日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年4月17日
「覚、信、捨」マタイによる福音書8章18~34節
 プロテスタント教会の信徒は、救いの対象、つまり、色々な意味で助けられる、食べ物を与えられる、聖餐式でパンを与えられるというような、受け身の人間であることをやめました。この点でカトリック教会の信徒とは違います。カトリックは、職能が完全に分かれていて、信徒は全面的に受け身であることが求められます。代わりに神父は、完全にキリストの代理としての権威を持ち、常に与える側にいなければなりません。この違いはどこから来るのかと言えば、信徒と弟子を分けるか分けないかの違いからです。プロテスタント教会は、原理的に信徒はキリストの弟子と見なされ、万人祭司と言われるように、直接、神なりキリストなりとつながっているべきであると考えます。カトリックは神父がキリストの代理ですから、確かにキリストとつながっているとは言えますが、あくまで教会の権威が前提なので、間接的なものです。
 信徒であることと弟子であること、これはかなり違うように見えます。つまり弟子はキリストの代理、信徒は救われる対象として。しかし、弟子もまた信徒、つまりイエスの権威を信じたのですが、彼らもまた救われた者であるはずです。例えば徴税人から弟子となったマタイは、その偏見と差別に満たされた自分の人生から救われたのです。ペトロやヤコブは漁民の生活を捨てましたが、これは、理由ははっきりしません。いわゆる救いというのではなく、おそらくメシア運動で一旗揚げようと思ったのでしょう。彼らの救いとは自分の現状からの、脱出です。しかしこれも、やはり彼らにとっては「救い」であった。もちろん、ベクトルが違っていくのですが。このペトロの権威主義は結局後のキリスト教を決定づけたと言えるでしょう。この問題は、今日は主題的に取り上げることはしません。わたしは、基本的に弟子であることと信徒であることは結局同じことであると見たいと思います。そしてキリスト教徒になることは、実相としてはどういうことなのかを、三つの言葉で集約しようと思うのです。それが「覚、信、捨」です。やや仏教的な響きがありますが、これはどちらの宗教も、似たように考えることができることのしるしかもしれません。
 さて、18節以下では、まず律法学者が非常に真剣な言葉を語ります。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。これに対してイエスは、実にそっけなく「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」と言って、真剣な言葉に対して、もう一度考え直すように、あるいは、そんな言葉だけの誓いなど、軽々しく言うなとでもいうようにあしらっています。一方、弟子の一人が、「主よ、まず父を葬りに行かせてください」と頼むと、先ほどとは全く逆に、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と非常に不遜な言葉を述べています。この個所は明らかに、列王記上19章に記された預言者エリヤと一人の農民エリシャの出会いと、彼の弟子入りの場面の変奏ないし、パロディと言ってよい。エリヤは家族に別れを告げに行きたいというエリシャに、好きにすればよいというニュアンスで語りましたが、イエスは父への告別など、放っておけと言っています。しかも、葬りの儀式をする人々を死んでいる者と言って、蔑んでいます。つまり、イエスにとって、日常的世界に住む人々はもはや、死んでいる人なのです。そして、この矛盾した言葉が語られます。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。現に死んでしまった者と事実上死んでいるような者たち。イエスは当時の世界全体(イエスというよりマタイでしょうが)をすでに死んでいる者と見ています。そしてそのことに気が付くように促しているのです。つまり、ここにおいて、非常に厳しいというか、危ういというか、そのような覚醒、目覚めを促しているのです。たぶん、それは大げさに言えば、世界の全面的な否定です。その否定によって、真に一人立つことができ、かつ、イエスとともに歩むことができる、というわけです。この場面の本質を今「覚」と呼んでおきましょう。
 次に23節以下ですが、弟子たちとイエスが船に乗っている場面です、ガリラヤ湖を船で渡っているのです。激しい嵐が来て、弟子たちはうろたえますが、イエスは寝ている。これに対して弟子たちはイエスをたたき起こして、助けを求めます。これに対して「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」としかりつけました。
 この個所でイエスの言う信仰とは、以前詳しくお話ししましたが、信仰を持っていれば嵐の中で溺れずに助かるだろう、というような利益を期待する信仰ではありません。そもそも、それは信仰ではなく、単に取引です。イエスの言う信仰とは、嵐で転覆しておぼれ死んでも、それでも良いというもののはずです。なぜなら、我々は信仰ゆえに、死を乗り越えて復活するからです。(もちろんそれは世に神の国を実現するという使命を真剣に担う人々にとっての事柄です。この文脈では「覚」の境地にいる人です。)イエスの言う信仰とは、取引ではない。信仰とは死それ自体を乗り越えることであって、溺れないで生きることの実現を求めることではありません。もっと言えば、漫然と生きることに執着しないことであるといっていいかもしれません。もちろんイエスは、ここでは神としてふるまっています。すなわち、風や湖さえも従わせる力を持つということです。間違ってはならないのは、人間イエスが魔法使いのように何でもなさってくれるのだ、だからいつも助かるのだ、ということを言いたいのではなく、これは単に神の支配ということをイエスに託しているだけです。神の支配のもとにある者たちには、死へのおそれ、あるは命への執着は必要ないのだということ。これが「信」の実相、つまり本当の在り方なのです。 (ただし、このマタイのテキストはイエスの権威に執着しています。むしろ神は背景に退いている観さえあります。)
 最後の断章については、先週少しだけ取り上げました。ここには唐突に二人の悪霊に取りつかれた人が墓場から出てきます。「二人は凶暴で、だれもそのあたりを通れないほどであった」といわれ、穏やかではありません。しかし彼らはイエスを見て、恐れをなし、「神の子、構わないでくれ。まだその時ではないのに、我々を苦しめるのか」と奇妙なことを言います。これはこの悪霊憑きが単に精神的な病であるというようなことではありません。これは当時の世界の乱れ、あるいは暴力(それは物理的なものと宗教的権威に基づく精神的なものの両方)の支配といったものを象徴する表現です。この悪霊は権力欲の権化のようなものとみなすべきです。だからこそ、真の権力、というか神というか、それを身にまとったイエスに対して、言いがかりをつけているのです。しかし、この悪霊は不思議なことに自分自身を豚に閉じ込めてくれと願い出ます。これは非常に差別的な世界を前提にしています。豚はユダヤでは汚れた動物とされます。その豚に悪霊を乗り移らせ、先週の言葉で言えば「転移」させて、やがて崖から湖に落ちて、悪霊もろとも死んだというのです。これはスケープゴートという感じです。あらゆる罪をヤギに転移させ、それを荒れ野の奥に放逐する。そして共同体を浄化する。そんな感じです。そしてイエスはやがてその犠牲と同じ形で十字架につく。ただし、ここでは不思議なことに、悪霊が豚に移されて豚もろとも死んだというのに、町の者たちは喜んでいない。この断章の見出しに、「悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす」とありますが、これは全く見当違いの見出しです。ここにはガダラの人の癒しは話題になっていません。そして悪霊退治が話題の中心であるかのようでもありますが、それも違います。これは、悪霊退治なぞ余計なお世話だと言っているのです。豚飼いたちが町にいって一部始終を知らせると「町中の者がイエスに会おうとしてやってきた。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った」と記されているのです。つまり、ガダラの人にとって、確かに悪霊は怖い、つまり権力支配は怖いが、他方でそれに対して盾突いて、今ある秩序が壊れて、もっと悪くなる可能性があるとすれば、このようなイエスの立派な活動は余計なお世話である、ということです。だから、イエスは追われるのです。
 さて、イエスはこうした悪霊を豚とともに水の中に捨て去ったのですが、ここでイエスはそうしたこの世の力を捨て、そこから離れることが正しいことだと訴えています。しかし、それはもちろんそう簡単には理解されません。それどころかイエス自身がやがて捨てられていくのです。従ってここには捨てるこの両義性、つまり捨てるということ、あるいは離れるということは、実は捨てられる、あるいは見放されるということと一体であることがわかります。イエスはこの世の力を捨て去ること、離脱することを強く求めているのですが、それは他方では自らが捨てられることに直結するともいえるのです。
 他方で、このような捨て去り、悪霊を退治すること、これは自分の中にある悪霊を捨て去ることにつながります。そしてそのような強い自己批判や自己評価の意識が生じてきます。そして自らを罪人として深く自覚するようになり、ついにはその捨て去りを強く望むようになるでしょう。こうして「捨」もしくは「断捨離」とでもいうような態度が形成されていくでしょう。
 マタイは本日の箇所で、イエスの活動とその言葉から、これら三つを整理して提示しているように見えます。そしてこの三つを核心に据えることが、キリスト者であり、弟子であるということ、そしてプロテスタント教会にいるわたしたちはこのような心構えが求められているのだということも読み取れる気がいたします。
さらに言えば、「覚」「信」「捨」の三つは主な宗教の本質として取り出すことのできる普遍的な事柄かもしれません。それゆえ、主な宗教はともにこの世に対して批判的にかかわることができるし、またともに「世直し」のために連帯することもできるはずです。「覚、信、捨」このキーワードがから聖書を読み解くことで、教会の活動が開かれて行ければと願うものです。