砧教会説教2016年2月14日
「悲しむ者は幸いである―八つの幸いについて」
マタイによる福音書4章18節~5章10節
山上の説教と呼ばれる5章-7章までのイエスの教えの冒頭の、いわゆる「八福」、八つの幸いはキリスト教徒でなくても知っているかもしれません。それほど良く知られている断章です。これは著者マタイによって一部言葉を加えられ、編集されたものでしょう。実際、これと並行する記事を持つルカ伝では八福にはなっておらず、編集されている印象は薄いです。しかしマタイはこの個所も含め、山上の説教全体を独立的なキリスト教の律法にしようとしているように見えます。他方、章立てを取り払ってみると、山上の説教はすでに始まっているイエスの伝道活動の最初期の活動につながっていることがはっきりします。むしろ、この個所は独立的に読むより、その前のお話に繋げて読む方がより説得的なのです。今日はその線で読むことにいたします。
イエスはヨハネの逮捕の直後からガリラヤ地方で宣教活動を始めました。それは一種の終末論的預言活動でした。つまり、この世の終わりと天の国の到来を述べ伝えた。この世の終わりとは何か?正確には今の世界を支配しているヒトの権力です。もちろん具体的には遠く外にあるローマによる支配、そして自分たちの身近なユダヤの貴族や祭司の支配です。それが「この世」であり、それの終わりと天の国の到来を宣教すること、これは一種の革命の呼びかけです。もちろん、その主体は神なので、人為的ではありません。けれども、その呼びかけに答える人々がたくさん集まれば、そのこと自体がすでに革命的であり、新しい国つまり天の国の到来と感じられたでありましょう。
ところで、イエスの周りに最初に集まったのが誰であるかははっきりしません。むしろ集まらなかったのではないでしょうか。だからイエスは自ら進んで仲間を集めたのです。それがガリラヤ湖周辺の漁師たちです。「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」の二組の兄弟はイエスにスカウトされ、なんといきなり網を捨て、船を捨て、そして父を捨ててイエスの弟子となりました。つまり、彼らは自分の生活圏を離脱したのです。ここには、イエスに従うことがどういうことかがはっきりと示されています。つまり、家を捨てる、家族を捨てる、そして仕事も捨てる、ということです。しかし、4人の態度は「覚悟して」というような大それた決意はないように見えます。むしろ彼らはガリラヤ湖の漁師としての限界をすでに知っており、当時の民衆の困難の中で、やるせなく暮らしていた可能性がある。だからこそ、新しい呼びかけにすぐに応えたのではないでしょうか。この暮らしから離れ、一旗揚げるくらいの調子で。彼らはイエスを含め総勢5人で活動を始めたのです。
そしてイエスは、おそらく彼らとともにガリラヤ中へと宣教活動に赴いた。彼はユダヤ教の会堂で「御国の福音を述べ伝え」(4章23節)とあるように、精力的に宣教活動を行ったようです。ここで「御国」と訳されているのはバシレイアであり、これは天の王国、つまり神の支配する世界のことである。これがどんなイメージで言われているのかはわかりにくいが、すくなくとも、大祭司を筆頭とする宗教貴族の支配とは根本的に違うのだと思います。そして、「ありとあらゆる病気や患いを癒した」という。つまり、医者のようなイエスです。悩みと苦しみ、そして悲しみを感じた病の人々とおそらくその家族が、イエスのもとに大変な勢いで集まってきたのでした。しかも、不思議なことに「シリア中に広まった」と書かれているのです。つまり、ユダヤを中心とする古いイスラエル世界ではなく、むしろ北のほうでその活度の地盤を固めたのです。そして非常に具体的に集まってきた人々の状態が書かれています。「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、ありとあらゆる病人」(24節)が集まり、彼らを癒したというのです。このような癒しの専門家としての力は、ガリラヤだけでなく、「デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から」と書かれているように、ほとんどかつてのイスラエル全土からとされています。いかにも誇張されている感じですが、マタイの理解では、活動の初期から絶大な権威をもった人物としてイエスをとらえています。そしてこのような大勢の群衆、つまりたくさんの病人や悩める者と、彼を手伝う弟子たちに向けて語ったのが山上の説教です。ですから、この教えは、具体的な病人や悩める人々と、彼らを援助し、イエスを手助けする弟子たちに向けられた希望とねぎらいの言葉です。もちろん、この言葉は時代を超えて同じ境遇にある人々に向けられているとも言えますが、まずは実際のイエスの現場を思い起こさせるものです。
さて、最初に幸いであるとされるのは「心の貧しい人々」です。貧しい人々とは経済的な意味だけではなく、いろいろな意味があります。イエスはギリシア語で語ったわけではなく、アラム語かヘブライ語でしょう。一応ヘブライ語だと三つくらいがギリシア語の貧しい人々(プトーコイ)に該当します。一つはエブヨニーム、これは必要なものを欠いている状態、つまり貧困、二つ目はダル、弱い者、三つめはアニイ、病気や患いで絶えず苦しむ人々ですが、仮にイエスがヘブライ語で語ったとすると(アラム語については調べておりませんので)エブヨニームだったのではないでしょうか。マタイはプトーコイに「プネウマの」つまり「心の」「霊の」という語をつけていますが、これはおそらくマタイ自身の付け加えで、本来はなかったといわれています。なぜなら、この言葉なしの伝承がルカにあるからです。そして短い方がおそらく元来のものとみられるからです。ただし、マタイがこの言葉を加えたことによって意味がはっきりしたとも考えられます。つまり、病や貧困の中で、体だけでなく心も痩せていく、そして投げやりになっていく、そうした非常に困難な人々への慰めであり、かつ強い希望の宣言として。幸いであるというのはもちろん表面的な慰めではありません。すでにイエスは癒しの活動を現実に行ってきているのです。そして天の王国は「その人のものである」という。つまり、おそらくこれは新しい世においてはその人たちが支配者となるという意味です。つまり全くの転倒した世界になる。これは別に奇想天外ではない。マリアの讃歌にもありますが、当然このような願望は旧約聖書を前提にしています。世界は一点の曇りなくすべて晴れ渡る、つまりすべては救われる、それどころか反転することを信じてきたのがイスラエルの歴史です。つまり、神とは「創造」し、新たに「始める」者だという信念を
持ち続けてきたのです。ですから、マタイのこの八福の最初はルカ伝のマリアの讃歌、そして旧約のハンナの歌、あるいはモーセの海の歌と同じように、全く希望のなさげな人々の境遇が全く新たに解放されることを謳っているといってよいと思います。
さて、悲しむ者も幸いであるといわれます。慰められるからです。この言葉はなんだか漠然としています。悲しみとは何でしょうか。悲しみとは、もはや取り返しがつかないことが起こった、あるいはそう感じたとき時に感じる心の痛みのことです。それはおそらく大切なものを失うこと、あるいは自分自身が死に、そして大切なものから引き裂かれるであろうことの意識、と言ってよいかもしれません。そのような痛みが慰められる。しかし、だれによって?それは書かれてはいません。しかし、それはイエスであり、そして弟子たちであり、そして「悲しみ」を理解する人々によってです。当たり前のことを言っていると思うかもしれません。しかし、実は悲しみや痛みを素直に表した人々を本当に労り、慰めることができるかは実は疑問です。むしろ多くの人々はそうした悲しみや痛みを押し殺し、生きていく。あるいは誰かの悲しみや痛みが見えたとしても、それを放置する。なかったことにし、見なかったことにし、やり過ごしていく。あるいはそのような悲しみは取るに足らないことだと、強くなるよう促すこともある。しかしイエスは違いました。あらゆる悲しみや嘆きに付き合っているのです。おそらく彼は「放ってはおけない」人なのです。いや、そもそもキリスト教が強調する「愛」とは、よりわかりやすく言えばこの「放ってはおけない」という誰しもが本来は持っている共感の感情のことではないでしょうか。ですから、慰める主体は誰でもよい。そして誰もいないように見えても、目には見えぬ神自身だけは必ずこのわたしを慰めてくれる(はず)である。だから「幸い」なのです。
5節の「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」という宣言は、一見したところ、よくわかりません。柔和な人とはだれか?つまり優しくて穏やかで謙虚な人とはだれか?これは弟子たちの民衆に対する態度のことを言っているのでしょうか。それとも、民衆自身にそうした態度を理想として持つように言っているのでしょうか。仮にそのどちらかだとして、後半の「地を受け継ぐ」とは何を言おうとしているのでしょうか。
このままだと「柔和であること」と「地を受け継ぐこと」はつながりません。しかし、この句が詩編からの引用であることを知れば多少納得いきます。これはギリシア語の詩編36編11節(ヘブライ語では37編11節)の引用です。この柔和という語はプラウスの変化形ですが、意味は確かに柔和とか謙虚といった意味で、この言葉はマタイの11章29節、21章5節にも出てきます。どちらも柔和という日本語訳です。ところで、マタイがギリシア語の聖書から引用したのであれば致し方ないのですが、ヘブライ語聖書の詩編37編11節のこの言葉はアナウィームという語で、これは、第一義は貧しい者という意味です。そして抑圧された者、苦境を強いられている者です。もちろんそこから転じて、自らを抑えているというか、耐えているというニュアンスで柔和とか謙虚という意味もあります。ただ、日本語の詩編37編11節を見ますと、「貧しい者は地を受け継ぎ」と訳しています。おそらくこちらの訳の方が原意に近いと思いますが、より正確にはこうでしょう。社会の不公平や権力の抑圧によって貧困化し、あるいは外国から侵略されて、住むところも追われた人々こそ、かならずその土地を回復し、それを受け継がなくてはならない。そうであるはずだ。なぜなら土地はいわゆる嗣業、神から授かった神聖なものだから、ということです。これは言うまでもなくイスラエルの根本的な神学です。
マタイがギリシア語の詩編からそのまま引用してしまったことからある種の曲解が生じたのかもしれません。もしこの詩編の言葉をイエスがヘブライ語で語っていたのなら、たぶん自分の土地を持つことができない農奴化した人々のことを念頭に、本当は地を受け継ぐべきは一部の地主ではなく、あなたたちなのだと鼓舞しているのが本来のこの句の場面だったはずです。
とすれば、この句はイエス自身や弟子たちの態度、つまり導く側の謙虚さや柔和さを求める言葉ではないといってよいでしょう。
次に6節の「義に飢え渇く人々は幸いである」を見てみましょう。これもおそらくマタイが「義に」と補ったと思われます。これを除くと端的に飢えて渇いている人、つまりイエスのものとに集まった非常に深刻な病や患いによって生きる場所自体がはぎとられてしまった人たちのことでしょう。マタイはこれを神の義を求める求道者、あるいは教会の指導者の比喩に切り替えたかったのでしょう。本来はイエスの周りに集まった民衆に向けた言葉です。
このように、最初の四つの「幸い」は弟子ではなく、イエスの周りに集まった様々な事情を抱えた民衆に語り掛けた慰めであり、同時にアジテーション、つまり奮い立たせるための非常に強烈な言葉だったのかもしれません。
さて、後半の四つはどうでしょうか?これらについての細かい解釈は、本日は省きますが、これらはおそらく弟子に、つまり民衆を励まし、新しい共同体を導きく側に立つ人々に向けて語られているように思われます。憐み深いこと、正直な心、平和を実現する、義のために迫害される、といった表現は、イエス自身を鏡としています。これがイエス自身にさかのぼるのかどうかはわかりませんが、おそらくイエス自身がこのような姿勢で当時の世界に働きかけたことは間違いないことでしょう。
私たちはこれらの八福を全身で受け止めたいと願うものです。そして希望を見失い、投げやりになっていくとき、悲しみと嘆きに溢れ、先に進めないと思うとき、その時こそこの八福を語るイエスのもとに集まるのです。その八福が満たされる場所こそが、この教会であることは言うまでもありません。教会は「幸い」を宣言する場所なのです。