日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

HOME  砧教会について  牧師紹介  集会案内  説教集  アクセス


砧教会説教2016年2月7日
「イエスの母マリアについて」ヨハネによる福音書19章25~27節
 イエスの誕生は母マリアの苦悩から始まりました。それはイエスが神の霊の力によって身ごもったとされた時からです。マタイによる福音書にはその苦悩がそれほどは反映されていませんが、ルカの誕生物語ではいろいろと強調されています。しかし、このマリアについては、聖書はそれほど多くは語っていません。むしろ彼女については意図的に隠されたのか、単にイエスの母として言及されるだけです。おそらく最古の伝承と思われるマルコ福音書の6章3節に「この人(イエス)は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちはここで我々と一緒に住んでいるではないか」と故郷ナザレの村に住んでいたらしいイエスの一家についてその村の誰かの発言が残されていますが、マリア自身の言葉はありません。
 確かに、ルカ福音書ではマリアは大きくクローズアップされています。彼女は天使と会話をしますし、いわゆるマリアの賛歌も朗誦しています。そして、信仰の厚い女性として描かれています。もちろん、誕生物語はルカの創作であり、マリアの言葉や歌も彼女自身にさかのぼることはないでしょう。そこにはイエスの母がすでにイエスの生まれる前から神によって祝福を受けていたとすることで、イエスの権威をいっそう高める働きを担わされているのです。しかし、このようなルカの思惑を超えて、その背後にあったはずのマリアの苦悩のようなものは確かに伝わります。つまり、イエスの父の不在、ないし影の薄さです。このことについては何度かお話しいたしましたが、マリアの夫ヨセフは誕生物語に登場するものの、その役割は非常に限られたものです。実際、ヨセフについてはほとんど言及されていません。イエスはマリアの子であって、おそらくヨセフは父ではないということに、ヨセフに言及しないことを通して、暗に示しているのでしょう。そしてルカは、イエスを聖霊によってみごもったとすることによって、マリアの苦悩を喜びに転換させ、マリアの地位をも反転させているのです。それがマリアの賛歌です。
 イエスも、そして弟子たちも、イエスの家族については関心の外に置こうとしているように見えます。例えばマルコ福音書3章31節以下では、ガリラヤのどこかで宣教の活動をしているイエスを母と兄弟たちが探し当てたという話が出てきます。しかしイエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」とまず問い、やがて周囲を見渡して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と宣言し、この断章はこの発言で閉じられています。つまり、これ以上の説明はない。なぜ実際の母と兄弟につれなくするのかはよくわかりません。しかし、それは簡単です。イエスはヨハネの弟子になるために出家したのです。つまりいったん家族を捨てたのです。だから、つれない態度でそっけなく、語るのです。同時に、本質的なこと、つまり、新しい共同体は血のつながりではなく、新しい信仰による絆に基づくこともしっかり語っています。
 イエスは家族を、母マリアをいったん捨てた。そして信仰に基づく新しい「家族」を作り始めた。それが教会となるのですが、このことは非常に重要なことです。キリスト教は家族とは別の、新しい共同体をつくったということです。それは家族に似ていますが、そうではない。家族は血筋のようなものを前提しますが、キリストの教会にはそれはない。つまり、誰かの子であるという現実を、いったん括弧に入れ、わたしたちは一人一人が神のもとにつながっているという信念によって実は「個人」となるのです。そして、その集団においてはだれもが相互に母、兄弟、姉妹であるということになる。それは立場の入れ替わりを認めることを意味します。だから、そこでは固定的な上下関係も解体されることになります。つまり教会は相互に自由な、同時に相互に叱咤し、相互にいたわりあう関係ができていくのです。つまり役割も固定されないということです。もちろんこれは非常に理想的な言い方をしていますので、必ずしもこうなるわけではありませんが、教会というのは本来、家族的なもの、国家的なものの間、あるいは外側にある、主体的な、つまり自分の決断によってかかわることのできる自由な共同体なのです。(ちなみに国家はその国に生まれただけで否応なく国民としての義務と権利を負わせるので、人々はそれを逃れることはできません。)
 さて、ここで注意したいのは「父」が意図的に避けられているのではないかという点です。教会に父はいないのか?父は天にいるということからなのか?この辺りは良くわからないのですが、ユダヤ教が厳格な律法を与える父としての神を非常に強調するのに対し、イエスのつくった共同体はそのような厳格な父のイメージを追放している感じがします。だから教会に父はいない。もちろんイエス自身が父だからという解釈も成り立ちますが、たぶんそれはない。なぜなら、そうした「父」なるものの不在がイエスを特徴づけているのですから。これはこういうことです。イエスは要するにマッチョではない。厳格に糾し、裁き、排除し、正義を回復するのではなく、かえってイエスは労り、包み、赦し、生まれ変わらせるのです。これはユダヤ教の本質とはもしかしたら別な次元かもしれません。これは当然ながら「母」の本質です。
 おそらくイエスを男としてとらえ、そのことに基づいてキリスト教が男性支配的宗教になったのは外見上その通りですが、ジェンダーの視点でなく、ペアレントフッドつまり親的立場の視点からみればキリスト教は「母」的立場がその本質でしょう。
 さて、マリアについて話を進めましょう。マリアはたしかにイエスからはひとまず避けられています。もちろんマリアを避けたというより、家族システムからいったん離脱したがゆえに、母とも疎遠となった。しかし、イエスは当然「母」とは何かとつぶさに知っている。それは彼が傷ついた女性たちをひたすら癒していることや、子どもを非常に大事にしていることからすぐにわかります。これらの記事は、イエスが母的ないたわりを非常に意識していた、あるいは無意識のうちにそのことの大切さを行動で示していたということです。
 突然話は変わりますが、次のような詩があります。
When I find myself in times of trouble  僕が悩んでいるとき
Mother Mary comes to me       母マリアが僕のもとにやってきて
Speaking words of wisdom, let it be   知恵の言葉を告げる、あるがままに
And in my hour of darkness      暗闇の時の中にある時
She is standing right in front of me    彼女は僕の前に立って
Speaking words of wisdom, let it be   知恵の言葉を告げる、あるがままに
Let it be, let it be           あるがままに
Let it be, let it be           あるがままに
Whisper words of wisdom, let it be   知恵の言葉をささやけ、あるがままに

これは有名なビートルズの最後のシングルレコードでポール・マッカートニーがつくったLet it beという歌です。わたしはうかつにも知らなかったのですが、マリアは子どものころ亡くなったポールの母であるとともに、イエスの母マリアでもあるらしいとのことです。また、この題名はルカ伝1章38節の一部ではないかということです(これについては「洋楽café」というサイトで偶然知った)。
 また、彼の盟友ともいえるジョン・レノンも母を2度失っているのだそうです。一度は幼少の頃、生みの母は家を出て、継母はジョンが17の時自動車事故で亡くなったということです。
 彼ら二人とも母の喪失を原点に持っているのですが、そのことは彼らの生涯とその音楽に少なからず影響を及ぼしているといわれます。彼らの音楽の持つ、ある種の宗教性は、キリスト教という枠とは別に、世界に対する母性的な力の大きさと関連していると思うのです。それはイエスの宗教性と直接つながるかどうかはわかりませんが、彼らの音楽の優しさはそのことに関連すると思うのです。
 また遠藤周作は母に連れられてカトリック教会に通ったことのある鮮烈な記憶のようなものが原点であると言った趣旨のことを述べていますが、その彼は旧約の神は嫌いですとある書物で言っています。わたしは彼の思想はそれほど好きではありませんが、カトリック信仰の本質的なもの、つまり一見権威主義的で男性中心に見える制度の背後にある母性的なものを見据えている点で、一定の評価をしています。これは「母なる教会」というカトリック教会の教会観と重なるのでしょう。
 私たちプロテスタント教会はマリア信仰を拒否しているのですが、それはおそらく厳密な神学構築からみてそうなるだけで、母マリアに対する想像力を塞ぐことを妨げるものではありません。むしろ、母マリアの力のようなものをもう一度見直すべきだと思います。そこで、今日の聖書ですが、ここでは十字架に付けられたイエスがなんと母マリアに声をかけているのです。しかしそこでは不思議と「母よ」とは呼びかけていません。もはやイエスは切り離されていますし、もともと自ら離れていったのです。この「婦人よ、あなたの子です」という言葉はどうも二重の言葉のような気がします。つまりあなたの子とはこの十字架にかかっているイエス自身を指していると同時に、隣にいる弟子の一人を指している、ということです。もちろん後者が正しいと思うのですが、やはり、ここには、もはやイエス自身がその地上の生涯は終わりであることを母に向かって語っているのは間違いありません。そして最後に弟子に向かって「見なさい、あなたの母です」と言っている。そして弟子は彼女を引き取ったと書かれています。これは単にイエスの母を養ったということではなく、イエスがいなくなった後も、母よ、この弟子たちとともに生きてください、そして彼らの母であってほしい、そしてわたしの母として、わたしの亡きあとも、力強く生きてほしいという、イエス最後の、しかもまともに母と向かい合った最後の言葉と言ってよい。
 それゆえ、残された母は弟子たちの母となり、つまりは原始キリスト教の一種の精神的支柱となったのであろう。もちろん、そのことはほとんど完全に歴史の闇に紛れていく。それでも、福音書全体を眺めてみると、結局最初と最後に母マリアが登場する。はじめはイエスを産む母として、しかも受胎の時のつらさとそれを乗り越えて生きる女性として、そして最後には息子イエスを看取る母として、十字架上でなくなっていくという絶望的な悲しみを抱きしめながら新たな共同体の母として生きる女性として、登場するのです。教会というのは、要するにイエス亡きあとを生きたイエスの母と弟子たちを原点とする、悲しみの共同体として出発したと言えるのです。
 それでも、弟子たちに現れた復活のイエスへの信仰を起死回生のバネとして、まったく反転した喜びの共同体へと転換させていく。そしてそれは驚くべき力となった。それでもなお、こういうべきであろう。それに先立つ、母の大きな悲しみとそれを分かち合うイエス亡きあとの母と弟子の共同体が真の出発点であると。それゆえに子に先立たれたイエスの母マリアの悲しみとそこを超えて生きたはずの彼女の姿を、わたしたちはもう一度見直すことが求められているのです。