砧教会説教2015年12月6日
「神の支配とこの世の平和」
詩編46編2~12節
アドベントの第2週目に入りました。そしてすでに12月。2015年もあとわずかとなり、町もだんだんせわしなくなっています。多くの人々が今年の総決算のために、動いているのです。世界を見てみますと、シリアの内戦が中東とヨーロッパ、ロシアを激しく動揺させています。もはや西半分の世界は戦争が日常化している感があります。東半分はそれを遠巻きに眺めている感じですが、いついかなる理由でそこに巻き込まれるかは、わかりません。人間の心理は、小さなきっかけで、良くも悪くも劇的に変わってしまうときがありますが、実はその前に地ならしがあるのであって、それゆえ、あとは小さな引き金を引くだけで、すべては劇的に展開するのです。わたしたちは今、そうした地ならし(国旗国歌法、改訂された教育基本法、秘密保護法、日米ガイドライン見直し、そして安全保障関連法)がほぼ済みつつある日本に生きている、そのような気がしてなりません。戦後70年を経て、つまりほとんど2世代が交代する時間の経過の後、高度成長は終わり、安定するかとおもいきや、長い不況と言われる時代にはいって久しいのですが、この事態は世界的な規模で広がっています。もちろん中国やインドの経済成長が世界をけん引してはいますが、これも先行きがはっきりしない。つまり、グローバル化に伴う巨大なマーケットの出現は、同時に、これ以上の拡大はもはやありえないという限界もあらわにしたのです。つまり、人類全体が一つのマーケットに包括された時点で、市場は閉じたということです。原理的には資本の運動の一つの限界に到達しているのです。もちろん、もう一つの限界はまだです。それは時間です。つまり空間的には限界が来たが、人類が子供を作り続ける限りは未来世代が市場を形成します。だから、マーケットは閉じていない。しかし、現在の状況は、もしかしたら未来の市場での富さえ食べてしまっているかもしれない。つまり、本来未来世代が使うはずの富や資源を消費しているとみられるからです。
これは実に由々しき事態です。つまり、未来をあらかじめ閉ざしてしまうことになます。わたしたちはもはやとめどもない浪費をしている。かつて一部の貴族たちにしかできなかった様々な奢侈が大衆化し、一人一台と言われるほど自動車が普及し、あらゆる電気製品は家事労働を軽減させ、コンピューターは脳の代理をし、結果的に普通の人々ができる仕事が激減しています。ならば、仕事などせず、のんびり生きられるかと言えば、それは無理だという。おかしな話です。便利になり、豊かになったのに、のんびりできないというのです。なぜか?富の再配分をする意思がないからです。富は分配するのではなく、投資される。つまり新たな富の蓄積に参与する。富の自己運動であり、これはもはや人間の意思ではないかのようです。しかし、この運動が破たんするときがある。それがいわゆる恐慌と呼ばれる事態です。しかし、今のところコントロールされていると信じられています。しかし、それがいかなるきっかけで始まるかわからない。それを防ぐにはどうすればよいのか。一番簡単なのは、恐ろしいことですが、戦争がどこかで始まることです。武器が売れ、破壊が起こり、そしてお金が動く。それはもちろん限定的でなくてはなりません。でないと、投資する主体そのものが解体するかもしれないからです。
さて、もはやもうお気づきでしょう。いま、中東で戦われている戦争、そしてテロは、上記のような富の自己運動による苦肉の策ではないのかということです。ISをつくったのはイラク戦争を仕掛けたアメリカです。彼らの遺産がISという鬼子です。それがシリアの反アサド派と結びつき、やがて恐怖政治によって中東の巨大勢力となりました。そしてそれは自分たちを生み出した西欧世界に牙を向けています。もちろん彼らの言い分には一理ある。しかしその方法は全く認められません。しかし、問題はその方法こそが、つまりテロによって戦争が始まるということがむしろ重要なのです。つまりテロの結果戦争がはじまり、多くの軍事産業を突き動かすことにつながり、やがて多くの人々がそれで潤う、あるいは大儲けすることができる。そして富の自己運動の破たんをあらかじめ防ぐことができる。このようなシナリオが背後にあるとするなら、それは恐るべきことですが、ありえないことではないと思います。
さて、本日の主題は「神の支配とこの世の平和」といたしましたが、旧約聖書はこのような富の自己運動とそれに伴う軍事的な力の肥大化の危険を非常に深く認めておりました。それは以前に学んだ、サムエル記上8章の「王の権能」の記事です。王権はつまるところ、民衆を抑圧する。それは軍を維持すためには膨大な財を要するからです。その結果、戦争を続けるか、民に重税を課すかといった選択になるということです。しかし、平和を担保するには、軍事力は必然である、というのは旧約聖書では自明ではありません。だからこそサムエルはこのような「王の権能」に関する覚書を民に提示したのです。気を付けよと。しかし、王権は出現し、サムエルの言うとおりになりまた。それが部分的にサウル王の物語に、大部分はソロモン王とその子レハブアム王の物語に反映されています。このあたりの細かい話は改めて取り上げますが、軍事力と富は一般の人が想像するよりはるかに恐るべき力を持つのです。(言うまでもなく、70年前の日本はそうした国家であった。なにしろ国家予算の半分くらいが軍事費だったのです。)
しかし、軍事力は平和のために必須である、と多くの人々が思ってしまう。それは平和の維持は暴力によるほかないと思うからです。そしてその暴力が、たとえ自分たちの首を絞めることになっても、我慢するしかないとさえ思うのです。さらには一部の人々はその軍事力と一体となって利益を求めることになるのです。
しかしながら、わたしたちの聖書は、そうした考えかたや風潮を批判します。もちろんある意味では終末論的・空想的に見えますが、平和を作り出すのは人間的な力ではなく、神自身であるというのです。そのことを短く歌っているのが本日の詩編ですが、このような理念はすでに出エジプトに先立つモーセの召命の記事にもあります。エジプトから導き出すのは神自身であり、ヘブライ人すなわちイスラエルが自分の力で、つまり戦争で勝利してエジプトを脱出するというのではない。このような理念は、実は旧約全体を貫いていると考えられます。たとえば、旧約正典にはマカバイ記は入っていません。理由は簡単で、あれは戦争による解決を賛美しているからです。実力闘争は必要であるということと、それを正しいとすることは別のことです。旧約聖書は本質的な正しさを優先し、つまり神の律法を優先し、王の専決を最終的には認めない。だから、マカバイ記は入れずに、ダニエル書を入れる。あのまったく荒唐無稽な、ただメシアの介入を待つ、という姿勢(ただしこのメシアが平和的かどうかは留保が必要であるが)を貫くのです。
ここで、本日の詩編に移りましょう。
最初の言葉は実に旧約的です。神が自分たちの避けどころ、「わたしたちの砦」とは、信仰を持つ人々にしか言えない言葉です。よく知られた讃美歌(457番、旧286番)にもなっています。この神は「苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」と詩人は歌いますが、「そこ」とはたぶんエルサレムの神殿をひとまずさしています。3-4節はいかにも詩的に、世界の大規模な変転を前にしても、「わたしたちは決して恐れない」と宣言します。5節では「大河」とありますが、これはいったい何を言っているのでしょうか。まさかユーフラテスやナイルではないでしょう。ここは単に「川とその運河」と訳せばよいと思われます。いずれにせよ、これはたぶんシオンの泉を誇張している。そしてこの「大河」の水に潤された都は、「夜明けとともに」、つまり戦闘の開始の時刻に、神は立ち上がって民を救うであろう、というのです。7節も随分と誇張した表現です。そして8節では「ヤハウェ ツェバオト イマヌー」つまり「万軍の主はわたしたちとともに」と確信するのです。言うまでもなく、これはこのアドベントにふさわしい言葉です。つまり「イマヌー エール」のエールの代わりにここでは称号も加えてより正確に「ヤハウェ」という固有名で読んでいます。いずれにしても、イスラエルの神学の本流は、戦うのは神自身である、救うのは神自身であると考える。
しかし、このような観念が果たして有効なのでしょうか。続きを見てみますと、9-10節では「主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き矢を折り、盾を焼き払われる」とうたわれています。これは武器の消滅を歌うのですが、明らかに理想的です。この理想はよく知られたイザヤ書2章(ミカ書4章)の歌と同じ趣旨です。つまりこの詩人は、神の勝利を最終的に信じている。けれども、わたしたちは、しょせんこのような考えは子供じみた非現実的な考えであると考えます。そんなことを言っていては国も人も守ることはできないと。果たしてそうだろうか。巨大な軍事力をもってしても、日本はかつて自国を守れなかった。アメリカはさらに途方もない軍事力をもってしてもアフガンやイラクの力を抑え込めていない。それどころか、より深刻な事態を招き寄せている。
これに対して、神の支配を信じる者は、人間の武力による支配を根本的に認めない。それゆえに11節では「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々であがめられ、この地であがめられる」と神自身の言葉を引用しているのは、重要である。最初の「力を捨てよ」は違約だが、適切であろう。そして神自身が一人称で神自身を知るよう、諸民族と大地に呼びかけている。最後の12節は8節にある句と同じで、折り返し句である。
さて、このような、人間的暴力の否定はおろかな発言であろうか。わたしはそうは思わない。おそらくこれから日本はいろいろな理由をつけて、武力の強化を図るだろう、そしていつの間にか武力でしか平和を守れないと洗脳していくだろう、そして、それを認めない平和主義者は「非国民」、あるいは他国を利する者、国を愛さない者とののしられるだろう。にもかかわらず、このようなレッテル張りや差別に屈することは、結局過去の二の舞になるに決まっている。そして、そのような軍事的愛国者は結局国も民族も滅ぼすのである。わたしたちは本質的な言葉を見失ってはなりません。主なる神が戦いを断つという荒唐無稽に見える言葉は、主なる神の前で被造物とりわけ人間は互いに「人間である」こと、つまり相互に「わたしたち」と呼び合うべき者たちであるということを気付かせるのです。
このような神の言葉の引用は極めて重要です。超越の言葉を失ったとき、わたしたちの世界は小さな思惑の人間的指導者によって分断されていくのです。そのような世界を未然に防ぐことが、わたしたちキリスト者に求められています。それゆえに最後に再び「ヤハウェ ツェバオト イマヌー」の句が繰り返されるのです。ヤハウェは私たちとともにいる、これが私たちを力づけるからです。