日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年1月24日
「誘惑に乗るか、乗らないか」マタイによる福音書4章1~11節
 生きていると様々な誘惑に出会います。たいてい、それに乗ってしまえば、身を亡ぼすものです。誘惑者は、初めから自分の利益を考えているのですから、相手に利益が渡ることはありません。なにか自分に利益があるかのような錯覚を与えるだけです。そしてそれを錯覚と思えないうちは、誘惑されていることに気が付かない。むしろ、正当な商売や良き友人、善き宗教と考えてしまう。いつかは自分に利益(「りえき」、「りやく」)が回ってくると考えるか、最初の見せ金や証券のようなもの、あるいは短期の利益によって、さらに限りないやさしさのようなものによって、目が眩まされ、この状況がいつまでも続くかのように思ってしまう。やがて、自分には何も残っていないことに気が付き、愕然とするのです。
 ところで、私たちがイメージする誘惑とは、例えばお金儲けの話、ダイエットの話、街角でのキャッチセールスなどいろいろと思い浮かびます。そのほか、宗教の勧誘のようなもの。それらは犯罪であるはずなのに、たいてい騙されるほうも悪かった、騙された自分の名誉が傷つくなどと、自分を責めたりすることもあり、かえって誘惑者の思うつぼという場合もあるといわれます。
 さて、今日の聖書はイエスが誘惑されたという話です。イエスは洗礼者ヨハネの弟子となったという話が今日の箇所の前にあるのですが、まだ若いイエスはいきなり人々の救いのために活動したのではありません。彼も初めは悩める若者であり、それを抜け出すために、当時の預言者運動のひとつである洗礼者ヨハネの活動に参加したのでした。そして洗礼を受け、新しい生き方を始めた矢先に、悪魔の誘惑を受けたとされているのです。
 テキストにはわざわざ「悪魔から誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。すでに誘惑にさらされることは前提されています。これでは奇妙な感じもしますが、これは一種の荒行、非常に厳しい修行のようなものとみなされています。そして少しでも誘惑の厳しさを強めるために、あるいは誘惑する者に有利になるように、逆に言えばイエスには非常に不利になるように、おぜん立てをします。すなわち、「40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えらえた」と書かれています。これは何を意味するかはお分かりですね。人間、弱くなれば、誘惑にたやすく負けるに違いない。どこまでイエスが耐えるのか、見てやろうというのです。(このモティーフに似ているのは、いうまでもなくヨブ記です。ヨブ記もサタンと神とがやり取りし、義人ヨブの財産、家族を奪ったうえ、死の直前まで追い込んで、彼の信仰を試すという話です。しかし話の主題は全く異なっています。ヨブ記は災難に対してなぜ神はこんなことをするのかという神に対する厳しい問となります。)
 イエスはすでに自分から修行している姿です。したがって、この断食による空腹は自分で選んだもののように読むことができます。だから神に対する異議申し立ての余地はありません。ヨブ記とは全く異なった主題なのです。
 ここで注意しておきたいのは、ルカ伝では40日間にわたって誘惑したとあり、その後に悪魔と問答しています。つまり、悪魔との問答は必ずしも誘惑とは言えないということです。これは誘惑どころか、イエスの神の力を試そうとしているのです。
 さて、激しく空腹を感じているはずのイエスの前に「誘惑する者」が現れます。彼は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言う。するとイエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えます(申命記8章3節)。
 さて、これはいかなる意味で誘惑なのでしょうか?お前が神のように全能なら、石でもパンに変えられるだろう。できないなら、お前など神の子などではない、ということなら、彼の誘惑とはイエスが石をパンに変えようと実際に試み、それができないことが分かってしまうことになれば成功したということです。つまり、イエスがその言葉通りに実行したら、そんなことはできるはずもないので、失敗する。そのことを見届け、イエスの権威を失わせることができるというわけです。ただし、もし本当にできてしまったらどうなのでしょう?そのことによって神の子であることが証明されてしまい、誘惑者の思惑は失敗する。
 ここで深く考えなければならないのは、誘惑者の言葉です。彼は神の子なら全能の力で何でもできるという理解をしています。しかし、それ自体が誤りであることに気づいていない。つまり、全能者ならそもそも空腹になることはないのです。それなにのイエスをそうした神の子として彼に問いかけている点で、未熟です。この未熟な誘惑者に対し、イエスは悠然と答えている。「人はパンだけで生きるものではない」と。イエスはすでに魔法を使って見せろという呼びかけを無視し、生きるための力とは食料だけではないこと、神の言葉で生きるのだというユダヤ教の根本的な教えを語ります。
 誘惑者はイエスの化けの皮を剥ぎたいという誘惑に駆られているのですが、そもそもイエスは化けていないことを示すのです。むしろ伝統的なユダヤの教えに忠実である。こうして誘惑者とイエスの出会いはすれ違いに終わり。一幕が終わります。
 次に誘惑者は神殿の屋根に連れていき、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」と言い、詩編を引用して、天使が支えてくれるだろうから、とばかげた挑戦を呼びかけます。もちろん、こんな求めに応じることはできない。イエスはとっさに「あなたの神である主を試してはならないとも書いてある」とはぐらかし、誘惑者(悪魔)の誘惑には乗らない。この申命記6章16節の言葉は重要です。神を試すということは、神の全能性を試すことですが、ほぼ間違いなく神の全能性は否定されます。飛び降りたらケガするか、死にます。しかし、よく考えればわかるように、人間の思惑通りに働く神はそもそも神ではない。神は信じる者を救うと言いますが、それは救いの意味を、信じる者の思惑の実現ととらえた場合には、当たり前ですが成り立ちません。救いとは信じる者の思惑や要求が実現するということではないのです。信じることによって何らかの取引が成立していると考えるのは、まともな宗教ではないのです。主を試してはならないという言葉は、神の不能性がバレるから試してはならないというのではなく、神をこちらの信仰に従わせるという不可能な要求を前提に行うことだからです。つまり、主を試すということはもともと不可能なのです。そのことを正確に理解しておかないと、実は私たちの時代でさえ、その問いかけに足元をすくわれるからです。なんであの東北の心優しい無垢な人々に津波が襲ったのか、なぜ神は善良な人を救わないのか、信仰など無駄ではないかなどと問う人々がおりましたが、これも神をこちらの思いに従わせたいという意志を表明しているにすぎません。
ならば、なぜ信じる者は救われるという言い方をするのでしょうか。それは実は簡単なことです。信じる者は救われるとは、正確には信じること自体が救いであるということなのです。信じたから病気が治ったというのは宗教ではありません。それはある種の効果ですが、本当はこう言うべきなのです。信じたけれども治らなかったが、治らなくても信じたおかげで魂は安らかであるというのが救いの意味だ、と。もちろん奇跡もある。それを信じるのも当然良い。しかし奇跡が自分にも起こるかもしれないと期待するのは誤りです。奇跡を信じる際注意しなければならないのは、それこそ、誘惑です。奇跡への期待はその裏側に非常に強烈な欲望があるからです。そしてそれを見透かした誘惑者はそこにつけ込むのです。だから昔から「際物」には気をつけよと言う。つまり期間が限られたもの、これを逸するともう手遅れだといったもの、そんな言い草にほんろうされてはなりません。なぜなら、そのようなものに頼って効果があるなら、ほかの手段は意味を失うからです。
 さて、悪魔の最後の呼びかけは、これぞ誘惑ともいうべきものです。悪魔にひれ伏せば、世界を手に入れることができる。これはいかなる意味の誘惑でしょうか。これは富と繁栄、この世の豊かをすべて与えるということです。悪魔の手下になるなら、という条件で。問題は悪魔の手下になることがどんな意味なのかです。よく考えてみると、悪魔の手下になることに不利益はないように見えます。つまり、手下になることで世界は手に入れたが、この先何かやらなければならない悪事でもあるなら別ですが、それは書かれていません。ただ悪魔に仕えればよい。ならば、手に入れたほうが良いと考えるのではないか。しかし、イエスは次のように答えています。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と。
 ここでの誘惑の真意は、実は悪魔とはこの世の富と繁栄そのものであるということです。悪魔に仕えるとはこの世の繁栄に仕えることである。そのことに「否」を突き付けたのです。このモティーフはマタイには繰り返し出てきます。これがイエス自身の真意であるのかは留保が必要ですが、富と神との両方に仕えることはできない、金持ちの若者、ラクダが針の穴を通る比喩、などすべてこれがモティーフである。これは私たちに常に根源的な問いかけとなるように見える。私たちは豊かになってはいけないのか、お金を儲けるのは悪いのか、などなどと自分を責める人も出てくる。しかし、そんな我々のレベルのことを言っているのではありません。これは巨大な暴力とそれを背景に税を絞り、その富を用いて傲慢な自由を謳歌する古代オリエントの、あるいはイエス時代のローマ帝国のような、途方もない力のことを言っているのです。つまり、簡単に言えばあの永遠の都ローマには絶対に仕えることはない、という意味です。
 さて、私たちはどうでしょうか。巨大な力に仕える、それをすべて自分のものにしようとはつゆほども思わないが、その中にいたい、その中でうまくやっていきたい、と思う人は多いかもしれません。いや、やはり世界の富を一手に集めて、世界を制覇しようと思う人もいるでしょう。
 キリスト教はそのことに対して非常に敏感である。そのどちらにも、やはり批判的です。なぜなら、そのような思いこそが、人間を不幸にしたこと、多くの人々を貧困や病に陥れ、傷つけてきたことを知り抜いているからです。
 だからと言って、悪魔にひれ伏さず、神に仕えるといっても意味がありません。神に仕えるということの中身がわからなければダメなのです。ではその中身は何か?それが愛の実践ということです。それはこの世にあってなお、世界の腐敗に直面してなお、子供たちに不幸に接してなお、あきらめることなく、その不幸や苦難を取り除く働きをする、あるいはその意思を保ち続ける、あるいはそのための外からの応援を続ける、そうしたことです。その中は教育の活動も含まれることは言うまでもありません。
 私たちは今、この最後の誘惑に一番弱いのではないでしょうか。格差が開いているからこそ、かえって下にいる人々が巨大な力に憧れ、届くはずがないのにあたかも自分がそこに行けるかのように錯覚する人々がいる。世界には戦いが溢れ、資源の浪費があり、原発もまた動かしている(あの巨大事故にもかかわらず)、そして東アジアでは再び核兵器への強い欲望が頭をもたげている。富と繁栄の裏に潜む魂の荒廃、憎しみや怒りの広がりは、すでに悪魔の誘惑に負けているのかもしれません。私たちは誘惑を本当にやり過ごせるのか、大きな曲がり角にいるのかもしれません。それゆえ、このイエスの宣言は、私たちにとって大きな力となると思うのです。そして、私たちはキリストに連なる場所にいるからこそ、かえってこの時代にこそ、与えられている使命は大きなものがある。だから私は砧教会に集まる皆さんに大きな期待を持っています。互いに誘惑をやり過ごし、真の喜びと平安を獲得したいと思います。