砧教会説教2016年4月3日
「簡単に裁かない、あきらめない」
マタイによる福音書7章1~6節、24~29節
いきなり芸能界の話題で恐縮ですが、少し前タレントのベッキーさんとゲスの極み乙女の川谷さんの恋愛が大きな話題となりました。好感度が非常に高いベッキーさんと最近売り出し中の才能あるロックバンドのボーカルの恋、しかしそれはいわゆる不倫。ラインを通じての二人の会話が漏れ、世間の格好の標的となってしまいました。ふたりの交際は褒められたものではありませんが、ベッキーさんへのバッシングはあまりに異常でした。どちらかと言えば川谷さんの責任が大きいのに、好感度が高いベッキーさんへの攻撃は、あきらかにその落差を楽しむかのような姿を呈していました。
そのほか、現職の国会議員、参議院の立候補予定者のスキャンダル等、とりわけ週間文春が勢いづいています。
現代はネットが肥大化し、トリビアルなこと、あるいは事実かわからないことも、まことしやかにあっという間に流通してしまいます。そしてターゲットが見つかればとことんまで叩く。ベッキーさんの件は週刊文春のスクープですが、文春は久しぶりに完売となったそうです。
わたしたちはお互いの真の姿を知ることはできません。もちろん親子、兄弟姉妹であってもそうです。親子はそもそも生まれた時が相当隔たっているので、経験が違う。兄弟姉妹でも、それぞれ人間関係は違う。双子であっても、そうです。つまりそれぞれの経験は全く違うのです。だから、原理的に互いの真のすがたなど知ることはできないし、それでよいのです。そしてまったく違うからこそ、すこしでもわかろうと努力するのです。理解とは結局、その人が自分とは違うということに帰り着きます。違うけど、分かり合えることもある。そして分かり合えないことが多ければ、その人とは離れるでしょう。それでよい。
しかし、他人に抱く自分の思い描く姿は、メディアの力を通じて妄想に近いものになることが多い。したがって、それが壊れたとき、失望や落胆、あるいは逆に、人気のある人の場合、うらやましがられているので、イメージが崩れたとき、そのうらやましいという気持ちが反転して、いい気味だとか、自分より下劣な奴だと貶めたりして、自分と同列かそれ以下に落として自分のみじめさを中和しようとします。
要するにわたしたちは他人をいつも裁きたくて仕方ない。あの人は結局のところ、あの程度だ、と言って納得する。テレビであれほど親しまれていても、この件では全く人でなしのように扱われてしまうのです。今、わたしたちはなんと陰湿で、思いやりのない社会に生きているかと思ってしまいます。
今日の聖書の前半は「人を裁くな、あなたがたも裁かれないためである」と勧告しています。イエスは、人を裁くことを嫌います。それは結局自分にめぐってくるから。しかしそれだけではありません。本来、裁くのは人間ではなく、イスラエルの神ヤハウェである。人間は互いに弱さや限界を抱えています。そのような人間が正しい判断などそう簡単にできるわけがないのです。加えて、先ほど述べたようにそれぞれ違っているのです。
なぜ今日この聖句を選んだのかと言えば、私自身「先生」と呼ばれる仕事についていることに対する、自らを戒める頃合いであると思ったからです。教会では「牧師先生」学校では「先生」呼ばれ、全然偉くないのに、偉そうにふるまい始める人がおります。やがて、そのような人は、自分の価値や感情に合わないもの、わからないものを排除したり、矯正しようとしたりします。そうして、信徒や学生の最も良い部分を殺してしまうのです。わたしもその世界にいるので、そのことは実感としてわかります。自分の物差しがつい、絶対だと思ってしまうのです。先月末まで放送していた連続ドラマで「フラジャイル」というドラマがありますが、主人公役の長瀬智也という俳優がドラマの最後で毎回「あなたが医者である限り、僕の言葉は絶対だ」という決め台詞を語ります。これは誤診やミス、患者のことを思わない周囲の医者に対して、病理医という陰で働く医者、臨床から離れた医者が戦いを挑むなかで語られています。つまり患者の利益のために、救うために放つ言葉です。その意味では面白いのですが、これを患者に対してやってしまったら終わりです。当たり前ですね。しかし、残念ながらそういうことが多いのです。先生という商売は。
今日の聖書の前半で、イエスはそのことに非常に厳しく注意を促しています。「あなたは自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分たちの目の中にある丸太に気が付かないのか」と言います。自分を棚に上げて、人のことを注意などする資格があるのか、というわけです。もちろんイエスはこの場面では律法学者やファリサイ人といったユダヤの掟や規則に忠実な人々の偉そうな、差別的な態度に対して怒っているのです。「まず、自分の目から丸太を取り除け」と。
わたしたちは人をそう簡単に裁いてはならない。それどころか、裁く自分の方に、偏見や差別、あるいはねたみが潜んでいるのではないか。そのことにまず、目を向けなくてはなりません。そして最後にどうしても裁かなければならないとき、自分自身に痛みを持ちながら、裁かなければなりません。
さて、裁くということをもう少し詳しく考えてみたいと思います。
裁くということは、裁いた瞬間から、その人をある枠に閉じ込めることになります。裁くとは実は裂くということですが、要するにあることを打ち切ってしまうことです。あるいは見限るということも含まれます。としますと、「裁かない」と言う事の意味は、見限らない、打ち切らない、ということになります。それを子育てや教育にあてはめたらすぐわかると思います。当然ですが子どもたちと年単位で付き合うことになります。そのとき、短期間でそのことを判断したり、見限ったりすることは非常に問題だということです。なぜなら、子どもというのは成長しているからです。もちろん大人だって成長するかもしれませんが、それとはまったく違います。子どもはまだ成熟していない、完成していない。つまり責任を問われる主体には全然なっていないのです。だからこそ、だれであれ大人の手助けが必要です。それなのに、今はこどもを小さな時から選別し、一部の子は英才教育が施され、他方では放置され、構われないことどもがたくさん存在します。ゲームを与えられ、大人が話しかけない。これも先月まで放送されていたドラマで、『わたしを離さないで』というのがありますが、ドラマのある回で、主人公が事情のある(実はクローン人間として誕生した)子供たちの収容施設に言った場面で、そこの子どもたちが話をしない姿を見て、大人から話しかけられない子どもはこうなるのだ、という意味のセリフを話していました。(ちなみにその主人公役は綾瀬はるかという非常に美しい女性です。)当然ですね、こどもは母親の言葉を繰り返し聞き、周りの大人の言葉を聞き、次第にそれが意味を持つ音であることに気付き、それを用いることを学んでいくのです。ですから、そうした言葉のある環境がなければ、こどもは言葉を使うことができない。そうすると自分の気持ちや感情をうまく表現することができない。その結果すべてを体で、つまるところ暴力で何かを実現することに行き着く。それが手っ取り早いからです。こうして言葉の少ない子どもたちの世界はおそらく殺伐としたものとなるだろう。
さて、今はコミュニケーションが非常にやりにくい世界になったと言われますが、それは具体的な言葉の掛け合いが減っているからです。だからこそ、裁く行為が多い。ベッキーさんの件もそのことの反映もあるのではないでしょうか。
このような社会の風潮のなか、裁かないことの意味は重要です。子どもたちの状況は、全体として混とんとしています。つまりバラバラな感じです。そのなかで、裁かないことの意味は、個々の子どもたちを見限らないことですが、これは先に述べました。もう一つ、それと並んで、自分自身を見限らないことが非常に重要です。つまり簡単にあきらめないということです。
私も教師でもありますから、ずっとそのことを考えてきました。学生たちを見限らないと言う事を心掛けると、今度はこちらの限界にも直面するのです。要するに自分では役不足ではないか、自分には合っていないのではないか、という思いです。自分の足らなさを意識しすぎるということです。その結果、意外に簡単に仕事を辞めてしまったりする。今、若い人は特に自信を失っている人が多いのですが、それは政治と社会の両方がまず良くないのです。しかし、そのことを言ってもそう簡単にらちがあかない。ではどうするか?それは、まず、簡単にあきらめないということです。それは自分を簡単に裁かないということです。あきらめてしまえばそこで終わり。新しいことに挑戦すればよい。しかし、それは簡単にはいかない。なぜなら、新しいことを始める土台がないからです。
イエスは「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている」と言います。かれはこれまで語ってきた山上の説教を聞くだけではなく、実践せよと言います。つまり、聞くだけで満足して、たいして努力もせず、あきらめてしまってはダメであるということ。
子どもたちを簡単に裁かない、いや子どもだけでなく、あらゆる他者を、そして自分のことを簡単にあきらめない。そして確かな土台をつくって、じっくりと他者と向き合ってほしい。同時にじっくりと自分自身に向き合ってほしいということです。この二つを心に刻んで、始まったばかりのこの2016年度の人ひとりの時間をしっかりと歩んでまいりたいと思います。