながりがわかりにくいところもあります。しかし、一通の手紙ではないとしても、この手紙にはパウロの考え方がしっかりと反映されていました。そして、それぞれの文の持つ力が、その言葉を文脈から切り離して解釈することができるほどに強力であるため、多くの人々がこのパウロ書簡を読むと、自分の今の姿に直接訴えかけていると錯覚するほどです。今日の箇所も、部分的には非常にわかりやすく、要するに目標を目指して懸命に頑張ろうという励ましの言葉が非常に印象的です。それゆえにこの個所は必ずしもキリスト教とは直接関係なくても折に触れて利用されるのです。
 ところで、14節にでる目標とはいったい具体的には何なのかがわからないと、この単元を理解することはできません。この個所は先週取り上げた個所に続いているとみられます。11節を見ますと、パウロは「死者の中からの復活に達したい」と言っています。それに続いて「わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全なものになっているわけでもありません」と語ります。すると、「それとは「復活」を指すと思われます。ならば目標とは復活のことかもしれません。ただ、12-13節の言葉がややわかりにくいので、少し考察を要します。
 12節後半で「なんとかして捕らえようと努めているのです」と言っているのは、パウロがいまだ途上にあることを印象付けます。彼はかつてファリサイ派の論客として新しいユダヤ教であるキリスト教を迫害しましたが、あのダマスコでのキリストの呼びかけ(召命)によって伝道者、弁証者となりました。そして、そのとき、彼は本当の救いは律法の遵守ではなく、直接的に神に向き合うこと、あるいは神の基本的な命令に従うことで十分であること、つまり信仰によって義とされ、赦されること、しかもそのことは一方的な恵みとしか表現できないものであるということ、これらのことを多分一時に理解したのでしょう。それゆえ「回心」と言われるほどの、転換となったのです。しかしながら、このことは何かが完了したのではありません。それどころか、そこはパウロにとって、最初の一歩だった。キリストとの出会いは、彼にとって苦難とさえ言える歩みの始まりであり、決して終わりではない。つまり、信仰によって義とされるとは、出発点に立ったことを意味します。
 では、その到達点とはなんでしょうか。それはキリストを通じて示された救いのありかを、その喜びを伝え続け、この世をキリストの名において救うことです。彼はそのためにパレスチナから小アジア、ギリシア、そしてローマへと宣教の旅を続けるのです。このような気宇壮大な目標が彼にありました。しかし、それは彼の活動の当然の目標なのですが、彼がとらえようとしているのはこの目標に到達したときに神から与えられるはずの褒賞のことです。この褒賞は「私自身はすでに捕らえたとは思っていません」と言っている通り、彼はまだ褒賞としての復活を得ていない。ただ、この場合、復活とはあくまで未来のことであり、それを獲得するということは原理的にできません。むしろ「確約」ともいうべきものでしょう。その確約さえ、まだとらえるには至っていないというのです。彼はもちろん、謙虚さからこう言っています。多分彼ほどそれに近い者はいない。それでも努力を続けるのは「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12節の終わりの文)。つまり、あのダマスコでの経験以来、彼は逃れようもなく、キリストに捕らえられているということです。この言葉にわたしたちは、ふと、彼のつらさのようなものを感じます。それはあのエレミヤの告白に見られる苦悩(エレミヤ書15章10節以下、第二の告白)を思い起こします。パウロは、ここではそれほどの苦しみを述べていません。しかし彼の生涯をおおよそ知っているわたしたちは、キリストに捕らえられて世界を駆け巡り、迫害されつつも宣教することの困難を、深い感慨をもって感じ取るのです。
 そのような褒賞としての復活に向かってフィリピの教会の人々は、迫害や無理解の中で、あるいは異端的な考えに翻弄されつつも、この教会の豊かさを高め、キリストにある共同体を愛に満ちたものにしていくことが求められているのです。復活は褒賞です。褒賞を得るためにパウロは地上世界への宣教を目標としますが、教会の会員はその地にあって地歩を固めること、身近な世界、コミュニティの平安を目標とするのです。15節では「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と言いますが、これはやや大げさな訳です。これは教会の中ですでにキリスト教への深い理解がある人々ということです。このような人々は当然パウロのように考えてほしいということでしょう。そのあとに「別の考えがあるなら、神はそのことも明らかにしてくださいます」とも語り、譲歩しているように見えます。この句が何を意図しているのか、定かではありませんが、次の文を見ると、教会に集まっている信徒が多彩であることが前提されているので、つまりだれもかれもが成熟したキリスト教に至っているわけではないので、各人の状況や立場、段階に応じて目標を立てるべきだということでしょう。それが「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」という発言の意味です。誰もかれもが教会の中で同じ段階同じレベルでまとまらなければならない、などというのではありません。キリストの教会はもっとふくよかな、あるいは相互に高めあう場所なのです。
 それでも次の段落では、「わたしに倣う者となりなさい」と言い、さらに「また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範としている人々に目を向けなさい」と続けます。人称が複数に代わっていることに注意して読みますと、後半の文の「わたしたち」とはパウロとテモテを指すでしょう。あなたがた同様わたしたち伝道者を模範としている他の教会の仲間たちに目を向けなさいということです。この後の言葉は、やや厳しい言葉になります。実際には私たち宣教者の思惑とは別の動きもたくさんあり、迫害する者も無理解な者もたくさんいるというのです。だからこそ、自分たちと同じような歩みをしている共同体と連携しなくてはなりません、と言いたいのでしょう。これこそ、伝道の旅を続けるパウロらしい言葉です。そしてこうした連携は、現代にいたるまで、最も重要な課題の一つであり続けています。パウロは各個教会の安定だけでなく、教会の連帯を通じた、より広い範囲での教会を構想しているのでしょう。このような構想は、やがてある種のアソシエーションになったのではないでしょうか。しかし、結局はどこかを頂点とするカトリック的なものに転換せざるを得なかったのですが。
 それはともかく、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」なかで、彼らこそが滅びに至るといいます。さらに「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとして、この世のことしか考えません」と続けます。腹を神とするとは富と欲望を神とするということ、そして恥ずべきものとは偶像崇拝その他の異教的習慣のことで、これらを信奉する人々は、結局いまある世を前提に、そこでの利益を望むこと、あるいはこの世の現実が自分に都合よく運ぶよう、今の秩序が乱れないよう(つまり既得権が侵されないよう)願い、かつ行動するのです。
 これに対してパウロは「しかし、わたしたちの本国は天にあります」と宣言します。すでに前に述べましたように、本国が天にあるとは、復活して神のもとに住まうことがほぼ確約されているということです。さらに、その天からのキリストの再臨、つまり終末の時が最終的に閉じられる時、再びキリストがやってきて、世界を支配するという非常にファンタジーに満ちたことば、幻を語ります。そのとき「わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」というわけです。つまり真の復活に至るのです。この卑しい(タペイノーシス)のとらえ方によっては、肉体を貶め、観念的世界を真実なものとする、ややグノーシス的(つまりこの世の否定ないし無関心)と同じようになってしまう恐れもありますが、たぶんこれはパウロのレトリックでしょう。パウロにとって、この復活は褒賞であって、目標はこの世をキリストの喜びで満たすことなのです。つまりこの世の平和、この教会の平和、この教会に集う一人一人の平安(これをイエスは「今日の糧を今日与えてください」祈り、「明日のことは思い煩うな」と命じました)を共に力を合わせて創造していくことなのです。
 それゆえ、彼は最後にこう続けます。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びである愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」と命じるのです。つまり、この世においてしっかりと立って歩めということです。本国が天にあるということの意味を誤解してなりません。本国が天にあるから、この世のことはどうでもよろしいなどというのでは決してありません。それは完全に誤りです。本国が天にあるから、わたしたちはこの世を天にあるごとくにしていく使命、あるいは義務があるというのです。すでにイエスも同じことを言っています。「御心が、天になるごとく、地にもなさせたまえ」と。天に本国を持つわたしたちは、それだからこそ、この世においてしっかり立つことができるし、この世を変えていくことさえできるのです。イエスはそれを地の塩、世の光と言いましたが、パウロも実はほとんど同様な構えだったと思えるのです。
 パウロのテキストは文脈なしに読み、言葉の意味のニュアンスを少し取り違えると、なんだかこの世の否定とそこからの離脱を求めるかのように思えるのですが、多分それは誤りでしょう。彼はやはり、会ってはいないのに、あのイエスに近い、いやあのイエスをもう一度演じている、そんな風に改めて思う次第です。