砧教会説教2016年2月21日
「神の知恵に思いをはせる」
箴言8章12~31節
受難節を迎え、わたしたちは身体と心を整える季節を過ごしています。このような時こそ、わたしたちは自分たちが生まれ育ち、そしてこれまで生きてきた時間を顧み、何が自分を支えてきたのか、そして何が自分に足らないのかを丁寧に考えてみることが大切と思います。
一般に、聖書は神の言葉として上から命令する、指図するものであり、これを読む者、聞く者はその言葉に従うことが求められていると感じます。したがって、命じられ、従うという関係ばかりで、どうにも一方的、途中何かを考えることを省いている感じがあります。キリスト教はとかく、「信仰」を言うので、自ら考えることを放棄しがちです。それは長いキリスト教の歴史で、繰り返され、一方的に信仰を求めることによって、それにそぐわないとされたもろもろの事柄が抑圧され、時に弾圧されてきました。
しかし、イエスはからし種ほどの信仰で十分であると言っている。しかしそれは忘れられ、いつの間にか神をかさに着て、神への信仰を言えばだれも口をはさむことが許されないと感じてしまうといった排除と抑圧の力に成り下がってしまう。戦前の日本で、天皇への信仰に口をはさむことは許されなかったのと似ています。わが国では天皇への崇拝は一部の人のものですが、ある種の宗教性を帯びて存在し、いつその力を利用する勢力が力を持つか予断を許しません。イスラム世界においても、イスラム国のようなものはもちろん度外視するとしても、イスラムの本流において、アッラーとクルアーンを疑うことはおよそ考えられないのです。
一般に一神教はそうした強い精神的拘束を制度的に強制します。キリスト教はそうした拘束性を近代世界のなかで批判され、西欧世界においてキリスト教自体が相対化されました。つまり、信仰を強制されない世界が、一神教の世界(ヨーロッパ)に併存するのです。そのようなあり方は強靭な意志と理性に信頼するという個人の決断と態度によって切り開かれていきました。その元をたどると、第一に、おそらくイエスやモーセの生き方、つまりその時代の主流の、ないし支配的な宗教や政治権力に対する批判と超克の運動に行き着くのですが、彼らの後の時代は彼らを絶対化し、命じる力の根拠とされてしまう。他方、もう一つの元は理性なのですが、これはギリシア的に見えます。ある哲学者に拠れば、正確にはイオニアの自由な人々から始まったと言われます。それを受け継いだソクラテスにおいてはその自由さが生きていますが、プラトンにおいてはイオニア的な自由、イソノミア(無支配)は忘れられ、国家は自明なものとなったと言われています(柄谷行人『哲学の起源』)。
さて、私は今なにを言いたいかと申しますと、旧約聖書において、命じる―従うという関係以外のものがきちんとあるのではないかということです。もちろん、それは申命記の律法でさえ、単なる命じる―従う関係ではない。つまり単なる命令ではなく、具体的なケースを挙げながら、命令すなわち十戒を代表とする断言法の適用範囲を、経験とおそらく理性によって、コントロールしようとしています。しかし、それでも、モーセを通して与えられた律法は基本的に命じるものです。それゆえ、神的権威と権力は一体です。
これに対して今日の箴言の言葉はどこか異質です。それはのっけから言われている通り、知恵の優位ということを主張している点です。12節には「わたしは知恵。熟慮とともに住まい、知識と慎重さをそなえている」とあり、知恵自体を擬人化しています。しかし、これは擬人化というべきかは、少々疑問です。むしろ知恵の神格化というべきかもしれません。14節には「わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力を持つ」とありますが、これも知恵自体の力の優位を宣言しています。わたしたちの時代の科学的な知見が権威と権力を同時に持つのと同じことが、ここで主張されています。ただし、具体的な知恵の中身はわかりませんが、共同体の伝統的な生活の知恵、律法の解釈、政治的な手腕といったものもイメージされているかもしれません。しかしそれ以上に分析し、整理し、最善の道を発見するという理性の在り方を前提しているように見えます。17節には「わたしを愛する人を私は愛し、わたしを捜し求める人は私を見出す」とあり、知恵を求めることを推奨する。さらに19節では「わたしの与える実りはどのような金、純金にもまさり、わたしのもたらす収穫は精選された銀に優る」と言われ、知恵と知識はその人を真の意味で豊かにすることを主張します。そして、「慈善の道をわたしは歩き、正義の道をわたしは進む。わたしを愛する人は嗣業を得る。わたしは彼らの蔵を満たす」(20-21節)とあるように、知恵は福祉と繁栄の源であると謳われます。
このような言葉は、旧約の基本からは逸脱していると感じてしまう人もいるでしょう。旧約の基本は律法であり、それを守ることが旧約の宗教だと。しかし、箴言は旧約の一部です。つまり旧約は実は一枚岩ではなく、多様です。しかも対立的と思われるものも併存しています。旧約聖書とは、わたしたちがイメージするほど、一律なものではないと言ってよいのです。
さて、今日の聖書の中心となる箇所は22節以下です。まず、22節の冒頭「主は、その道の初めにわたしをつくられた。いにしえの御業になお、先立って」とあるように、最初につくられたのは、創世記にある「光」ではなく、知恵であったというのです。これは明らかに創世記の神学と異なっており、おそらくそれへの挑戦である。「光」は創世記において最初に現れるが、光はおそらくペルシア的な「光」と「闇」の二元論に基づいているかもしれません。箴言は、それに対抗する形でギリシア的な知恵を光に代えて優先させたのではないでしょうか。とすればやはり、箴言はアレクサンドロス以降、ヘレニズム文化が流入してからのものと言えるでしょう。23節以下は「永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って、わたしは生み出されていた。深淵も水のみなぎる源もまだ存在しないとき」と語り、明らかに創世記の冒頭を意識しながら、太初の混沌以前の知恵の創造について語っています。さらに24節以下では天地創造以前から知恵は存在していたことを主張しています。
ところで、この知恵とはギリシア的なものでしょうか、正確にはプラトン的な理想のようなものでしょうか。世界以前から存在するというのは具体的にはよくわかりませんが、これをイデア、理想、範例、モデル、あるいは形式と考えることもできそうです。しかし、よく読んでみますと、世界の枠組みはヤハウェが整えています。「主が天をその位置に備え、深淵の表に輪を描いて境界とされたとき」とあるように、世界の大枠は神ヤハウェが決めています。ですから、この知恵は世界の設計図のようなものではないように見えます。とすると知恵は人間のあり方、生き方とかかわるものとなるでしょう。もちろんそこには自然的世界についての蓄積された知識も含まれているでしょう。しかし、その中心は、人間の生き方の最もふさわしいあり方であると思われます。箴言にはそのことが縷々説かれていますが、そうした知恵は世界の創造以前から存在し、それと繋がることによって、世界を相対化し、世界の混沌を乗り越えて生きることができる、ということではないでしょうか。
ここで思い浮かぶのは新約の「コリントの信徒への手紙1」の2章の初めの言葉です。「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定められておられたものです」。これは箴言と直接つながるわけではありませんが、かなり影響を受けていると思われます。パウロは知恵をキリストとつなげ、キリストを神の知恵であるとさえ言っていますが(1コリ1章24節)、この知恵は世界の創造に先立って存在すると考えられているのです。つまり、キリストによる救い、あるいは世界の完成は、創造以前から用意されているというわけです。つまり、知恵が世界の創造に先立つということはキリストによる救いという人間にとって最も良いことが、すでに準備されているということです。パウロにとって、神の知恵とはキリストの出来事自体なのですが、もちろん箴言にはそんなことは書かれていません。しかし神格化された知恵が救いの源であるなら、それはキリストと言い換えてもよいでしょう。
箴言に戻ってみますと、結局わたしたちにとって、知恵とは人生を完成させる道、喜びと福祉を向上させる道のことですが、それが世界の創造に先立っているというのは、何を言おうとしているのでしょうか?
たぶんこういうことではないか。人間とは被造物、しかもそれは世界の創造の最後に創造された者であり、元来世界のしんがりであり、世界内部の秩序に、あるいはこの世の秩序、この世の内部の知恵に従属するものであると考えられる。しかし、箴言のいう知恵は世界以前のものである。そして個々の人間は、世界に従属しない知恵、それどころか世界を超えた知恵と繋がることができるし、そうすべきであるという。これは、わかりやすく言えば、この世界の一見普通に見えること、あるいは慣れてしまって常識にさえ見えてしまうことに、やすやすと従うのではなく、世界の内部の知恵や法、習わしといったものとは違う次元の知恵、すなわち世界以前から存在する知恵に従うと宣言することによって、個々の人間は、世界に埋没するのではなく、世界を乗り越えて生きることができるということであろう。つまり、この世界の秩序、あるいは習わし、あるいは生き物としての限界としての死さえ乗り越える道を、神に最も近いところにいるほとんど永遠と見えるこの知恵において、見出すのである。
もちろん箴言はそこまで言っていませんが、射程はそのくらい長いといえるでしょう。そしてキリスト教はその路線に則っているのです。私たちはこの知恵に連なっているのです。
その知恵は、最終的に、いかに困難な世であろうと、あるいはいかに困難で不幸に見える人生であろうと、それを乗り越える力となるはずです。つまり、知恵とは最終的には救いの源であり、神の懐にあるものだからです。それはキリスト教においては、キリスト自身ということになります。私たちはこの世界を超えた知恵と繋がっていることを信じている。それゆえ、復活を待望することもまた、可能となるといえるのです。