日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年12月27日
「1年の終わりに、生き生きとした希望を」ペテロの手紙Ⅰ 1章1~9節
 ペトロの名を借りてしたためられたこの手紙は、小アジアの各地に送られました。ポントスはじめ五つの地方に住む、キリストの救いの業を受け入れた人々は、「離散して仮住まいしている選ばれた人たち」(1節)と呼ばれています。この呼びかけは、もちろん比喩でありましょう。「離散して」というのはバビロン捕囚以降のユダヤ教徒のあり方を模しています。そして「仮住まい」とは一時的にその地域に住んでいるという意味ではなく、間もなく到来するはずの終末の裁きを経た後に入ることになる「永遠の御国」(Ⅱペトロ1章11節参照)から見た、この地上の世界のことです。著者にとって、現在の世は仮住まいなのです。すでに、この1節の宛先を記す言葉の中に、初期キリスト教の世界観が露呈しています。
 しかも、「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、霊によって聖なる者とされ」とあるように、キリスト者の選びは事前に決まっているという見方を示しています。これはもちろん予定説のような理論ではなく、キリストを受け入れた信徒たちを勇気づけるためのレトリックのはずです。2節後半に「イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」とありますが、これはイエスの死において流された血のことでしょうか。とするなら、非常に生々しい光景が思い浮かんでしまいます。彼の死が犠牲の子羊の生贄の血の代わりであるなら、やはり神との取引のような、犠牲観念の延長として理解されるほかないような気がします。しかし、「血を注ぎかけていただく」という表現に込められた意味が、永遠の命の保証の比喩であるなら、これはこれで救いを目に見える形にするものとも言えます。ただ、もう少し踏み込んで考えますと、この表現の深刻さの背後には、イエスの十字架の死が動物犠牲の重さとは別格の(要するに、動物犠牲は飢饉・疫病・戦争といった災害を引き起こす神々に対する代償として機能するのだが、イエスの死は飢饉や疫病に対する代償としてという意味はない。辛うじて、人間でありながら神格化されるオリエントの帝王の支配に対する代償という面はある)、私の命と引き換えに彼が死んでいったという痛切さ、罪責感情があると思われます。初期キリスト教、その源にいる弟子たちはこの深刻な十字架の記憶の重さを復活の出来事によって均衡させようとします。それは一見虫のよい話に見えますが、そうではありません。もし復活信仰を欠いたなら、イエスの十字架は彼らにとって巨大な罪責として、彼ら自身を押しつぶしていったでしょう。そして押しつぶされた彼らの人生の後ではイエスの出来事の記憶は失われるほかはない。それゆえ復活信仰はキリスト教にとって重要です。しかし、それはあくまで十字架の死の重さを知るための媒介である。つまり、イエスの犠牲は私のせいであるという意識、つまりその血を注がせたのは私たちであるという意識、その血潮が私たちを生かすというのは、神にささげられた犠牲のイメージで語られていますが、これはローマ(とユダヤ)の権力者に殺された自分の先生が自分たちをかばったことを意味しています。しかし、それはまもなく、ローマの権力さえ、より高い視点から見れば人間の罪の結果であり、自分たちがイエスを見捨てたのも人間としての罪であるとして、罪の観念を普遍化することを通じて、イエスの死を全くユニークな、神自身が神自身に犠牲をささげて人間の罪そのものを帳消しにしたというアクロバティックなドラマに変えていった。それが、神は独り子さえ惜しまず、その子の命を人間のために捧げたというケリュグマに行き着いたのです。
 さて、挨拶の後、「神は豊かな憐みにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」とあります。この世にすでにありながら、その古い私を脱ぎ捨て、新しい私になったということ。これは洗礼を指しているでしょう。そしてイエスの復活によって、さらに大きな希望が与えられたというのです。つまり自分たちもやがて復活し、朽ちることのない天の財産を受け継ぐ者となるということです(4節)。このような救いの計画の実現のために、あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」と記されています(5節)。そう、信仰とは、神の国にある救いへの旅路を守る力である。それゆえに「あなたがたは、心から喜んでいるのです」という。著者は復活を洗礼と重ねつつ、この世の穢れや罪に満ちている(と思い込んでしまった)人々の魂の浄化と新しい人生の出発を促すのです。
 著者はすでに非常に観念的な、あるいは想像上の神の国の姿をありありと浮かべているようです。初期キリスト教にとって、もはや地上世界は影のようなものに映っていたのでしょうか。今はまだ見えないが、すでにキリスト者の心にははっきりと映る神の支配する世界。このようなイメージが真に実現するときが間近に迫っているという時間の意識、そしていまだ頭の中にしかない新世界のイメージが間もなくこの世に実現するという強い期待。このような切迫感が、彼らを真に強めていった。それゆえ「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなた方の信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と誉れとをもたらすのです」(7節)とありますが、これは迫害の現実を示唆しています。キリスト教とは、その救いが観念的な世界に没入することによって私的に(つまり自分だけの救い)もたらされる宗教ではありません。つまり現実の世界に無関心になって、そこから切り離された信仰ではないということです。むしろ現実の力によって圧迫を受けても、それこそが将来の栄光ある姿を保証してくれるはずだ、とさえ言うのです。
 このペトロの手紙は全体として、非常に終末的色彩が強いように思われます。しかもイエスの死からすでに年月を経ているように見えます。その中にあって、かえって倫理的な意識が高まっている印象があります。
 さて、この手紙を読みつつ、私は今年を振り返っています。2011年の震災をきっかけとした巨大な原発事故の余波は次第に人々の意識から薄れているようですが、危機は深刻なままです。最近も、地下から想像をはるかに超える線量の放射線が出ていることが明らかになったばかりです。また、放射線を浴びたであろう子供たちの甲状腺がんの集団検診がありましたが、がんが予想以上に出現しているということです。このデータの解釈を巡って専門家が争っていますが、明らかに放射線の影響でしょう。目を転じてシリアの情勢は今や泥沼化しつつある。テロと空爆の応酬が続いています。そして数多くの人々がまさに犠牲となってきた。そして難民の数は史上最悪となり、6000万人を超えていると最近の報道で知ったところです。つまり広く視野をとってみると、地球上の1パーセントがまともに住む場所がない、そしてその背後にはその何倍もの苦境にあえぐ人々がいるということです。なぜなら、逃げたくても逃げられてない人のほうがはるかに多いに違いないからです。
 わたしは安易に終末的な意識や展望を語ることはよくないと思います。なぜなら、それは人を脅して入信させるカルトや一部の宗教団体によくあることですから。しかし、それでもなお、このような地球規模の不幸や苦難は終末的意識を喚起させざるを得ないのではないか、と感じています。もちろんこれは、今現在のキリスト教が迫害されていることに基づいたものではありません。しかし、キリスト教がその本質に掲げる、一人一人の人間の命の尊厳を何にもまさって大切にするという信念に対する重大な挑戦を受けており、しかもその挑戦に対しておよそ立ち往生しているという情けない姿をみれば、敗北の手前にいることは確かです。このことは、キリスト教の深刻な危機であるといってよい。ならば、どうするか。それは敢然とその危機に向かい合うほかはありません。すでに何度か言及してきましたが、カトリックのフランシスコ教皇は『福音の喜び』という使徒的勧告において、貧しき者を最優先にするというイエスの根源的な立ち位置に戻るよう強く進めています。同時に、非常に戦略的にカトリックの伝統を用いています。つまり、伝統的な秘跡を真剣に取り扱うのです。ただし、その扱い方は常にその目的、つまりこの世の苦難にあえぐ人々の救済、それも人類の「共通善」の実現というキリスト教を超えた善の実現に資するという目的にかなうようなものとして、用いるのです。
 フランシスコ教皇はあらためて神の国の地上への実現を目指しているといってよいでしょう。しかし、それは教会の中に人を閉じ込めることによってではありません。むしろ神父さんは教会の外へと出向いていくことが求められている。そしてそれでだけでなく、教会自体に出向いていくことを求めている。そして、いかなる困難があっても、対話をするという姿勢を貫くよう勧告しています。
 さて、話をペトロの手紙に戻します。この7節の言葉は、カトリック教会のような巨大な伝統が形成される前のことであることに注意が必要です。いまだ、この著者の前には伝統などない、ただユダヤ教の聖書(旧約聖書)とイエスと弟子の記憶だけなのです。そのなかにあって彼は、イエスの再臨だけに希望を寄せています。これもまた、実に心もとない観念です。なにしろイエスはいったん十字架にかかって死に、復活したものの天に上ってしまったというのですから。その彼がまた来るという観念は、すくなくともユダヤの伝統を知らなければ、それも黙示的でやや神秘的で非現実的な思考になじんでいない者にはとうてい理解も承認もできない考え方でしょう。
 しかし、著者はこのあとに非常に驚くべきことを言っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています」(8節)と。この言葉はヨハネによる福音書ではイエスとトマスの会話の最後に強調されています(ヨハネ20章29節)。このような発言は、すでにイエスのこともあるいは弟子のことも知らない人々がどのように信仰を持ったのかを理解するカギとなります。当然ながら、わたしたちのような時代も場所も違うところに住む者にとってもそうです。つまり、著者と読者の前にはおそらく全く明らかなイエスの出来事の伝承があったということです。それはマルコによる福音書かもしれないし、それ以前のイエスの言葉伝承(Q資料)、そして教会の口伝やパウロの手紙などであるかもしれない。つまり、イエスを見なくても、愛し、信じることができるツールがあったのです。それは要約するなら「言葉」ですが、それだけだと不十分です。つまり、イエスの行動を模倣する行動、すなわち癒し、人間的な権力との対決、そして彼が示した相互に自由で差別のない共同体の形成など。つまり、イエスの言葉と行動、もっと広く言えば教会員一人一人の振る舞いが、新たな来会者の信仰を促したのです。それが「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜び」ということでしょう。それを古代キリスト教は「聖霊の働き」と呼んだのでした。古代の教会も現代の教会も、イエスも弟子もいなくなっているという点で全く同じです。その記憶をありありと思い浮かべ、イエスの言葉を素朴に実践すること、そしてイエスのあの十字架が私のせいであるかもしれないこと、つまり深い悔い改めの心を抱き、同時に復活とを信じることで、新たに前進することができたのです。たとえ激しい迫害にあっても、それ自体を試練とさえ受け止めることによって。
 それ故に著者はこういうのです。「それはあなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」と。「あなたがた」、つまり彼の言葉を聞いている者(そして、それは私たちでもある)は、未来の救いではなく、もうすでに新しい世界に入っている、救われているというのです。その確信こそが、本当の力となるのです。そしてそこから、新しい希望も生まれるにちがいありません。
 2015年をまもなく終えるにあたり、生き生きとした希望が芽生えるよう共に祈りたいと思います。