日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年1月17日
「命の神に愛された者として」申命記7章6~8節
 申命記の文学的構造は非常に錯綜しており、いきなり読んでも困惑するだけである。もちろん、モーセの遺言という大枠はあるにせよ、それぞれの単元、文章、そして単語に至るまで、それらがどのような文脈、どのような歴史的背景をもって書かれているのかを注意深く考えてみないと、真意を理解することができない。もちろん、伝統的に神の言葉として尊重されているし、そうした文脈や歴史的背景などは度外視して、自分の思い、自分の立ち位置からこの書の言葉や文章を読む、言い換えれば、言葉は自分の今に向けられて語られているという前提で読むこともできるし、それでよい。しかし、そうした読まれ方とは別の次元、つまりこのテキストが本来誰に向けて、何のために言われたのかを探り、語り手であるモーセ(あるいはモーセの口を借りて書く著者)の思いに触れることもまた、非常に大切である。つまり、一方的に読み、語りかけられるという関係でなく、このテキストの書き手と対話するということである。
 さて、モーセはこう言っている。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」(6節前半)。ここで「あなた」とはイスラエルの民全体であり、彼らに対して単数形で呼びかけている。つまり集合体を一人の人格として見ている。民族という集合体の人格化である。それが「あなた」である。しかし、ここで非常に重大な疑問が沸き上がる。この「あなた」に対する「わたし」は誰かを考えると、当然これはモーセである。とするなら、モーセはイスラエル民族の外にいることになる。モーセは特別な人物であり、彼だけはイスラエルの外から、「あなた」と呼びかけるとすれば、神の位置にいるかのようにさえ、見える。しかし、それは次の言葉「あなたの神、ヤハウェの聖なる民である」ということばで、否定される。つまり当然ながらモーセは神などではなく、神とイスラエルの間に立つ仲保者、媒介者である。そうだとしても、ではモーセはどちらに属するのだろうか?
 仮に6節の出だしが「わたしたちは」なら、明瞭である。モーセはイスラエルの一員となる。しかし、そうではなく、「あなた」なのである。なぜ、こう書いたのか。多分、これはモーセがイスラエルの外部、つまり神の預言者であるからだろう。ただそれでも疑問なのは、なぜ「あなたは、わたしの神、ヤハウェの……」とならないか、ということである。モーセが神の側にいるなら、モーセ自身の立場から「わたしの神」と言ってもよさそうである。しかし、そうは書いてない。
 多分構図は次のようなものではないだろうか。申命記はモーセの最後の言葉である。つまり遺言である。であるなら、モーセはまもなく世を去るのだから、神を「わたしの神」と語るより、残されていくイスラエルにとっての神であるとわきまえ、モーセ自身がいないことを前提に、残された「あなた」を中心にしなくてはならない。それゆえに「あなたの神」と言った(書いた)のであろう。「わたしの神」であったのも当然だが、これからは「あなたの神」である、と。
 (ところで、ヨハネによる福音書にはイエスが十字架上にあって、母マリアにむけて弟子たちを「あなたの息子」とせよと呼びかける場面がある。イエスは、あなたの息子は十字架にいるので、今度はこの息子に代えて弟子を息子と思ってくれと願うのである。これは代名詞の変更ではなく、あなた(つまり母マリア)の所有する息子の転換である点で、まったく違うが、終わりに臨んでの転換という点では似ている。)
 いずれにせよ、モーセは「あなたの神ヤハウェ」と強調した。そしてさらに「聖なる民」であると続ける。聖なる民とは何か?もちろんここでは解説されていないが、何らかの特権を持つかのように理解してよいのだろうか。すでに出エジプト記19章6節に「祭司の王国、聖なる国民となる」と予言されているように、神ヤハウェの支配に属する民である。言い換えれば、地上の王国の支配に服するのではないということである。したがって、ほかの民とは根本的に違うことを告げているとしても、特権的であるのではなく、他と比べて優れているということを意味するわけでもない。神は神聖であるという権威的な表象に基づいて、この民もまた権威ある民であるというような自賛を語っているのではない、と思われる。同様に、本日の箇所も特権的・優位な民であるということを意味しないだろう。
 さて、後半の「あなたの神、ヤハウェは地の表にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた」という文に移ろう。ここで大きな疑問を抱いたのは、「宝の民」という表現である。これはごく普通に考えれば、神にとって非常に大切な価値のあるもの、貴重なものという意味である。しかし、ここでの言葉(セゲラー)は単に「所有」「財産」といった意味で、特別の価値を前提しない言葉である。実際、RSV(改定標準訳)では「彼自身の所有物」であり、ルター訳でも同様である。つまり、イスラエルの民はヤハウェに属するというほどの意味である。しかし、新共同訳は「宝」とし、フランシスコ会訳も、新改訳もそうである。なぜか?それはおそらくイスラエルが選ばれた民であり、ある種の高い価値があるはずと訳す側に偏見があったのではないか。だから単なる財産や所有物ではなく、かけがえのないものとみなしたのであろう。ただし、70人訳のギリシア語訳は「特別な」という形容詞を入れ、おそらくそれを踏まえてKJV(欽定訳)はスペシャルという形容詞を入れている。さらに、最近のNRSV(新改訂標準訳)はわざわざ「宝」を補ったりしているが、これはやりすぎ。
 ところで、この箇所と並行する出エジプト記19章5節も新共同訳は「宝」だが、テキストはもちろんセゲラーで、所有、財産である。要するに、訳者はこの箇所の書き手の思惑以上にイスラエルの民を神にとって重要なものと考えたのである。ただし、これはもちろん無理もない。実際、そのような理解をさせるような記事はたくさんあるのだから。
 要するに「宝」ではなく、ヤハウェが目をかけた民ということである。ではなぜ目をかけたのか?それは7-8節に説明されている。すなわち「あなたたちがどの民より数が多かったからではない。あなたたちはどの民よりも貧弱であった。ただ、あなた(これは間違い。「あなたたち」)に対する主の愛ゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」と。
 ここで疑問が生じる。なぜなら、ここから人称が二人称複数になぜか変わるのである。本来、6節で切れていたか、9節につながっているか、のはずだが、わざわざ7-8節の説明を入れている感じなのである。おそらく、こうした説明を入れないと、なぜ自分たちが神に属する民なのかわからないので、解説したのかもしれない。それにしても、この「あなたたち」とはだれなのか?議論は割愛するが、おそらく6節とは別の時代の人々の共同体を指しているのだろう。そして新たな付け加えであることを示すために、わざわざ複数形にしたのであろう。この新しい共同体は自分たちがなぜヤハウェの所有なのかを考えた。それは結局自分たちが貧弱であったがゆえに憐れんだからだと考えた。この憐みを「愛」と表現する。さらに、先祖への約束があったからであることも加えている。
 イスラエルの神は彼らが貧弱であったのを見て愛したのである。つまりは憐れんだ。神とは愛であるとキリスト教はふつう言うが、要するにそれは旧約から来ている。しかし、その愛は一言でいえば、傷ついた者、貧弱な者への労り、あるいはその傍らにいて励ます者のそれである。すると、あの新約聖書ルカ伝の善きサマリア人の話と完全に重なるだろう。つまり神とは隣人となったあのサマリア人である。とすると、ここで「主が心引かれて選んだ」という表現は、やや誤解を生む。ほんとうは選んだというより、彼らの隣人となった、ということであろう。
 そうなると、6節に見られるヤハウェの財産としてのイスラエルということはいったい何を意味するのだろうか。労りの相手ではなく、財産、所有であるとは?
 おそらく、この財産や所有の意味を神自身の子ども、とくに娘とみなしているからそう表現したのだと思われる。当時のイスラエルの父権制社会において、家長である父にとって家族は財産の一部とみなされていた。そのような家族制度がおそらくヤハウェに投影されたのであろう。つまり、イスラエルは神ヤハウェの子(とくに娘)となったということである。
 こうして私たちはようやく命の神に愛された者として生きることの意味にたどり着く。イスラエルの出発とは神ヤハウェによって愛されたことである。それは出エジプトをしたことではなく、それに先立って、ヤハウェなる神が自分たちを憐れんだ(愛した)ことにある。ではなぜ憐れんだのか。それは彼らが貧弱だったから。なぜ貧弱なのか。それは彼らを貧弱にした力のせいである。その力とは何か?それはエジプトの、つまり人の支配と略奪、そして自分たちの勇気の欠如である。それゆえに神ヤハウェはその力を克服する力として、この自分の子であるイスラエルに律法を示し、それを守るよう約束させたのである。その媒介者がモーセだった。
 それゆえ律法とは本来、神の愛のしるしである。それゆえ、律法は救いそのものであるとさえいえる。それは決して民を縛り、支配するためのものではない。そしてそれを守ることが救いである。なぜなら、それを守ることによって共同体は平和となり、その中の一人一人が安心して生きていけるのであるから。
 さて、このテキストをやや細かく読んでみたが、愛の神としてのヤハウェは、イスラエルの歴史、そして神自体が人となったイエス・キリストを通じて、そしてこの聖書の言葉を通して、今なお働いている。ヤハウェとは姿かたちのことではなく、愛の働きそれ自体において現れるといえるだろう。私たちは今、教会に集まっているが、そのことのわけは、自分たちがあの命の神ヤハウェの愛を受けていることを証しするためであるとともに、同時にその愛を隣人に捧げるためでもある。私たちは命の神ヤハウェへの感謝ともに、今困難の中にある人々の隣人とならなくてはなりません。そのためにも、わが砧教会の輪を広げていかなくてはなりません。今年はそのことを主要な課題としたい、そのように思っています。