砧教会説教2015年12月20日
「その名は、イエス」
マタイによる福音書1章18~2章12節
クリスマスとはすべての子どもたちを祝福する時ではないでしょうか。そのテーゼを念頭に今年はマタイによる福音書の誕生物語を読みたいと思います。
旧約聖書にも新約聖書にも、偉大な人々の誕生には、いわゆる「誕生物語」がついています。そしてそのような物語が残された偉人たち(モーセやサムエル、サムソン、そしてイエス)は、たしかにイスラエルの民の危機を救っています。それゆえに彼らの姿は、何か英雄であるかのように記憶され、常識をこえた不思議な誕生にかかわる物語が生み出されるほどに成長していったのです。
しかし、それはあくまで結果から見た称賛でしかない。しかし、そうした後からの称賛や英雄化とは別に、素朴に彼らの誕生こそが端緒なのだから、それ自体もっとも大切にされるべきことであるはずです。そのことはわたしたちのごく普通に感じる思いと重なりながら、より深い視点まで含んでいます。もちろんイエスの誕生物語は実のところ、その生涯が終わってからしばらくたった後に想像的に(イマジナリー)に回復された、あるいは創作されたといってよい。それゆえにこの物語の字面の意味をつかんだところで、大した意味はない。それどころか、その字面に記された出来事を「承認せよ」「信じよ」などと言われた日には、多くの人々、とりわけ私たち日本人は、そのようなことを求める人々から遠のいていくに違いありません。マタイによる福音書とルカによる福音書に書かれている誕生物語は、その字面で読むことによっては単に躓きの石となるだけでしょう(なにしろ「聖霊」によってみごもったとされるのだから)。
では、わたしたちはこの物語をどのように読むのがよいのでしょうか。
今日は読んでおりませんが、誕生の具体的な話に先立って、1章1-17節までは系図です。もちろんこれも誕生物語の一部を構成しています。そこにはイエスが生まれるまでのイスラエルの主な人々が並べられています。すべてダビデ王とその王朝との関連で、14代ずつに区分され、イエスにまでつなげています。アブラハムからダビデ、ダビデからその王朝の滅びの時であるバビロン捕囚、そしてそこからイエスまでの計三つの時期です。これはもちろん非常に意図的なもの、つまり救い主であるメシアはイスラエルの民のために、当然かつてのメシア(王家)の血筋から生まれるはずだとの、独りよがりの強い思い込み(これをイデオロギーと言います)が現れています。これと似た思い込みは、わたしたちの国でも根強いことは良くお分かりのことでしょう。
しかし、わたしが読み取りたいのは、そういう深読みでは(少なくとも今日は)ありません。それよりももう少し素直に読みたいのです。すなわち、この系図はイスラエルの人々が長い歴史を経て、それぞれがさまざまな形で、子をもうけ、自分たちの歴史をつくってきたということ、そしてそうした人々の営みを通じて、イエスの時もやってきたということ、つまり、アブラハムから始まるとされるイスラエルの歴史も、そしてすべての歴史も、一人の子どもの誕生から始まるという、当たり前でありながら、しかし常にいつのまにか忘れられていく真実を呼び起こしているのではないでしょうか。したがって、これはなにもイスラエルの歴史のことを言っているだけではなく、これを読んでいるいかなる国の人々にとっても、一つの真実として納得しうることのように思います。
さて、そのような命の連なりのなかで、不思議な展開が始まります。母マリアは結婚前に子を身ごもったというのです。これは全く理解不能と言うわけではありませんが、それを深く掘り下げてはいません。つまりあれこれと子どもを身ごもったことの原因を詮索してはおりません。それどころか、「聖霊によってみごもっている」と奇跡として説明しています。しかし、ヨセフの狼狽はひとまず書かれています。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と。しかし彼のこの重い決断を天使の一言で片づけています。つまり「恐れず妻を迎え入れなさい。マリアの子は聖霊によって宿ったのである」と。
そしてその言葉に続けて「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい」と告げられたのです。これを夢の中で聞いたヨセフも、そしてこの物語を聞いたり読んだりした当時のイスラエルの人々も、このありふれた名前でありながら、実は極めて重要な名を、その重要性にのっとって感じ取ったのではないでしょうか。つまりイェシュア、「ヤハウェなる神は救うであろう」という意味として、です。そのことはわざわざその後の言葉に解説されていますが(もちろん新約なのでギリシア語で)、これをアラム語やヘブライ語で聞いたり読んだりした人は、即座に救いの芽生えに気が付いたのかもしれません。
そしてヨセフはそのこと受け入れ、彼女を妻として迎え入れ、生まれた息子に「イエス」つまり「ヤハウェは救うであろう」と名付けたのでした。
わたしはこの物語に、もちろんイスラエルの救い主の誕生の宣言を読むことは当然であるとしても、もっと普遍的なことを読み取りたい。この物語は、ヨセフの落胆や不審、そしてマリアの驚きと不安、あるいは絶望も含むかもしれませんが、そうしたことによって「子」の誕生の喜びを見失ってしまう大人の分別に基づく様々な対処を乗り越える道と、それと同時に、子の受胎という始まりの出来事を何にもまして大切にするという非常に根源的な精神を打ち出していると読みたいのです。
つまり、クリスマスとはあらゆる子どもたちの誕生を寿ぐこと、すべての子の誕生を喜ぶことを核心にするということです。確かに、それは実は難しいことです。今や、わたしたちの身の回りでは、子どもたちが少ない。教会に少ないという意味ではなく、社会的に少ない。これは未来を信じられない、大人の思惑で、あるいは今ある社会の冷たさによって、子どもたちの誕生が寿がれないからでしょう。はやりの言葉にマタハラなどという醜い言葉があります。妊娠した母親を仕事場から排除する様々な嫌がらせという意味です。こんな職場が存在してしまうのが普通の、女性と子どもにとってあまりに悲しい社会になってしまった。このことに鈍感であってはなりません。
ところで聖書はこのイエスの、「ヤハウェは救うであろう」と名付けられた子どもの誕生後、その未来の力に恐れをなした暴虐のヘロデ王が、このイエスの誕生の噂を聞いて、自分の権力を脅かす者としてとらえ、イエスをなきものにしようとするのです。このヘロデは、自分の利益に邪魔なもの、妊娠した母親はやめさせてしまえと考える私たちの社会の一部の勢力と同じです。そして自分の権力や利益を追い求めながら、自分がそこから搾り取っている社会そのものを滅ぼしてしまうのです。
わたしたちはそのようなヘロデの思いも実はどこかに持っているかもしれません。子どもの誕生は本来何ものにもまして、喜びであるはずなのに、誕生を喜びえないいろいろな事情に押しつぶされ、愛を見失うことが誰しも、どこにもあるだろう。しかし、聖書は子どもの誕生は聖霊の力であるという。これは別に特別なことを言おうとしているのではないと思います。それどころか、あらゆる命は、その父や母の力で始まるのではない。その命はあなたたちの力で作り出せるものではない。それは天地を超えた、神の力としか言えない出来事であるのだ、と言っているのです。
わたしたちは子どもの誕生ということを自然で当たり前の出来事のように思いがちですが、必ずしもそうではなく、むしろ限りない未来を開いていく、まったくの奇跡であるということに気付くことになる。そして最後は、子どもとは、だれが生んだのか、どこの子なのか、どんな子なのかという、人間の思いを超えて、みんなの子である、そして神の子であるという真実にさえ、至るでしょう。そうした時に、このクリスマスは本当に喜びの時となるのではないでしょうか。なるほど、イスラエルを救うという言葉は、わたしたち東アジアにいる人々にとって意味のない言葉ですが、これは世の中に希望を与える宣言ととらえるべきものだと思います。その希望とは、子どもの誕生ということです。すべからく子どもの誕生を祝福できる世の到来を、私たちはクリスマスを通じて祈ります。聖書には東方の占星術の学者たちが東方でその誕生を示す星を見たため、ベツレヘムに来たとされています。彼らはもちろん、バビロニアの占星術師でしょう。しかし、東方をこの日本に置き換えても構いません。このもっとも東の国でさえ、キリストの誕生は祝われていますが、わたしはこの誕生の物語をより普遍的なものとして読みたいのです。すべての子どもたちに備わるはずのメシア性を信じて。つまりすべての子どもたちは祝福され、未来を救う希望の光として生まれたのです。私はこれらのすべての子どもたちのそれぞれの固有名と並んで隠された名があるのだと思います。すなわち「イエス」すなわち「ヤハウェは救うであろう」という隠された名を持つのです。彼ら彼女らは誰しもこの世界の未来をつくり、そして支えていくのですから。
みなさま、クリスマスおめでとうございます。