砧教会説教2016年1月3日
「天の国を近づけるために」
マタイによる福音書3章1~12節
新しい年が幕を開けました。おめでとうございます。何がおめでたいのか、それは私が新しい年の始まりに間に合ったことです。かつて奉仕したことのある身延町の教会で、100歳にならんとする高齢の女性がある年のクリスマス祝会の席でこの日の感想を求められ、「今年もまだこの日に生きていた、ということだけです」と言ったのですが、本来、区切りの時のめでたさは、おそらくそのことに尽きるのではないでしょうか。命あること、その喜びをかみしめること、そのことを人々とともに喜べる事、これらは何物にも代えがたいことです。
しかし、そうした喜びは時に忘れられていきます。それどころか、今年もまた去年同様、相変わらず貧しく、仕事もない、病である、あるいは誰かの支配に服しているとするなら、生きていることは喜びではなく、かえって煩わしいことかもしれません。わたしは元旦礼拝に出るつもりで出かけましたが、電車が走り始めて10分後、先の駅で人身事故があり、止まってしまい、結局参加することができませんでした。新年早々悲しい出来事です。自宅に戻りながら、あれこれ考えました。このめでたいとされるときに、自ら命を絶つ人がいること、その人の背後にどれほどの困難があったのかと、そしてなぜその人自身も周りの人もその人の行為を止められなかったのかと。
キリスト教は悲しみや痛みを乗り越え、新しい世界が実現しつつあること、そこに自分たちはすでに入っている、あるいは近々入ることを確信し、この世界を喜びをもって、かつ耐えて生きていくことを求めます。そのような生き方を「信仰をもって生きる」というのですが、今日はその出発点をもう一度確認しておきたいと思います。そしてキリスト教によって生きることのすばらしさ(この言葉の意味は、一昨日見た『駆け込み女と駆け出し男』(松竹2015年)を見ていて、素を晴らすこと、それまで抑圧されていた人の心と体が解放されることである云々と主人公がうんちくを垂れる場面があり、なるほどと思いました)をかみしめたいと思います。
マタイによる福音書はイエスの誕生後、その少年時代や青年期については何も書いてありません。いきなり「そのころ」とはじまり、話題は転換します。そして洗礼者ヨハネの活動の話が始まります。彼は荒れ野で宣教活動を始めました。荒れ野というとエルサレムからは相当離れた人もいない荒涼とした場所を想像しますが、そうではありません。エルサレムからもかなり近い、ヨルダン川沿いの人の住まないところという程度で、遠く隔たった、人の気配のない孤独な場所というのではありません。実はのちの修道院も、隔絶された場所に見えますが、意外に町は近いのです。完全に荒れ野で人里から離れていれば、修道生活自体が成り立たないからです。洗礼者ヨハネの活動も実際には民衆との豊かな交流ができるほどの距離であり、それゆえ、脱世俗ではなく、社会生活が当然できるし、その中で生きることを前提としていると言えるでしょう。孤立させ、社会との交流を閉ざすような、完全に脱世界的な観念の中で生きるというようカルトではなかったのです。
ヨハネはこう言いました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。これは後に、つまりヨハネが逮捕された後、イエス自身が宣教を始めたときの第一声とまったく同じです。やはりイエスはヨハネを受け継ぐ者として活動したとマタイでは見なされています。この言葉の後半はよりはっきり訳せば「天の王国は近づいた」となりまして、地上の王国、具体的には当時のヘロデの王国とひとまずは対立的です。ただそのことは明らかではありません。しかし、かつてお話ししたように、ヨハネはヘロデの圧政と律法への背きを激しく攻撃していくのです。彼の運動は、見た目は非常に観念的な、かつ象徴的行為による民衆の救済運動ですが、現実の機能としては、反体制的・革命的運動であると言えそうです。
著者はこのヨハネの活動をイザヤ書40章の言葉の実現であるとみなしています。つまり、著者マタイにとって、旧約聖書はあくまで自分のよりどころであるのです。ただ、ヘブライ語のイザヤ書40章では呼びかけているのはおそらく天使であるが、マタイではヨハネ自身となっている。これはマタイが見ているのがギリシア語の旧約聖書だからです。ヨハネの姿は荒れ野の隠遁者を想起させますが、それは違います。むしろエリヤやエリシャと比べるべき預言者的人物であり、非常に行動的であり、政治的にも王に対して厳しい審判を告げる者となりました。このような人物の周りに、「エルサレムとユダヤの全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て」とありますように、かなりの人々が集まってきたように書かれています。つまり、イエスの先生の活動は一定の成果を上げていたのです。ですから、後にイエスの周りに集まった人々の多くはこのヨハネの活動に加わった人々のことかもしれません。そして人々は「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」のでした(6節)。
7節-12節までは比較的長いヨハネの演説です。まず7節前半を見ますと、驚くことに、「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て」と書かれています。ヨハネをたしなめに来たのではなく、彼に洗礼を授けてもらうためだというのです。これは奇妙なことです。彼らはむしろヨハネに批判的なはずです。しかし、洗礼を求めてきた。これは悔い改めている証拠でもあるのだから素直に授けてやればよいのに、と思いますが、しかしまったく逆の反応です。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と一喝しています。今私が授けている洗礼は、それに与れば、裁きを免れるというような安易なものではないことを言っていると思われます。そして悔い改めにふさわしい活動をするよう呼びかけているのです。
さらに9節では「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでもアブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」と非常に辛辣にファリサイ派やサドカイ派のプライドをへし折ろうとします。彼らは自分たちこそ、選ばれた者であり、由緒があり、律法と祭儀に忠実であると考えている。ヨハネはかれらが悔い改めるために来たことをまったく無視して話しています。好意的な人々のはずにもかかわらず、ヨハネは彼らの権威を否定する。つまり君たちは目の前の河原の石ころなのだと。同時に、この石ころだって選ばれてどんな活躍をするかわからない。つまり神の創造の自由は無限であるという信を貫けば、人間社会の権威など、取るに足らないというのです。
私たちの国では今でも天照大神の子孫を主張する一族を国民統合の象徴としており、また明治天皇を神として祀っています。ヨハネは言ってみれば我が国の権威の基盤を否定するのと同じことを言っているのです。つまり非常に深刻な批判なのです。そのような発言のよって立つ根拠は、差し迫った審判である。すなわち「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる」(10節)のです。この言葉も、イチジクの木を呪うイエスのそれと似ています。
11-12節は一転してこれから別な預言者が来るという話になっています。これはもちろん著者マタイの思いを投影したのでしょう。イエスはヨハネよりも偉大であらねばならない。新たにやってくる方は聖霊と火で洗礼を授けるという。これは神との直接的なつながりを象徴しています。ヨルダン川の水で清めるという程度の話ではなく、神による直接的な選別である。この個所をまじめに受け取るなら、キリスト教は水の洗礼は本来必要ではないことになるのです。そうした水の権威を特権化する必要はなく、つまり神父や牧師の権威は最終的には必要ないということになるでしょう。こうして、やがて来るイエスの権威は直接的な神の権威であることをマタイは主張しているのです。
さて、天の王国は今も近づいているのでしょうか。ヨハネは切迫感をもってそう言っていますが、わたしたちの時代ではこうした終末論は流行りません。むしろ眉唾である。しかし、世界の多くではこうしたカリスマ的指導者による発言によって国の命運が変わることがある。つまり、神の王国は近づけることができると言えます。もちろん、貧困や病を放置しておきながら神の介入を待つという身勝手で安易な考え方も出てきます。しかしそんなことはありえません。神の国は悔い改めて行動する人々において出現しているとみるべきでしょう。つまり、わたしたちの言葉で言えば教会です。教会が神の支配を目に見える形で実現しているといってよい。
とするなら、天の王国が近づいたというのには二つのとらえ方がある。すなわち、天の王国が我々の現実を度外視して実現するという一方的で空想的な考えと、もう一つは自分たちが生き方を転回することを通じて天の国を近づけることによって最終的に実現に至らせるという非常に現実的・実践的な、パウロに代表される思想です。
しかしよく考えてみますと、天の王国は地に出来てしまったら地上の王国になってしまうのではないでしょうか。そして以前の地上の王国と同じ、支配と抑圧をするだろう。したがって天の王国とは常に近づけるものであり、そのために「悔い改め」が必要である。天の国とは常に理想でありつつ、一部は実現する。それは目に見える教会として。しかし最終的な完成をわたしたちは知ることができない。ただ聖書に漠然と描かれているだけである。
最終的な完成を知ることができないことを不満に思う人もいるかもしれない。しかし、実はそれはそんなに大げさなものではない。それはやがてイエスによってはっきりと宣言されることになるが、先取りしておくなら、それは冒頭に述べたことである。「今日も生きてここにいる」つまり命ある事、それを喜べる事、ともに喜ぶこと、これが完成である。つまりわたしたちは完成へと登るのではなく、完成へと回帰するといえるだろう。すべてはここから始まり、ここへと戻る。ここから再び、新しい時に歩みだす。そこには試練がある。しかし、それはすでに克服されているのである。なぜなら、我々はすでにイエスを知っているのだから。
改めまして新年おめでとうございます。