日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年3月6日
「神の国の実現と罪の赦し―主の祈りについて」マタイによる福音書6章5~15節
 山上の説教を読んでいくと、マタイの教会がファリサイ派や律法学者の向こうを張って、彼らよりはるかに倫理的・道徳的に優れていることを示さなくては、という心意気を感じる。今日の教えもその一つである。原始キリスト教の主軸となったこの教会は、イエスの活動の後、急速に混乱していくエルサレムとユダヤ社会を生き抜いていくが、ユダヤ戦争(70年)を経てエルサレムが破壊されるに至って、ついに自分たちの母体である伝統的なユダヤ教からはっきりとたもとを分かつことを決めたのだろう。それゆえに、マタイの教会はそれまでの伝統的ユダヤ教と自分たちとの違いを強調した。その思いが今日の箇所にも表れていると思う。
 今日のテキストは、「主の祈り」の部分を除けば、ほとんどマタイの編集句のような気がする。なぜなら、「偽善者」とか「異邦人」といった具体性を欠いている言葉によって自他を差別する傾向が、どうもイエスの持つある種の包摂的な傾向、要するにそうした差別的な観点を乗り越えようとする傾向とそぐわない感じがするのである。そこで、他の文とイエスの言葉である(とみられる)主の祈りを分けて、その違いに注意しながら読んでみたい。
 まず、祈りの内容ではなく、その仕方についてマタイは語り始める。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうとしと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(5節の一部)。要するに祈るときに見せびらかすな、ということ。ここで、偽善者とされているのは具体的にはだれなのだろうか。たぶん、ファリサイ派や律法学者の行う非常に儀礼的な、かつ厳粛な祈りを指しているのだろう。そのような祈りの姿をマタイは毛嫌いしているように見える。もちろんこれをイエス自身の言葉として導入しているのだから、イエスがそうであったはずと信じている。しかし、ファリサイ派たちにとって祈りは公的であらねばならない、なぜならそれは自分たちの存在を主張することだから。そして同時に信仰の自由を主張している。目立ちたいとか、自分たちの生活態度をひけらかしたいということではない。マタイは揶揄しているが、それは彼らの方針である。したがって、マタイの揶揄は、実は自分たちの教会の在り方を鮮明にするために彼らを馬鹿にしているに過ぎない。
 しかし、会堂や大通りで祈らないなら、どこで祈るのか?マタイによれば、この偽善者たちは「すでに報いを受けている」という。この「報い」とは何のことだろうか。これは周りの人々から立派な宗教者であると認められているという意味だろうか。つまり、この世での立派な地位や名誉を受けているという意味であろうか。とするなら、これはつまらない発言である。単にひがんでいるに過ぎない。それを隠すために、彼らと反対に謙虚になることで、より一層の祝福を受けるのだとマタイは考え、「だから、あなたがたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたこと見ておられるあなたの父が報いてくださる」と勧告する。これは全く文字通りに解釈されるべきであり、寓意的に解釈すべきでないとみなされる。そして、これを実践していくのが修道院での生活である。この言葉は単に控えめに祈りなさいというのではなく、人の目につかない場所に隠れて祈れ、そうすれば「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」のである。なお、この言葉は今日の箇所の直前にも出てくる、「決め台詞」である。
 では、その報いとは何か?それは書かれていない。ただし、想定されているのは、天の神からの祝福と称賛であることは間違いない。なぜなら、見せびらかしている偽善者は地上の民からの称賛とそれにともなう地位や名誉とは反対のもののはずだから。
 さて、もう一つ祈り方の注意が始まる。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」(7節前半)。最初のと似たような書きっぷりである。ここでも「異邦人」などとやや差別的に言うが、これは実際、マタイがそうした差別的であること、つまりユダヤ人とそれ以外をしっかり分けて考えていることを示している。つまり、マタイはユダヤ教正統派からも、ユダヤ人ではない人々からも自分たちを分離するのである。言い換えれば、ユダヤ教徒でもなく、かといって異邦人(のような宗教性)でもない。つまりまったく新しい「キリスト教徒」であるという生き方を強く打ち出したのであろう。そのような自負が非常にわかりやすく、というか子供っぽくさえ見える表現で打ち出されている。そして、祈りは言葉の数は最小限にしようという結論に至る。おそらくこの冗漫な語り口は、イエスではない。これはあきらかに次の「主の祈り」をマタイなりに強く印象付けるためのレトリックであろう。(ちなみに、ルカにはこうした前置きはない)。
 主の祈りに先立つ、これら二つのいわば「注意書き」の持つ力は、先に述べたように、修道院的なある種の隠遁、隠れたところで祈るという実践と、もう一つは言葉少なに祈る、あるいは黙想や黙祷、つまり沈黙の祈りのようなものとして実践され、おそらく様式化されていく。マタイ福音書の持つ宗教的影響力は、相当強いというべきだろう。
 ではマタイは祈りをどのようになすべきと考えたのか?
 8節の「彼らの(異邦人)のまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」という解説は非常に極端な気がする。父は願う前から知っているのなら、祈りの必要はない。とすると、マタイは通常考える祈りという行為を無意味化していると言える。そして、祈りという行為の意味を転換している。つまり、マタイは「祈り」とこちらの要求とを切り離したのである。こちらに都合のよい救済や安寧や安全を要求することはもはや祈りではない、ということだ。実に極端である。ならば祈りとは何なのか?本当にこちらの利益を求めないなら、祈るとはどのようなことなのか?
 そのことの答えが「主の祈り」であるとマタイは考えたのである。しかし、それはもちろん不十分である。なぜなら、その中にはこちらに都合のよい要求を含んでいるように見えるからである。
 まず「天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように」とある。父は天にいる、そしてその名は………書かれていない。なぜなら、書かなくてもわかっているから。つまりユダヤ教の内部ではおのずと明らかなあの「聖なる四文字」のことである。要するにイエスが呼びかけているのは、当たり前だが、イスラエルの神ヤハウェである。崇められるとは、聖なるものとされるということで、十戒にあるように、みだりにその名を呼ばれてはならない。関連聖句とされるイザヤ書29章23節には「民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする。彼らはヤコブの聖なるもの(つまりヤハウェ)を聖とし」とあるが、イスラエルの神を、かつそれだけを聖とするということだろう。イエスも当然その伝統は受け継いでいる。というより、もう一度素朴にイスラエルのヤハウェ信仰に戻っている。そして「御国が来ますように」とは、あなたの王国がこの世に実現すること。そして「御心が行われますように、天におけるように地の上でも」と語る。これをわたしたちは切羽詰まった言葉として理解しないことが普通であるが、イエス自身は「神の国は近づいた」と言ったように、本来、天の国の実現の近さの意識、つまり終末の到来は近いという意識が強かったと言える。とすれば、本来の「主の祈り」とは、終わりを前にした共同体の祈りといって差し支えないだろう。それはもちろん、自身の死とその先の新たな世界で出発できるかできないかの瀬戸際にいるという意識の個人の集まりである。つまり、「主の祈り」とは本来、終わりを前にした人間の祈りである。
 だから、次の「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」となる。つまり、今日を生きる糧をくださいとは、この日を満足させてください、残されているわずかな時を満足させてください、ということであり、明日も明後日も引き続きよろしく、というのではない。
 さらに12節「わたしたちの負い目(わたしたちの文語の祈りでは罪と訳すが、これは本当はよろしくない)を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という祈りにおいて、はっきりと終わりを意識することになる。この祈りは注意しないと意味が分からない。なぜなら、神がわたしたちを赦すという場合、その負い目(罪)が赦されるにあたって、わたしたち自身に負い目のある人、つまり自分たちに借りのある人を赦すことが条件となる理由がはっきりしないのである。人間同士ならわかるが、一方は神で、他方は人間である。読めばわかる通り、わたしたちの負い目とは神に対する借り、ないし罪であるが、具体的には何を指しているのだろうか?正直に言って、イエスの周りに集まっている人々の神への負い目(罪)とははっきりしない。これをファリサイ派なら律法を守っていないことだ、というだろう。しかし、イエスはそうした律法違反のことをことさら言っているわけではない。むしろそうした律法主義とは別の次元にいる観がある。ならば、負い目とは何か、罪とは何か?
 これはおそらく個々の律法すなわち、食事の律法や犠牲、祭儀任官する祭儀的な律法に対することではなく、広く十戒に反すること、つまり律法主義的抑圧や背後にあるローマの人間的権力に仕方なくとはいえ(あるいは進んで、かもしれない)従ってしまうことによる、神への背信というべき罪のことである。言い換えれば、自分たちも神の名をないがしろにし、神の国ではなく地上の富と力に幻惑されているということ、あるいは、そうした力に支配され、そこから本気で抜け出すこと、本気で抗うこと、そして本気で克服することをしてこなかったことをイエスは神ヤハウェへの負い目と呼んでいるのである。あるいは、与えられた自分の命を十全に生きることをあきらめていた、あきらめさせられていたことを「わたしたちの負い目」と呼んだのである。
 それゆえ、自分がそのことに気が付き、それが赦されるためには、現在のこの世において自分たちに罪を犯している者、自分たちを抑圧し、差別し、支配している人々を赦すことがなされなくてはならない。しかし、これでは非常に一方的である。いくらこちらが赦すと言っても、わたしたちに負い目のある人が、本当に負い目であると感じているかは別問題である。そう感じていないなら、つまり人を隷属させ、こき使い、搾取することが正当であると考えているなら、この祈りは意味をなさないと見える。それどころか、向こうが先に謝るべきだというのが普通であろう。
 しかし、イエスはそのようなお互いさまの感覚を持っていたのではない気がする。相手が負い目を感じていようがいまいが、赦すという行為を宣言する必要があった。それは赦さなければ、自分が怒りと憎しみによって汚染されていくからだろう。そして迫る終末において、そのような魂の汚れや苦痛が残っては神の救済としては失敗になる。法的なバランスの回復のためにはもちろん裁判によって双方の主張が展開され、おたがい痛み分けではなく、正しい方が勝利するはずである。しかし、その発想はここにはない。これより間延びすれば、怒りや憎しみが増幅し、魂の清浄がないままに終末を迎えることになる。だからこそ、イエスは自分たちから先にでも赦すことが必要であると考えたと思われる。そして赦しは一応完了形である。つまり彼らは赦したのである。それゆえに赦してくれと祈る資格が生まれる。
 最後に、せっかく赦しをいただく可能性がうまれたのだから、「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈る。つまり、再び憎しみや争いに巻き込まれないようにというのである。
 祈りはここで終わり、最後にマタイによる敷衍が続く。今度は「負い目」ではなく「過ち」つまり律法違反という感覚が強い。いずれにしても、赦しが大切である。
 イエスの祈る神は、要するにイスラエルの神ヤハウェに違いないが、彼はその神が本質的に和解を望む神であるという理解がある。彼は裁きの神とともに、赦し和解させる神としてヤハウェをはっきりと打ち出さした。
 しかし、それはあくまで終わりの時を強く意識したものであり、この世での人間同士の和解が完成するより、終わりの方が早く来るという感覚がある。それゆえ、イエスはこの祈りにおいて、彼自身はすでに受難を意識していると言えるのではないだろうか。彼自身が自らの終わりを十分に意識して、彼自身も含めて、「負い目を赦してください」と祈ったのである。つまり、イエス・キリスト自身が、自らの負い目(負債、罪)の赦しを求めているということである。それゆえ、このテキストは重大である。イエスは自らの罪を悔いて、新たな活動を開始できたのだから。これが、主の祈りの本来の意味である。つまり、イエス自身も含めて「わたしたちの負い目を赦してください」と祈るほどに、自身の罪を意識して生きたのである。わたしたちは、このようなイエスの祈りを週ごとに祈るが、その祈りはわたしたちだけの祈りではなく、イエス・キリストと共にある、そして彼の受難さえ想起させる、そしてわたしたち自身の終わりを意識させる根本的な祈りなのである。