砧教会説教2016年2月28日
「律法は救いの道」
マタイによる福音書5章17~20節
律法と聞きますと、キリスト者はすぐに反応します。律法は人を生かさない、信仰こそが人を生かすと。律法には一般的に否定的です。
ところでそもそも律法とは何でしょうか。一般の学生たちに律法という言葉を使う際、当然、これは私たちの社会の法律とは違って、根本的に宗教的な掟のようなものであることをまず言っておきます。そして、キリスト教は律法を否定、ないしのりこえて、それに縛られない生き方を可能にしたというやや通俗的な理解を伝えますと、このような「法律」(と学生は結構書く)を否定したり、乗り越えたりするということはありえないし、危険である、なぜなら「法」的なものがなければ社会はひたすら混乱していくだろう、という反応がたいてい返ってきます。
実際、たいていの人は「律法」と法律をおおむね似たものとみていますし、それはそれで仕方ない。ある共同体があるとして、それを安定的に維持していくにはかならず規則が必要です。それが文字となっているか否かは別です。しかし、そうした規則が、正しいことを証明するのはなかなか難しいでしょう。それゆえ、法の専門家がさまざまなケースを想定して、規則の妥当性を詳しく検討します。そしてあらたな「法発見」に至るのです。
律法も法律も規則も、どう呼ぼうがその機能はその法が支配する共同体の平和と安全を保障するために存在すると言えるでしょう。
ところで、その法が支配する力を持つのはなぜでしょうか。それはその法そのものが、共同体によって合意されたものであるからです。では合意されたとして、それが人々を支配できるのは、なぜか?それはその法を破ったときの制裁、罰を実際に行使する権限を誰かに与えていることによります。つまり、刑罰の執行です。そうした執行は小さな共同体ならメンバーが実際にムチ打ったり、死刑を執行したり(たとえば石打ちの刑)したでしょう。やがてそうした職務は分離、差別化されていきます。そしてそのような職務は汚れたものとされていく場合もあります。
ところで、ユダヤの律法とは具体的に何だったのでしょうか。普通に想起されるのは、旧約聖書のモーセ五書です。これはトーラーとよばれ、多様な教示(断言法、決疑法、祭儀の手順、犠牲の捧げ方、税の徴収)を含んでいます。おそらく、今日のテキストで言われている律法とはこのモーセ五書に記されている律法を指しています。それと並んで言及されているのは「預言者」ですが、これは旧約聖書のヨシュア記から12小預言までの書物を指すのでしょう。したがって、ここに挙げられているのは、旧約聖書の主要部です。今日は律法についてだけ考えますが、詩編や箴言などは別にして、律法と預言者とは当時のユダヤ教において、決してなおざりにされてはならない最も神聖なテキストでした。イエスはこのような非常に大切な「法」に対し、否定するどころか、完全に肯定しています。
ではなぜイエスは律法に批判的なのであると一般に考えられているのでしょうか。それは言うまでもなく、パウロの影響です。パウロはファリサイ派でしたから、律法を守って生きることを自分に厳然と課してきた。しかし、それによって自分が救われたと感じるより、いつも罪の意識にさいなまれる、罪を確認するために律法を守るという永遠に出口がないかに見える、一種の神経症になっていました。それを突破するために、律法を捨て、全面的にキリストに依存する、服従する、帰依する、賭ける、という生き方に代えました。そうしたら、身も心も全く軽くなり、あの罪の重さも軽くなっていた。そうした個人的な体験があの圧倒的な彼の手紙類を生み出したのです。このような構図で「信仰」が強調されました。そしてそれは後のキリスト教の方向性を決めた面があります。
では実際のイエスはどうだったのでしょうか。今日の記事もイエスのものとすると、パウロ的な考え方にはどうも否定的です。しかし、安息日に麦の穂を摘む話、ハンセン氏病や取税人、汚れた霊に取りつかれた者と一緒に食事をすると言った行為は、やはり律法に非常に否定的な感じもします。
しかし、よく見ますとイエスは律法を守ることにそれほど否定的ではない。イエスが否定するのはやはり、律法主義とよばれる、律法に忠実に生きることを自他に課す、その姿勢です。その中ではぐくまれた人々はそのようなある種の洗脳を受けるでしょう。そして律法は共同体を守るように見えて、共同体を非常に閉鎖的、独善的にする。そして祭司や律法学者といった祭儀と解釈の専門家の権力が大きくなり、差別と排除の力が大きくなるのです。(実際、現代の日本はそうした人々の力が大きすぎて、一般の常識が通じなくなり、すべてそうしたプロの人々の解釈で処理され、それが正しいこととされています。安全保障関連法などもそうでした。)
しかしここで注意しなくてはならないのは、律法とそれを運用する、ないし解釈する者の関係です。律法は少なくともその根っこにおいては、非常に古いモーセ時代のエジプトから救済を、神の解放の業と信じた人々による、自由の擁護のための戒律である十戒に基礎をおいています。その出来事の持つ重要性を保持するためにイスラエルの歴史はあると言ってもよい。そのために厳格な祭儀をおこない儀式もおこない、それをすべて子孫に伝えてきたのでした。
しかし、律法とその解釈する人々の解釈とは分けて考えるべきです。それは我が国の憲法をめぐるこれまでもいきさつをみてもわかる通りです。解釈する権力の問題が一番大きい。そしてもう一つは律法をつくる力です。法は、実際は解釈する人々が作り、一般にはそれを王の権威において作られたものとし、それを王の名によって布告するのです。たとえば皆さんも歴史でならったハムラビ法典というほとんど最古の古代法があります。訳を見ますと、具体的な決疑法(もし~なら、~する)に入る前に、序文が書かれていますが、その内容は最高神アヌムがあらゆる神々の支配秩序を形成し、やがてハムラビ王を選び、その彼がすべての神々をねんごろに扱い、その結果それらから愛されていることを述べ、バビロンの主神マルドゥクが法を民に与えるようハムラビに命じたことを延々と語ります。つまり、法とは神々と王権によってその支配力が保証されているというわけです。結局のその権力がなければ、執行できない。法の背後には権力が存在する、ということです。
しかし本当にそうでしょうか?わたしは最近考えているのですが、権力の前におそらくは人間同士の様々な関係の中で、普遍的と思われる法が先に存在するが、それを守るために、権力をあるいは神や王を前に立てておくということでしょう。そのことによって法の権威を守る。ですから、王や神々は二次的で、実際は法が先ということです。
おそらくイスラエルの法もそうだろうと思います。たとえば十戒も最初の四つが宗教的には重要ですが、実際は後の六つが重要です。それを守るために最初の宗教法を置いている。しかしさらに言えば、最初の宗教法は、一神教を強制しているように見えますが、本当はそうではなく、一神教の本質である人間的支配からの自由ということを謳っているにすぎません。そうしますと、十戒の本質は共同体の一人ひとりが人の支配を受け、奴隷化すること、逆に人を支配し奴隷化することを拒否することが本質だとわかります。とするなら、それを具体的にしたのが後半だと言えるでしょう。
さて、前置きが長くなりましたが、イエスの今日の言葉は非常に端的です。「律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」。これは旧約聖書を完全に継承することを宣言しています。しかし、このことと、律法を解釈する人々、その権力を正当化することとは全く別です。さらに、個々の律法は祭司的な儀式や犠牲の条項が多いので、これらの条項はたぶん認めるつもりはないだろうと思います。したがって、「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」という表現はいささかおおげさでしょう。これはユダヤ教を肯定的に前提しているマタイの言葉かもしれません。最後の「言っておくが、あなたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは天の国入ることはできない」という言葉も、どう考えてもイエスの言葉とは思われません。これではファリサイ主義の上を行くほどの「律法主義」になってしまうからです。おそらくマタイはユダヤ教正統派の向こうを張って、自分たちの正当性を主張するためにこれらの言葉を付け足したのでしょう。
では、17節後半の「廃止するためではなく、完成するためである」ということば、何を言おうとしているのでしょうか。それはやはり、律法の大まかな内容、つまり一人一人の人間を自由にする、同時に共同体の各人の相互の自由と安全を保証するという理念を、絵に描いた餅にしておくのではなく、あるいはそれを曲解して、祭司権力を温存するためにあれこれ解釈する(食事の律法、割礼、犠牲など)のでもなく、真に実現するためであるということでしょう。
ならば、やはり律法は本質的には救いの言葉である。例えば現在の日本国憲法は、おそらくあの第二次大戦後の世界において最高の憲法ですが、今では理想的すぎてだめだなどと批判されます。そのためさまざまな解釈によって内容の換骨奪胎も図られています。しかし、その精神を捨て去ったならば、日本は全く混沌とし、いたずらに国家権力の肥大化を図る、あるいは既得権者に都合のよい憲法になるに決まっています。
たぶんイエスは当時のユダヤ教正統派の律法解釈とその支配に対してまったく反対していたと思いますが、この律法の本質が救済、すなわち正確にはあのモーセ以来の自由と解放、つまり奴隷のイスラエルの主体の呼び起こしを記憶し、それを最高の理想としていることを、イエスは片時も忘れてはいなかったと想像します。それゆえにイエスにとって律法は救いの道であることは疑いのないことだったと思うのです。
ひるがえって、わたしたちはとかく律法に対してある種の偏見を持つが、それは本質的には誤った見解であるということ、問題は律法を解釈する人々と、解釈された二次的律法とにあると言えるでしょう。ならば、わたしたちはもう一度モーセ五書を丁寧に読むべきでしょう。そしてイエスが言おうとしていた律法の完成を自分自身のこころにイメージしてみることが大切です。
ただし、モーセ五書を真剣にとらえようとすると、かえって隘路に入ってしまうかもしれません。なぜなら、キリスト教がユダヤ教を前提に生まれたとしても、だからといってユダヤ教の細かな経緯の理解がなければ近づけないものだと考えるのも間違っているからです。わたしたちはほとんど違った場所と時代にいるのですから。加えて言えば、西欧のキリスト教さえ、実際にはローカルなものです。プロテスタントは聖書主義などと言いますが、実際にはプロテスタント「教会」なる権威とそこに蓄積された知識に依存しています。本来はそうした教会的権威とは別に聖書は読まれるべきです。そして、聖書を通して、律法と預言者とイエスに出会い、現在の私たちにとっての救いを自分たちで深くとらえることが大切だと思います。