砧教会説教2016年1月31日
「いつも心に主イエスを」
マタイによる福音書4章12~17節
イエスは自分の先生であった洗礼者ヨハネが逮捕されたことを聞き、ガリラヤに退却します。イエスはヨハネと行動を共にしていたわけではありません。マタイの筋ではイエスは荒れ野に出て悪魔の誘惑と戦っているのです。悪魔との対決が終わったのち、ヨハネの逮捕の知らせを受けたということです。そこで、彼らは自分の故郷ガリラヤ地方に行きますが、自分の町ナザレからは離れ、ガリラヤ湖の北岸の町カファルナウムに住んだというのです。この事態はマタイによればイザヤ書8章23節の預言の成就と解釈されています。「ゼブルンとナフタリの地、湖沿いの地、ヨルダンのかなたの地、異邦人のガリラヤ」とは、イザヤの時代にアッシリアが北イスラエルを襲った際に占領された地域である。マタイはその地にイエスが行かれたことを「光が差し込んだ」と解釈しているのでしょう。
マタイにとって、イエスは光である。その光が異邦人のガリラヤと呼ばれるとおり、ユダヤ的伝統からは多少とも離れた場所に差し込むと言います。こうしてイエスの活動が始まります。彼はガリラヤの地で、活動を始めた。そして、以前にもお話ししましたが、ヨハネと全く同じ言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り、自分の先生と同じような悔い改めの宣教を始めたのです。おそらくヨハネが逮捕されたこともあり、ヨルダン川沿いではなく、そこよりやや北のガリラヤ湖北岸で活動を始めたわけです。当然緊迫感が漂います。自分の先生が逮捕されたのですから。イエスの運命は、このときからすでに決まっていたとさえ感じられます。自分もヨハネと同様、やがてそうなるのかもしれないと。しかし、イエスは始めました。このときからイエスはおそらく歴史の舞台の主役の一人として登場したといえるでしょう。もちろんまだ周りには誰もいません。なにしろ洗礼を受け、荒れ野で修行していただけなのです。つまり、彼は一人で活動を始めたのです。
今日は聖書の解釈はおいておきます。私はこのイエスの孤独と悲しみ、恐れと不安、そしてそれを超える勇気を感じ取ります。今日の題は「いつも心に主イエスを」としましたが、どのようなイエスを皆さんは心に抱くでしょうか。私はまず、この宣教の出発点に立つイエスを心に留めます。エルサレムからはだいぶ遠く、異邦人も多い。その中にあって時代の転換を呼びかけるイエス。彼の活動は師ヨハネのような洗礼運動という象徴行為を通じて生き方の自覚的な転換を求めるのではありません。ヨハネの下に集まってくることのできる「主体的な」人間ではなく、そのような自覚や主体性を見出していない人々、あるいはそのような主体性のはるか以前にいる人々の住む場所で語り始めたといってよい。この点で先生であるヨハネよりもより進んでいます。つまり、イエスは自分から町へと、村へと出ていく人です。ヨハネとは違うのです。
私たちはこのイエスの活動を一つのモデルとしています。教会とは出ていくものである。かつて浅野先生は一人が一人をキリストへと招くことを活動の方針としたと聞いております。なるほど、これはいかにもプロテスタント教会であると思います。プロテスタント教会はその信徒一人一人は教会の信徒であると同時に、一人一人が祭司として神に直接つながることを基本にしているので、各人が宣教の主体であるともいえます。つまり一人一人がキリストを述べ伝えることが求められているのです。もちろん、イエス自身は「天の国」の到来を宣教したのであり、私たちは「キリスト」を宣教する点で違いはあるのですが、本質的には同じかもしれません。つまり人々の救いに関わるという点で。
ともあれ、私たちはイエスを心のうちに置きます。そしてそれに倣うことを求められているのです。
しかし、普通はイエスを心に置くということは、イエスの十字架と復活を想起することかもしれません。つまりこの二つの出来事と信仰が、キリスト教の中心にあるからです。キリスト教はイエスによる罪の赦しということが中心にあります。その赦しの担い手が十字架のキリストであるなら、そのことを深く心に留めなくてはなりません。ところで、十字架のキリストはなぜ十字架にかかったのか?それは、元来は弟子たちやイエスの周りに集まった民衆の罪を贖うためであったといわれます。ところで、この罪とは、元来、当時のユダヤの律法を守らないことを意味します。しかし、この罪の範囲は広く、漠然としています。なぜなら、ユダヤの律法は独自のもの、つまり食事、犠牲、結婚、風習(割礼のような)に関するもの、要するに儀礼的に異邦人との差別化を図るための規則がたくさんありました。全体として宗教的な掟であったのです。ですから、「罪」といってもそれは一般的な犯罪、殺人や盗み、性犯罪のような他者の権利を侵害する罪とは違います。イスラエルにおける罪とはこうした社会法を含みながら、全体として宗教的な逸脱のことであり、要するに「ユダヤ教の神」に背いたということを指すのです。つまり背信ということです。ですから、ユダヤ人としての自覚を持っているものは、「罪あり」とされることをとても恐れます。なぜなら、罪を宣告されれば、その社会の中で生きていけなくなるからです。そして没落し、貧困となり、みじめな生き方を強いられる。その中には身体の病気や障害、精神的な病のような人々も罪の結果として理解されるため、彼らもまた非常に深刻な差別を受けていたのです。このような人々について福音書が繰り返し取り上げていることはご存知のとおりです。
ですから、罪から救われるためには、その人自身が主体的にユダヤ教の律法に忠実な生き方をすればよいのです。しかし、ある種の病気や障害の人、精神の病のような人はすでに罪の結果とみなされているのですから、自分で自分を救うことはできません。要するに彼らはすでに裁かれてしまっているのです。一方、その他の、ユダヤの儀礼的宗教的律法を守れない人々がそれを守れば自分を救うことが本当にできたのでしょうか?できたとすれば、そもそもイエスの活動の半分は必要ありません。では、なぜイエスが必要とされたのでしょうか。いや、なぜイエスは新たに活動しはじめたのでしょうか。
イエスはおそらくこう考えたのです。そもそもユダヤ教の律法学者たちがいう罪とは神への背信などではなく、当時のユダヤ教の貴族支配祭司支配を維持するため、自分たちに都合のよい律法を決めて、それを神の律法として一般の人々に押し付けているのであって、その押しつけを守れないからと言って彼らを罪人として差別し、抑圧するのは誤りであると。だからイエスはそのような罪は私が勝手に赦してやるのだと言い始めたのでしょう。つまりあなたには罪はもはやないのだと。
そしてそれにとどまらず、より一般的な社会的な罪、つまり姦淫なども含め、人間としてだれでも行いうる罪も含め、共同体の破壊につながる様々な問題にも一定の解決の道を示しました(山上の説教)。
さらに、イエスはガリラヤやユダヤが実はローマの支配にあることも深く自覚しています。彼はローマの百人隊長とのかかわりを持ちますが、これはイエスがローマの支配を自覚しながら、ローマの手先を癒すことを通じて、地上の支配者としての最終的な権威を相対化しているとみてよいでしょう。もちろん、このことはローマ帝国を本気で倒すというような熱狂主義ではありません。むしろ、ローマ兵士に支配や分断を超えた人間同士の助け合いの回復を通して、ささやかながらもローマの支配のあり方を根本的に問うといった程度のものでしょう。しかし、このことはのちに驚くべき仕方でローマ世界を変えるに至るのです。
イエスの先生であるヨハネは洗礼によって罪の赦しを宣言し、今度はイエスが同じように悔い改めを呼びかけました。悔い改めを呼びかけるのは、ユダヤ教の律法に正しく戻って当時のエルサレム祭儀中心の儀礼的なユダヤ教に従いなさいということではなく、それを飛び越して私の言葉に従ってきなさいという呼びかけです。ですから、二人とも明らかに当時のユダヤの支配者とは対決せざるを得ないのです。つまり彼らはユダヤ貴族や律法学者による罪の宣告と排除、その背後にあるローマの支配と搾取の結果としての貧困や差別に対する厳しい審判を行ったともいえるのです。
こうしてイエスの活動は当時のユダヤ教の枠組みを突き破る圧倒的な力を持ち始めました。彼は「罪」を赦す権威と力を兼ね備えていると信じられていくのです。
さて、私たちもまた、このイエスを救い主と仰ぐ者ですが、皆さんはどのようなイエスを心に留めているでしょうか。あるいはイエスのどの言葉を中心においているでしょうか。言い換えるとわたしたちはイエスの周りに集まった人々のうち、誰と自分を重ねているのでしょうか。
たぶん、どのイエスにも心を止めるでしょう。そしてどの人々にも自分と重なるものがある、と感じるのではないでしょうか。つまり、イエスの周りに集まった人々は私たち一人ひとりであるといってよいのではないでしょうか。
私たちはあの民衆のように様々な困難を持っている。それを罪と呼ぶならそれでも良い。しかし、それはすでにイエスによって赦されたものではないか。キリスト教はそのことを毎週確認しています。そして2000年が経過しました。他方、そうした罪を作り出してしまう力も大きく働いている時代があったし、今また、そうした時代に入っていると思います。その中にあって、私たちはこの砧教会でイエスの出来事を想起しています。わたしはそのことがより一層必要だと感じています。ただし注意すべきことは、キリスト教は二人でも3人でも、集まったところが教会だといわれますが、これはなにか少人数でも集まって細々と、しかし暖かい礼拝が守られています、というような自己満足みたいなことで良しということではない。集まらなければ教会とは言えないということです。もちろん物理的に来れないというような問題は別です。会堂に集まって(あるいは誰かの家に集まって)ここにイエスが、あるいはイエスの言葉が生きているということを外に向かって示さなければなりません。それが世の光であるということです。ですから、教会とは元来力強いものです。細々としていたとしても、そこには救われた者の力が溢れているのですから。そして集まるものの心につねにあのイエスが生き生きと呼びかけているのですから。
今、実は多くの人がイエスを求めている時代ではないでしょうか。混とんとしているからこそ、本当の救いを求めているとも思われるのです。ならば、私たちの役割は大きいはずです。その求めにこたえなければなりません。だからこそ、私たちがいつもイエスを心に据えておくことが大切です。そうすれば、いつでも求める人に伝えることができるからです。