砧教会説教2016年1月10日
「イエスも清くなりたかった」
マタイによる福音書3章13~17節
本日は先週に続く箇所を取り上げます。ヨルダン川沿いの荒れ野で洗礼運動を始めたヨハネは、かなりの数の民衆に精神的な救いを与えたように見えます。民衆は、都市であれ、農村であれ、身分がどうであれ、時代と社会の矛盾から生じた経済的貧困や差別、病、そして精神的な渇きから自分を解き放たちたい、満足を得たい、要するに自らを救いたいという強い気持ちを抱いていたのです。このような民衆の背景にある飢餓感のようなもの、それを何とかして救おうとしたのが洗礼者ヨハネだったのです。しかも、ヨハネは当時の体制側の人々にさえ、厳しい批判を加えていました。
さて、このようなヨハネの活動において出会いが起こりました。それが今日の記事の出来事です。マタイの伝えるところによると、イエスがガリラヤからヨハネのところに来たとされています。「彼から洗礼を受けるためである」と13節にはっきりと書いてあります。イエスが洗礼を受けたことはマルコ伝にもルカ伝にも書いてあります。ヨハネ伝には書かれておらず、霊が降ってくる人としてのイエスに言及するだけです。ヨハネ伝はたぶんイエスがヨハネから洗礼を受けたことを認めたくなかったのでしょう。それは明らかにイエスを洗礼者ヨハネの下に位置づけることになるからです。つまり、イエスの権威を侵すことになるからです。マルコ伝やルカ伝は短く記すだけですが、このマタイ伝の記事は拡大されています。そして、ある意図を込めて二人のやり取りを記しています。つまり、こちらもイエスの権威の方が上であることをヨハネの謙遜の言葉を通して示しています。この二人のやり取りを聞いていた人がいるはずもないし、ヨハネはやがて逮捕され、処刑されていくので、このようなやり取りを残せたはずもない。そしてイエス自身がわざわざ「今は止めないでほしい」(15節)と、後の活動を見越して発言するというのも明らかに変です。つまりこれはマタイがイエスの生涯の出来事を神の計画の一部として位置づけるために、あえて書き込んだ言葉です。要するに、イエスはほかの民衆と同じように、世の中に対する、あるいは自分に対する大きな壁にぶつかり、その壁というか苦悩というか、そうしたものを打ち破るために、あるいは抜け出すために、荒れ野の洗礼者ヨハネのもとにやってきたのです。つまり、イエスも清くなりたかったのです。
ところで、ヨハネの活動は私たちの教会で行うような洗礼つまり水滴を注ぐという象徴的なものではなく、ヨルダン川にヨハネの手によって沈められるという形であったと思われます。今でもバプテスト派の教会は風呂のような浸礼の桶に身を沈めますし、川や海で水に沈むという形もあります。このような形をとるのは、ただ単に水によって清めるというだけでなく、もう一度生まれ変わるという意味を含んでいることは言うまでもありません。水のもつ宗教的力は別にキリスト教だけではなく、広く世界に存在します。以前にもお話ししましたが、わたしたちの国でも禊(みそぎ)と称して、水を浴びますし、インドでは聖なるガンジスの水に浸り、最後は死に水としてガンジスの水を含むことが有難いこととされています。水とはあらゆる生き物にとって命を支えるものであります。もちろん食べ物も大事ですが、人間の体の7割は水であるとさえ言われるほどであり、水とは私たちそのものでさえあると言えるくらいです。しかしこの浸礼、ないし洗礼によって象徴されるのは、やはりもう一度生まれ直す、つまり母の胎内の水、すなわち羊水の中からもう一度生まれ直すことではないでしょうか。キリスト者は二度生まれると言われることがありますが、一度目は生き物として母の胎内からこの世界で自力で息をする者として生み出されます。そして二度目はキリストの霊の力によって、もう一度水に沈められ、息もできないその中から、もう一度立ち上がる、つまり新たに生まれるのです。このような非常に強力な象徴的な力、すなわち非常にリアルに感じ取れる儀式を通して、人々は自らを新たな人間として切り替えていくことができたのです。もちろんその儀式を通じてどんな人間になるのかは示されていません。ただ、それは悔い改めの実現として意味づけられるだけです。悔い改めとは自分の罪を露わにして、つまりそれを外に放り出して、自分の生き方を転換させることですが、悔いるという言葉は今一つしっくりこない気がします。なぜなら、民衆にとって自分たちの苦難の状態が「自己責任」として理解されてしまうからです。結局は「お前たちが悪い」だから「悔い改めよ」となってしまうのです。はたしてヨハネの活動がそのレベルのものだったのでしょうか?かりに悔い改める必要があるなら、ユダヤの人々はエルサレムに行って犠牲をささげればよいのです。そして神殿で自ら祈り、許しを請えばよいはずです。ならば、ヨハネの活動は必要ないはずです。では、なぜヨハネの下に集まるのか?それはたぶん悔い改めの中身が違うからではないでしょうか。つまりヨハネは今のユダヤ社会にいること自体が罪なのであって、その社会から抜け出すこと、それが悔い改めることの意味であると言っているのです。彼は現実の腐敗したユダヤ教の内部にいて、そこで律法に照らして罪アリとされるような個別の罪の判定を考えているのではなく、君たちが生きている世界全体が罪なのだから、そこからはっきりと縁を切り、もう一度最初から人生をやり直すよう呼びかけていると思われます。つまり彼は非常に革命的な宗教運動を始めたのです。その象徴的儀式、いや最も重要な儀式が浸礼であったのでしょう。この儀式を通して、当時のユダヤ社会から――それはローマによってさらに上から支配されていたのでしたが――あるいはそうした世界の罪から抜け出すこと、これが「悔い改め」の真の意味なのです。ですから、これはなにか個人的な罪の浄化というレベルの悔い改めではありません。もっと深刻で、ときには破壊的でさえある。もちろん、ヨハネは言葉の人、つまりは預言者ですから、彼のもとに集まった民衆は戦争や暴動を起こすような人々ではなかったと思われますが、中にはそうした者もいたかもしれません。
そのような預言者ヨハネの下にイエスも呼び寄せられていったのでした。つまり彼はエルサレムの権威、伝統的な律法に基づいて自分の罪を告白し、犠牲を捧げて悔い改めをするというようなことをめざしはしなかったのです。彼もまた自分の生きる世界の、つまり当時のユダヤ社会の中で、現在の宗教や政治では自分が救われないことがはっきりとわかっていたのです。だから、ヨハネのもとに行ったのです。若いイエスは非常に苦悩していたに違いない。この世界にあって、自分もこの世の支配に中にいて、そして貧富や病や権力ある者たちによる抑圧をつぶさに見ていながら、どうすることもできない。かといって伝統的なユダヤの律法に従って自分を責めて、自己責任の論理にからめとられて、神殿に犠牲を捧げ、自分の罪を帳消しにしてみたところで、現実は何も変わらない。本当はもっと非常に重大な、あるいはもっとはるかに深刻な問題が存在し、その解決の道が別に用意されているのかもしれないと感じていたのでしょう。だから彼はエルサレムではなく荒れ野の預言者ヨハネの活動に参加したのです。多分彼は、一度はこの世界(社会)全体を丸ごと否定し、抜け出すことを夢見たに違いない。そしてまったく別の世界が到来することを強く確信するようになったのです。そしてイエスは預言者ヨハネを通して浸礼を受けたのです。
「イエスも清くなりたかった」と題をつけましたが、これはイエスが彼自身の人生の問題、つまり人間関係、あるいは彼自身の何らかの病気、精神的な混乱、罪の意識といったことから逃れたかったという意味ではありません。もちろん若いイエスですからそうした問題に直面していたのも事実でしょう。しかし、それだけなら、後のイエスは存在しません。まったく私的な拝み屋さんやカウンセラーのレベルで終わったはずです。しかし、そうはならなかった。彼は預言者ヨハネの問題意識を持っていたのです。つまり、これまでの世界を丸ごと罪と見立て、まったく新たな世界の到来を信じ、それに向けて生き方を転換すること、すなわち真の意味での方向転換、あるいは離脱、つまりまったく新しい「出エジプト」を宣言するのです。それはもう少し先ですが、おそらくそうした非常に黙示的な、つまりは「啓示的」なヴィジョンを持ったのでしょう。イエスはそのことに確信をもってヨハネから浸礼を授かり、新たに生まれ変わり、師である預言者とともに走り始めたのでしょう。
私はマタイの加えたヨハネとイエスの会話はマタイの創作的付加であると先に申しましたが、これ自体は創作としても、このヨハネとイエスの間柄は実際にそのようなものであったと今は考えています。つまり、ヨハネはイエスをおそらく自分と同じ問題意識をもって世界の新しいあり方、つまり神の国の到来を宣言する人間であること、いやそれどころかそれを実現するかもしれないメシア的人物として目をかけたとのではないかと思っています。そのような二人の間にある信頼のようなものをマタイは確信していたのかもしれません。それゆえ、マタイ伝はヨハネとイエスにまったく同じ言葉を語らせているのです。先週申しましたように二人とも「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3章2節、4章17節)と語り始めているのです。
さて、わたしたちはこのような二人の活動、そして洗礼という象徴行為を受け継いでおります。これは普通の意味では一人の人生においてある種のけじめのようなものにも見えます。それはキリスト教がすでに深く浸透した社会においては、通過儀礼のようなものかもしれない。しかし、そのようなものでは本来ありません。それは実はこの世界を完全に相対化し、それとは別な世界を生きるという重大な決意を示すものであったのです。もちろん多くの民衆はそこまでは考えていなかったでしょう。しかし、ヨハネのもとに行き、エルサレムには行かないという民衆の思いは、やはり重大でしょう。そしてイエスもその中にいたのです。わたしたちはもちろん彼らの時代のような決定的な離脱や対決ということが救いに直結するとは考えておりません。しかし、キリスト者であるということは、彼らのような意味での「悔い改め」を、つまり本気で今の世の中の矛盾とその中にいる自分を乗り越えて新たな人間になるということなのです。
イエス自身も清くなりたかったということの意味は、彼自身がこの世の現実にまみれ、深く悩み、かつその世界とは別の世界を切望していたということです。そしておそらく真のキリスト者とは、やはりいつの時代にあっても、あのヨハネが担った課題、そして洗礼を授かったイエスが後に直面していくこの世の課題を、そしてその先の十字架を、真に自分の痛みとしていくことによって、自分が本当に救われていくということを信じるのです。
このイエスの洗礼の出来事は、もちろん出発点なのですが、その出発点に至るまでのイエスの深い葛藤と、同時に新しい世界への旅立ちが映し出されていることは間違いありません。振り返って、わたしたちも、もう一度自分自身の出発点を顧みるべきでしょう。そして出発点を過去の一時期のこととするのではなく、その出発点を今この時に呼び戻し、あるいは思い起こし、世の荒波を乗り越える力としなくてはなりません。そしてあのヨルダンの水から上がって立ち上がったイエスの足跡を共に歩もうではありませんか。