日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

HOME  砧教会について  牧師紹介  集会案内  説教集  アクセス


砧教会説教2015年12月13日
「嘆きにかえて喜びの香油を」イザヤ書61章1~11節
 アドベントの3週目に入りました。今日もメシアに関わる預言を取り上げました。この預言は第三イザヤと呼ばれる匿名の預言者の召命の記事のように見えます。冒頭に「主は私に油を注ぎ」とありますので、明らかに特別に選ばれています。しかし、少し考えてみますと、預言者の召命とは異質な感じがします。なぜなら、油を注がれた者とは、普通「王」的人物のはずで。しかし、この辺りは流動的でもあります。おそらく「油注がれた者」とは王的戦争指導者、預言者、祭司を問わず、歴史的困難にあって新たな時代を切り開く人、少なくともその展望を与える人に与えられる称号であるように思われます。としますと、この人物はメシア的預言者的であり、第三イザヤの可能性があるといえるでしょう。したがって、1節に出てくる「貧しい人」「捕らわれ人」「つながれている人」とは、捕囚民というより、ペルシア時代になって帰還することになったものの、いまだに自由とは言えない、生活にも困難を抱えている人々、あるいはいまだ神殿もなく、町も再建されていない中で、物質的にだけでなく精神的にも欠落感を強く感じている人々のことかもしれません。
 1節では冒頭、「主は私に油を注ぎ」とあり、メシア的であります。その目的は、まず「貧しい人」に良い知らせを伝える者となることです。良い知らせを伝えさせるために、ヤハウェは油を注ぎ、霊を与えた。「主なる神の霊」とは漠然としており、わかりにくいのですが、要するに「行動を起こさせる力」です。あるいは「語り、告知する」力です。では、その力はだれに向けられているのでしょうか。それは「貧しい人」にです。ではこの人にとって良い知らせとはどんなものなのでしょうか。①打ち砕かれた心が包まれ、自由となること、②解放されること、です。ここで気づくことは、この「貧しい人」とは、より具体的には「捕らわれ人」と「つながれている人」であって、これら三者が並立しているように読むのは間違いかもしれないということです。つまり、「貧しい人」(アナウィム)とは包括的な言葉であるということです。この言葉はいうまでもなく、あの山上の説教の八福に、あるいはルカの伝える八福により正確に受容されていると思われます。イエスは貧しい人の幸を宣言したのですが、このイザヤの預言の実現を強く意識していたのではないでしょうか。
 2節では、「主が恵みをお与えになる年」と「わたしたちの神が報復される日」が対になっていますが、時代の転換と立場の逆転こそが、嘆いている人の慰めになるというわけです。さらに3節では、文学的・象徴的な表現で、「灰にかえて冠をかぶらせ」そして「嘆きにかえて喜びの香油を」「暗い心にかえて賛美の衣をまとわせるため」と語ります。
 要するに、この2-3節も「貧しい人に良い知らせを」という1節の句の具体的な内容を象徴的な表現とともに示しているといえるでしょう。そしてその良き知らせには「神の報復」も当然のように含まれているのです。(あのマリアの讃歌にも、ハンナの祈りにも、このような観念が含まれているのはご存知の通りです)。さて、3節ではこの人々について「彼ら」として3人称で語り始めます。この人々の働きは何でしょうか。具体的なことが当然あったに違いない。しかし、そのような具体的な中身ではなく、ヤハウェの「輝き」を現すためにと書かれています。これはどういう意味でしょうか。これは栄光と言い換えてもよいでしょう。栄光とは、立派であるとか、最高だ、などと褒められたりすること、あるいは運動会で1番になること、あるいは皆さんご存知のように、梶田さんと大村さんがノーベル賞をとったことも、栄光でしょう。要するに周囲から尊敬を集めることが「栄光」であるといえるでしょう。
ここでの輝き、すなわち栄光とは、「正義の樫の木と呼ばれる」ほどに倫理的な、つまり堅固な信念と神の律法をしっかり守ることであるといえます。さらに4節では町の復興について言及しています。これはバビロン捕囚とエルサレムの陥落以降、町や村も荒廃し、秩序が壊れてしまったことを背景にしています。つまり紀元前587年のユダ王国の滅亡ということです。支配階級はバビロニアに連行され、そこに植えられたのです。その時代、すなわちバビロン捕囚期が終わると、ペルシア時代となり、キュロス王の勅令によってようやく帰還することが認められましたが、これは前538年です。つまり第一回捕囚(前597年から)ほぼ60年たっています。つまり世代の交代があったのでした。その時代を経て、廃墟となった町を再建し、荒廃の後を興すことは、つまりヤハウェの栄光を現すためであります。それゆえに捕囚時代に破壊され荒廃してしまった町々を再興することが極めて重要なのです。なぜなら、そのような復興ができなければ、その神自身も忘れられてしまうのですから。したがって、イスラエルの再起は同時にヤハウェの栄光の回復でもあるのです。
捕囚から解放された人々は、全く新しい時代に入ることになったのです。当時は中年だった人はほとんどなくなり、子供だった人も老人となっている。そして新しくその地で生まれた人が主流になり、おそらく伝統的な生き方が問い直されるときに至ったのでしょう。その中で、この預言者は召命というか、呼びかけを受けたのです。彼は荒廃した都市で預言活動する。その中身はすでに見たように、慰めと自由と解放を告知することである。ここに描かれている「彼ら」はユダ王国の捕囚民の新世代の人々でしょう。そう、たぶん若い人々に向けていっている感じです。
さて、このテキスト読んでみますと、なにか非常にすがすがしい感じがします。そしてこれまた大胆に神の報復を求めています。いずれにしてもこの書は強い魅力を持っています。とくに1節の真ん中あたりの連にある「打ち砕かれた心」この言葉が重要でしょう。一度は民族や国家は死にかけてしまった、そして民の心もみな砕かれ、消沈した。いや絶望したかもしれない。彼らにはモーセの律法があった。それをもとに、この打ち砕かれた心を包むのがこのメシア的預言者の役割なのでしょう。そして彼らの共同体は生き延びることができた。
  一転して5節では「彼ら」から「あなたたち」へと人称が変わります。5-7節の核心は「あなたたちは主の祭司と呼ばれ、わたしたちの神に仕える者とされ」るという言葉です。この6節にはよくわかりにくいのですが、このメシア的預言者、ないし預言者的メシアの目の前にいる祭司たちに呼びかけているのかもしれませんし、民全体を祭司的な者となるべきと考えて、こう呼びかけているのかもしれません。出エジプト記19章では「祭司の王国」に言及しておりましたが、そのことと関連する可能性もあるでしょう。ルターはこの言葉をもとに、プロテスタントの信徒は「万人祭司」として、一人一人が神と直接契約すべきと考えたのでした。これによってカトリック教会を媒介としないプロテスタント教会の理念が明確されたのです。
8-9節は神自身の言葉を預言者が導入しています。この部分に出る「彼ら」はイスラエルを指します。つまり、捕囚から帰還した人々は、祭司階級のみならず、民全体と「とこしえの契約」を結ぶことになるのです。このことばはエズラ・ネヘミヤの改革の活動とかかわるのかもしれません。要するに民族主義的でやや閉鎖的な宗教民族として自分たちを確立するということです。
 10節から再び人称は「わたし」すなわちメシア的預言者自身になります。婚礼の場面の喜びに溢れた情景に重ね、さらに植物の芽生えの喜びに重ねながら、救いの展望を語ります。
 このような預言を通じて、イスラエルの民は自分たちの生きる理由を見出したのでしょう。すなわち、わたしたちイスラエルの民がヤハウェを証言しなければならないということ、です。なぜなら、わたしたちは彼によって解放され、自由な民となったのであるから。おそらくこの事柄全体を「福音」と呼ぶべきなのだろうと思います。そしいてこれがわたしたちのキリスト・イエスを準備したのです。そのキリスト・イエスをわたしたちが証言し、その誕生を祝い、その待望を毎年繰り返すことによって、あの新たな福音を記憶し続け、かつ地域社会へと、そして未来へと証言していく。そのことによって世界は、人間は、着実に幸せになり、豊かになっていくのでしょう。
 もう一度、1節と3節の一部を繰り返して読んでおきましょう。
「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人に解放を告知するために」
「灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」
 このようなテキストを声に出して読むだけで、わたしたちは生きる勇気を抱くことができる。そして、未来を繋いでいこうという決意をなしうる。さらに、真に平和で豊かな世界の完成を展望することさえできるのです。
それゆえ、この預言はアドベントに実にふさわしいと思うのです。