砧教会説教2016年4月10日
「やまいを担うイエス」
マタイによる福音書8章1~17節
今日の聖書は三つの癒しのエピソードである。これらの話をどのように理解したらよいのかについては、以前お話しした記憶がある。わたしはその際、イエスの突破力、因習や伝統に縛られた人々の差別意識を悠然と乗り越えてしまうイエスの自由さに焦点を当てた。たとえば最初の「重い皮膚病」を患っている人に触れて、「よろしい、清くなれ」と命じ、その人を清くするという行為は、伝統的に排除すべしとされた重大な病人との関わりを開始することである。それは当時の人々の意識的・無意識的に行っている様々な差別とそれを裏付ける法的権威の働きを、断固として捨て去ることであり、いかなる人間も、その人なりの自由を生きうるのであり、かつその自由を生きなければならないとさえ、求めている。したがって、同時にそれを阻む力(伝統、権威、因習)に対して厳しく対決せざるを得ない。
第二の物語、百人隊長の僕を癒す話はどうか。このローマの軍事的支配システムを象徴する百人隊長の僕とは、ユダヤ教徒から見たら、敵である。ローマは法と文明の力で地中海世界からオリエント世界の西半分を支配しているが、その文明は強力な軍事的組織に基礎を持っている。そのような「敵」をイエスは平然と癒す。しかもその敵が気の利いたことを言ったものだから、イエスはその百人隊長をべた褒めしている。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と。では、どこか気に入ったのか?この百人隊長が、非常に謙虚だからである。イエス自ら治しに行ってあげようと言うが、この隊長はそれを恐れ多いこととして、遠慮し、逆に、百人隊長がローマの権威のもとにあることを前提に、部下にあらゆること指図出来る事を告げている。つまり、イエス様あなたのためなら、わたしの力で動かしますから何でも言いつけてください、とイエスに全面的に忠実であることを宣言しているのである。だから、この隊長をイエスはべた褒めした。その結果、イエスが行くまでもなく、その隊長の「忠実さ」に免じて、しもべの病は癒された、というのである。
ここにも、イエスの突破力が見える。彼は普通なら敵であるローマの百人隊長をそう見ていない。それどころか自分に信頼する以上、かえって仲間であるかのようにふるまう。そこには支配と被支配という分断に基づく、敵対心や憎しみを突破する次元がある。それはもちろん、ユダヤの多くの人々から見れば、裏切りの行動に見えたに違いない。しかしイエスはそのような料簡の狭さを相手にしていない。ひたすら分断と差別を突破していくのである。
三つめの断章では、ペトロのしゅうとめとその周辺にいる悪霊につかれた人々を次から次へと癒していくイエスを報告する。これは打って変わって非常に庶民的というか大衆的な中で奮闘するイエスの姿である。特に解釈を要する文言はない。ただし、このエピソードの最後に、マタイはイザヤ書53章4節をポロリと付け加えているのである。
本日の話はここからである。
イエスを私は突破者として理解した。それは非常に主体的で、時に政治的、権力的、対決的なイエス像を焦点化することになる。あるいは英雄的なイエス像、強烈な指導者、つまりはカリスマ的指導者である。たぶんイエスはそうした驚くべき権威と実行力を備えていたことは間違いない。
しかし、マタイの書きっぷりはそのような英雄的なイエス像に焦点を当てているかどうかはわからない。それどころか、結局はその逆であり、はるかにひたむきで謙虚で、かつ優しい、人の好いイエスを描こうとしているのかもしれない。それが今日の末尾にあるイザヤ書の引用から伝わってくる気がしたのである。
つまり、イエスは人々を癒し、治したと表面的には見えるのだが(ヒーロー、偉大な医者のように)、本当は、彼は彼らの苦しい現実、病や狂気、そして彼らの悲しみや嘆きをすべて担ったのである。この「担う」というのは文字通りに理解すれば、その病や苦しみを代わって引きうけるということである。そんなことは実際にはできない。いくら医者でも、患者に代わってその痛みを痛むことはできない。もちろん、その痛みを想像し、ともに嘆くことはできる。ただし、医者は技術を行使して、その痛みを取り除くことはできるかもしれない。イエスはどうだろうか。医者だろうか。ならば彼の行為は医療技術である。そして、彼の持つ突破力は結局医療技術に基づくものである。
しかし、イエスの突破力とはそのような技術のことではない。また、何か英雄的な自己陶酔による冒険的な態度によるものでもない。
翻って、そもそも突破力ではなく、彼の持つ包容力こそが真の力なのではあるまいか。
先に述べたように、マタイは本日の断章の最後にイザヤ書53章4節を加えているが、この担うというのは、重い皮膚病、百人隊長の僕の病、ペトロのしゅうとめの熱病、民衆の悪霊憑き、といったさまざまな病を自分で吸い取ることだった。少なくとも彼自身はそのような態度というか、そのような方針でいた。もちろん、マタイの解釈に基づいて描かれているのだから、イエスの真意とそのやり方ははっきりとはわからない。しかし、イエス自身も、自分は比較的安全なところにいて病人を治す「医者」と言いうのではなく、世の苦しみを一つひとつ拾い集め、自分の中に吸い取り、そのことを通じて、人々を癒すという姿である。従って、自分は安全どころか、自分が苦しむことになる。
このようなイエスの姿が、後のキリスト教では普通となっていく。
しかし、このようなイエスによる病の癒しは結局、イエスに罪をかぶせて、その他のものが生きていくという非常に利己的な考え方ではあるまいか。さらに、今日は読んでいないが、このようにイエスに集積された病や困難は、やがて彼が死ぬことによって、その命そのものとともに葬られていったと考えるようになる。つまり汚れや痛みを背負って死ぬことによってその汚れや痛みそのものを滅ぼすという考え方である。
そのことは、今日は読んでいないが、28節以下のガダラの人の癒しに関わる話に出てくる豚の群れの集団死という出来事である。もちろんこれは虚構だが、豚に乗り移らされたガダラ人の悪霊たちは、豚が崖から落ちて湖で溺れし死ぬのと一緒に死ぬのである。これは転移された悪霊がその宿主とともに滅ぼされるということだ。この豚の話は、イエスの死と並行している。つまり、この豚の話は、イエスの十字架の死を先取りしていると言える。このような病や苦しみの転移とその解消は、宗教史的にはありふれたものかもしれない。以前に指摘したように、薬師如来や地蔵菩薩はそうした転移の心理を巧みに利用した信仰対象としてわたしたちの文化ではなじんでいる。おそらくイエスも、そのような文脈で治癒神イエスとして広く知られるようになったのかもしれない。それは病や苦しみを代わりに担ってくれる神として。
もちろんこれは虫の良い話ではある。しかし、この世の様々な矛盾の中で、やむにやまれぬ思いで何かに縋るということはある。そして騙され、痛い目にあうこともある。しかし、理不尽な出来事の中で、この世を乗り越えねばならないという思いもまた真実である。さらに言えば、その理不尽な姿に気が付いていない人に対しても、本当はあなたが主人公なのだ、あなたは自由であり、主体であるとおせっかいにも言って上げることさえ必要であろう。
しかしながら、このような、病や痛みを転移された人とその死によって人々が救われるというのはちょっと信じられないと思うだろう。だからこそイエスは、時に「あなたの信仰があなたを救った」と述べる。つまり、自分(正確には自分の信仰)で自分を救ったのであり、わたしの力ではないのだ、だから私に過剰に依存するのは問題であると。もちろん、イエスはお金を取って治したというのではない。そうではなく、ただで、しかも各地を巡回してその地の病を治し、悪霊を退治する。そしてそれは一見すると医者のような治癒者であるが、根本的には違い、彼は宗教活動家である。この世の権力に翻弄される者、自然の力で翻弄されて病になる者、このような人々の困難をあえて掬い取った。それは非常に疲れることだろう。そしてそれゆえにイエスは最終的には全面的に闘争的になっていく。あらゆる病や苦しみの根源は、神から離れてしまった自分の精神的故郷であるエルサレムの腐敗であるから、それを突破すること、あるいはその罪を引き受けることによって、真の平安なる世界に至ると考えた。
マタイはおそらくそうしたイエスの姿勢を改めて苦難の僕に重ねたのである。しかし、その際、マタイはヘブライ語聖書から引用したようである。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの痛みを担った」としている。旧約聖書イザヤ書53章4節では「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに」となっているが、ほとんど趣旨は同じである。他方、ギリシア語訳旧約聖書では、「わたしたちの罪を担い」となっているが、これは5節以下を参照して訳しているのだろう。ただし、全体としては苦難の僕もイエスも誰かの重荷を代わって「担う者」である。
イエスは確かに突破者である。律法主義的ユダヤ教による民衆の分断と差別を突破し、一方、ローマの兵隊だからと言ってひるむのでもない。彼は自由である。しかし、その自由は英雄的なものではない。自らが代わって引きうけるという謙虚、かつ困難な自由である。彼は自ら担う者である。
突破する者であり、同時に引き受ける者、そのようなイエスをあの時代の人々の一部はキリストと見なした。つまり救い主と見なしたのである。わたしは、このようなキリストの姿を見て、改めてイエス・キリストを受け入れることの意味を考える。わたしたちはイエスになにをゆだねたのか、そしてそのゆだねたことの結果、何が自分たちに起こっているのか、そしてそこから何が始まったのか、そしてそのことに本当に満足しているのか、と。
復活と昇天のイエスを想起する時期、わたしたちは自分たちの救いの有難さをもういちど確かめたいと思う。