日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年3月27日
「復活の信仰が未来をつくる」マタイによる福音書28章1~20節
 キリスト教の強さは、イエスの活動をメシア(救い主)の出現として確信したことにあります。しかし、もともとイエスを信じた人々がユダヤ教の信仰を持っていた事が重要です。つまり、神の支配ということを、様々な夾雑物があるとはいえ、旧約聖書の教えの基本として持っていたということです。その中心は、モーセに率いられ、エジプトを脱出したこと、シナイ山で十戒を得て、相互に自由で主体的な共同体を形成したことにあります。
 キリスト教はユダヤ教の教えの根幹を非常に大切にしているのです。もちろん、現実のユダヤ教はイエスの活動とは鋭く対立します。それは長い歴史の中で、モーセの掟(律法)が解釈され、付加され、神殿が建設され、祭儀が精緻化し、独占的で閉鎖的になり、権威主義的になり、差別的になってしまったからです。さらに、遠いローマ帝国の支配を受け、それと折り合いをつける必要もありました。また、広がっていたディアスポラ(離散の民)をつなぎとめる必要もありました。だからこそ、ヘブライ語の聖書だけでなく、それをギリシア語に翻訳した聖書も権威ある書物として流通させたのです。ヘブライ語やアラム語を話さないヘレニズム世界のユダヤ教徒も、伝統ある自分たちの宗教をかなりしっかりと理解し、受容することができたわけです。
 イエス時代のユダヤ教は様々なセクト(宗派)があり、その多くは復活信仰を持っていたとされます。たとえば、エッセネ派もファリサイ派も、熱心党も。もちろん、旧約聖書の本流には復活信仰はありません。それは少し間違うと、死者の力に頼る、つまり口寄せのような呪術に捕らわれることになってしまう危険が伴うからでしょう。それでも、エリシャの骨は死者をよみがえらせるほどの力を持ったとされていますし、預言者エゼキエルは枯れた骨の復活についての幻を語りました。つまり、ある種の復活、死は終わりではないというという観念は、預言者的人物、極めて信仰の厚い人物、神に選ばれた者、義人は、もう一度立ち上がるという信念が保持されたのです。
 ですから、復活信仰はある種の希望として以前から共有されていたと言えます。それは信仰に殉じた人において、つまり迫害の中で理不尽にも殺されていった人々において、起こる事であり、一般的なことではありません。そのような苦難とは無関係に、つつがなく生涯を終えていく人々には復活は必要ありません。満ち足りていたのですから。ただし、イスラエル民族は、民族全体として苦難を背負っているという理解がありますから、個人的な人生とは別に民族全体としての運命にいやが応もなくかかわることになります。したがって、ユダヤ人は総じて復活信仰を受容することになるのです。
 ではイエスの復活とはどのように考えたらよいのでしょうか。
 本日の聖書に先立つ27章の最後の段落には、祭司長やファリサイ派の人々が総督ピラトのもとに行き「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき『自分は三日目後に復活する』と言っていたのを、私は思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません」と言ったとされています。これは以前にも指摘しましたが、空の墓伝承から復活信仰が生み出されたことの傍証です。つまり、マタイは復活信仰の起源を先回りして語っているともいえるのです。もちろん、これは空の墓伝承から復活が喧伝されるのを防ぐためのエピソードなのですが。そして16節以下ではさらに「弟子たちが夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と口裏合わせを行います。
 さて、マタイは番兵をおいて墓を守らせたのに、イエスはいなくなったのだということを強調します。ただし、墓を塞ぐ石は、地震で転がったかのように書きますが、よく見ると天使が転がしたのです。ここからはファンタジーです。ただし、ルカほど手が込んではいません。非常に簡素です。この場面ではどのようなイエスの復活を描くのでしょうか。墓を見に行くのはマグダラのマリアともう一人のマリア(ヤコブの母)の2人です。そして、地震、天使の石ころがし、天使の言葉、番兵の恐怖、そして天使の宣言、イエス復活の宣言。そしてイエスの顕現とガリラヤ行きの指示。この流れの中で注意すべき点の一つは、イエスの復活はすでに起こっているということです。天使が石を転がしたのはイエスをそこから出させるためではなく、すでにいないことを確認させるためです。ただし、女たちは確認せず、やがて直接イエスに出会うのです。イエスは石が転がされる前にすでにそこから出ていた。しかし、番兵もいた。カギは地震ですが、おそらくこれはマタイの構想でしょう。その地震がイエスの復活と脱出に関わると暗示するのです。もちろんマタイも真相を知らない。ただ、女たちの経験を物語ります。
 さて、復活信仰が前提にあるとして、このイエスの復活とは何を意味するのでしょうか。端的に言えば、これはすでに希望ではなく、現実です。つまり、復活信仰はついに現実になったということ。復活は観念ではなく、事実であること。つまり、義人たるメシアはついに復活し、やがて神の右に座る。そこまでは書かれておりませんが、原始キリスト教団はイエスの復活を現実のこととして受容したのです。それはもはや復活を信じるということではない。すでに証明されたと受け止めたのです。
 もちろん、これらのことはマタイ伝では弟子たちだけに起こったことです。それ以上のことは書かれておりません。マタイ伝は弟子たちの派遣で終わっています。なぜそれ以上書かなかったのか。天には昇らないのだろうか?などと詮索したくなりますが、マタイでは弟子たちへの呼びかけが最後の言葉です。その中身はすべての民をイエスの弟子にすること、洗礼を授けること、命じたことを順守すること、です。最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という確証の言葉で終わります。その後どうなったのかはわかりません。ただ、この最後の言葉に暗示されているのはすでにイエスは神の右にいるということです。「世の終わりまで」という言葉はおそらく最後の審判のときです。もちろん、それはマタイにとっては現在の世界の終わりです。なぜなら、語り掛けられているのが11人の弟子たちだからです。この弟子たちの伝道する時代の果てに、世の終わりがある。つまり、ごく間近の終わりを意識しているといえるでしょう。
 そして、イエスの復活の場所は墓の近くであるが、最後はガリラヤの、山の上でした。つまり、イエスは再び自分の出発点に戻ったのです。
 これは何を意味するのでしょうか。言うまでもありません。再出発です。この三日間の弟子たちの消息はマタイでは不明ですが、ひとまずエルサレムにはいます。女たちが、彼らにガリラヤへ行くようイエスの伝言を告げてから、初めて動き出したようです。ルカではこの間の事情が詳しく語られていますが、これは創作です。おそらくマタイは知らない。知っているのはガリラヤで新たに活動が始まったことです。これはマルコ伝の16章7節を受けています。マタイはマルコにほんの少し加えて、ガリラヤでの場面を、あの山上の説教を想起させる姿で筆を置いたのですが、ルカは完全に変更して、弟子たちへの出現の場所をエルサレムにしています。ルカは虚構を描くのです。要するに、イエスは復活してガリラヤで再出発したというのが、最古の復活後のイエスの伝承です。しかしそのイエスは、もはや幻とリアルの間にいるかのようです。イエスは復活したが、もはや神の領域にいる、というのがマタイの描き方です。しかも、このイエスの出現に対して弟子たちの感想はありません。このことは、もはやマタイが歴史を物語ることに関心がないことを示します。彼は最後のイエスの言葉を、読者自身に向けて、つまりマタイの教会に属する人々に向けて語りだしているのです。ですから、この28章は教会に向けている物語です。つまり、復活したイエスの最後の言葉こそ、最大の掟となることを告げているといえるでしょう。
イエスは確かに十字架で死を迎えた。確かに洞穴に埋葬された。しかし復活してガリラヤで弟子たちに現れた。この受難と復活のケリュグマはキリスト教において核心となります。しかもすでに願望や期待ではなく、完了した事柄として受容した。このことは何を意味するのでしょうか。
これは簡単なことです。つまり、新しい創造の業が始まったということです。復活という出来事を人が生き返ったという、なにか不気味でやや冗談のようなこととして考えるのは間違いです。イエスの復活とは、神の創造の業である。人間の手で十字架に掛けられた者が人間の力で復活することはありません。イエスが特別な人間だから復活できたということではないのです。弟子たちを中心とする原始キリスト教団は、からの墓の伝承からイエスの復活を信じたのではなく、復活が起こったと信じた、あるいはそのように受け止めたのです。そしてそのことによって、彼ら自身も再び立ち上がったのです。これはもちろん自分たちも復活するだろうという、やや虫の良い気分も含まれているのかもしれませんが、本質的にはそういうことではない。イエスの復活を通して、改めて命の神ヤハウェの支配の正当性(これを普通「神の義」と言います)が示されたということです。
ですから、復活の出来事というか、そのような一種の流言飛語は、その真偽をいたずらに問いただしても無駄です。その出来事を起こったこととして出発することに意味があるのです。ですから、復活の出来事を承認しないキリスト教は、キリスト教とは言えないのです。ただし、イエスの復活がなにか自分の救いに関わるかのように、あるいは自分もイエスのように復活するためにそれを承認するというようなことは無意味です。なぜなら、イエスの復活とは自分たちが復活するということとなんのかかわりもないからです。イエスの復活とは、神の支配の正当性の証にすぎません。それはすでに述べましたように、神の新しい創造なのです。それこそ、無からの創造、死からの立ち上がり、この世の支配の乗り越えということです。それはモーセの出来事を超えるかもしれない、画期的な出来事であるかもしれせん。たぶんそれゆえに、後のヨハネ伝は創世記の創造の業とイエスの出来事を重ねています。もちろんその出現のときからです。ヨハネにおいては、復活はすでに当然のこととして描かれます。なぜなら、十字架も死も復活も、神の圧倒的な創造の力にとっては、本質的には些細なことだからです。これは観念的にすぎますが、創造の業としての復活という見方は、最終的には神自身を賛美することに行きつく。ですから、イエスが特別な人間だから復活するというような超人的見方も、イエスが立派だから神が憐れんで復活させた、とかいうのでもない。たぶん最終的には、イエスが神の子である以上、死にとどまることは原理的にありえないということに行きつくのでしょう。
繰り返しますが、メシア(キリスト)であるイエスの復活は期待や願望ではなく、起こった現実として出発したのが原始キリスト教です。そして、そのことによってユダヤ教とはっきりと別れた。つまり、メシアの到来だけでなく、メシアが復活したという完了形で語ったこと、つまり神の新たな、画期的な創造の業の始まりとして位置づけたことによるのです。
このような復活の信仰は、私たちにどんな意味があるのでしょうか。あるいは力があるのでしょうか。
それは神の支配への信が、復活を呼び起こす事に直結する点にあるといってよい。簡単に言えば、私たちはいかなることであれ、限界を超えうるということ、未来を作り出すことができるということに尽きるでしょう。復活とは神の創造の業であり、無限の泉なのです。復活をなにか信仰している自分の命の復活などというエゴイズムの水準で受け止めるのはほとんど誤りです。復活とは新しい始まりです。創造です。だから、私たちは復活の日を何物にも代えがたく祝うよう求められるのです。
主の復活の起こったことを思い描いて、一人ひとり今日から新しく出発しようではありませんか。