砧教会説教2016年5月1日
「弟子を派遣するイエス」
マタイによる福音書10章1~15節
イエスは弟子たちとともに地域を巡回しながら宣教し、病や悪霊につかれた者たちを救いだしていました。9章の最後の断章では、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあるように、イエスは目の前の世界の悲惨を強く意識しています。さらに弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない」と語り、働き手をくださるよう「収穫の主に願い出なさい」と言いました。マタイはすでに、弟子たち以降のシリア地方の姿(膨大な民衆)を念頭に置いて、弟子たちと同じ働きをする活動家を養成すべきと考えていたのです。本日の箇所はそれに続いていますが、この10章は独立した断章です。この章は改めて弟子たちを呼び寄せ、彼らに弟子としての心構えを教えているからです。
さて、1節ではイエスが12人の弟子たちを呼び寄せていますが、これは「汚れた霊に対する権能」を授けるためです。汚れた霊とは何か。これについては前々回少し触れましたが、おそらく象徴的な表現です。これは単に精神的な病を指すだけではなく、イエスから見て多くの民衆が自分の人生を、自分の命を誰かに乗っ取られていることを表現しています。それは、わたしたちから見れば巨大なローマ帝国の権力の支配とユダヤ教の律法主義と祭儀主義に縛られていることを象徴的に表現しているとみられます。しかし、民衆自身は自分たちが律法に背いた罪の虜になっている、それゆえ、病や悪霊憑きのような罰を受けていると思っています。だからこそ、イエスに縋り、かつイエスは彼らに同情し、癒すのですが、ここには重大な齟齬があるのです。民衆は自分たちが罪の結果苦しんでいると考えている。イエスは彼らが当時の支配者によって、もっと広く見れば時代の精神によって、マインドコントロールされていて本来の自分を生きることができないでいるとみている。つまり、彼らは罪人とされている、そしてそのレッテル張りによって自らそう思い込み、すべては自分のせいだと思わされている。イエスはそうした精神的な束縛が歴然とした狂気に至ることも当然知っています。彼は多くの民衆が苦しむ姿を見て、悪霊に取りつかれたと表現しますが、悪霊とはその時代の差別的で抑圧的な支配力すべてを指している非常に意味の広い、かつ重い言葉であると言えるでしょう。そしてその言葉はもちろん、その時代に限定されるようなものではなく、あらゆる時代の人間世界に現れる非常に深刻な滅びの力を象徴するようになるのです。だからドストエフスキーは『悪霊』を書くし、ゲーテは『ファウスト』を書いた。
さらに病気や患いを癒すとありますが、これは単に自然的なこと、どうしようもないことなどではありません。偶発的で人知の及ばないことだとしても、これに対する関わり方は人知の問題です。つまり病人その他をどのように受けとめるかという問題です。イエスは真っ先に「らい病人」のもとに行った。それは病の人を罪人と決めつけて排除することを拒否し、病気と罪の関わりを否認することです。その結果、病気は病気として人格と切り離して考えることができるようになる。もちろんこうした医学的な考え方をイエスが採ったというのではありません。しかし、病気と罪を切り離すことで、呪術化と商売化した祭儀宗教を解体することができたと言えるのではないでしょうか。そしてその結果、祭司的ユダヤ教は否定されることとなり、イエスは反逆者とならざるを得ない。
さて、このようなイエスの思想、あるいはその活動の根拠となる人間と世界に対する態度のようなもの、あるいは新しい世界の幻を、弟子たちは「権能」として与えられることになるのでした。権能とは他では「権威」とも訳されています。つまり、「暴力や脅しによらず人の心を動かす力」です(それは自ら進んで苦難を背負うという自己犠牲的な働きから現れる力と言っても良い)。イエスは当時の世界にあふれる悪霊や病を支配する力を持ち、それを弟子たちに授けたということです。要するに、弟子たちはこの世界の人間の災いと苦難を引き受けて、かつ取り除き、神の国の実現を期すために自分の人生の時間を使うということ。2-4節には弟子の名前があげられていますが、漁師だったぺトロ、徴税人マタイ、熱心党ノシモンなど、多彩です。つまり、イエスの弟子はもとの職業や思想とは無関係とはいえないとしても、それを超えた普遍的な、これまでの社会関係を突破した、あるいは無効と見なした人々から成り立っていたのです。ここにはキリスト教の本質が現れていると言ってよいでしょう。身分も職業も、思想もいったん括弧に入れて、世界を救うキリストにおいて一つとなるという、一見不自由な、しかし根本的には自由な共同体です。もちろん、これは理想化であって、現実にはキリスト教は分裂の繰り返しです。しかし、最終的にはこの原則に基づいて、多彩で多様な人々の確固たる信と相互の愛によってつながりあっていく(はずです)。
5節以下にはイエスの命令としてやや不穏な言葉が書かれています。このようなことをイエスが言ったとは思われません。その証拠に、マタイが下敷きにしたマルコ伝の並行記事(マルコ6章7-13節)を見ますと、あっさりしたものです。ちなみにルカ伝はマルコと同様です。
マタイのイエスはこう言っています。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい」(5-6節)。これは非常に差別的というか、限定的というか、非常にバイアスのかかった言葉です。マタイは非常にイスラエルを意識しています。つまり、彼は真のイスラエルをイエスに託して再建したいのです。ですから、彼の権威をとことん高め、現実のユダヤ教の祭儀支配と律法支配の上を行く新たな権威としてのイエスを打ち出したかったのでしょう。それゆえに、マタイは異邦人にユダヤ教の神髄を知らせることは論外、あるいはわかるはずもないと考えているようです。さらに遠い時代にエルサレムのユダヤ教と離れてしまったサマリア教団に対しても差別的に見えます。マタイによる福音書は、真のユダヤ教を新しいメシアであるイエスのもとに再建するという目標を抱いているのでしょう。だから「イスラエルの失われた羊」つまり、エルサレムの支配から排除されたガリラヤを中心とした北のイスラエルから始めて、全イスラエルの再建ないし回復を思い描いているのです。そして「天の国は近づいた」と述べ伝えるよう勧告します。
注意すべきことは、天の国に「行く」のではないということです。天の国がこちらに向かってやってくる、つまり、天の国自体がこちらに実現するということです。ですからマタイは天国というのを天にあって、やがてそこへと登っていくというイメージを、さしあたっては持っていないのです。かえって、天の国が地上の国を襲うであろうというのです。そして、そのような時代に備えて、すべてを浄化しなさいというのが8節以下の緊迫した表現です。「病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」とありますが、これはイエスの行為を要約したものに見えますが、実は先取りしています。これまで死者の復活は行われていませんが、ここには出ています。つまり、これはマタイ自身の回顧的な要約なのでしょう。
ところで、なぜ天国の接近と病気の癒し等が関係あるのでしょうか。これについてはマタイの思想が関係するでしょう。マタイにとってのイエスの目標は、天の国の実現、つまり終末に際して、すべての人間は、その時までに清くなり、病を治して清くすることが要請される。なぜなら、すべての人間は審判を受けるからです。それまですべて身辺を整理し、天の国に間違いなく入れるようにしなければならないということでしょう。したがって、彼にとって、癒しの行為、悪霊退治というのは、その人が健やかになることが目標ではないのです。目標はその人の健康や自由にあるのではない。むしろ、天の国が到来するのだから、当然健康で自由でなければならいのである。この世の汚れを纏っていては天の国の裁きに耐えられないのです。こうしてマタイの救済思想はある種の脅しになっていく。イエスの目標が、人を回心させ、罪の赦しを宣言し、天の国に入る資格を授与するという、結局差別的排除的なユダヤ教の外形的本質をこの新しいユダヤ教であるマタイのキリスト教は持つことになる。そこにキリスト教のカルト化の起源の一つがあるように思う。
さて、このような相当のバイアスのかかった表現の後には、弟子たちの非常に禁欲的、かつ行動的、いわば托鉢的な伝道活動に関する諸注意が並んでいる。9節の最後には「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とあります。古代の預言者同様、金をとっての癒しの活動はしない。基本的にお金は持たず、食物だけは受け取る。歓待してくれないところでは、「足の埃を払い落としなさい」とまで言っている。その町の土でさえ呪われるのです。
キリスト教は確かにイエスから始まりました。しかし、イエスは活動の途上で若くして亡くなりました。その影響は計り知れないものですが、しかし、復活したイエスを信じ、同時に自分たちももう一度立ち上がり、新しいユダヤ教を立ち上げていくのが弟子集団です。つまり、現にあるキリスト教はイエスをメシア(キリスト)と仰いだ弟子たちから始まったのです。それゆえに、イエスをどのように受け止めるのかの違いで、様々な流れに分かれていったのでしょう。今残っている新約聖書はユダヤ教とのかかわりを失うことなく、同時にイエスの新しさを宣言する、つまり最終的なメシアをイエスとしました。そして、このマタイの描くイエスはイスラエルの真のメシアとして、天の国の到来にふさわしい人間へとすべて変わるべきであると考えたが、それは弟子たちに託されたことであるとしています。
わたしはマタイの描く弟子たちの働きには注意を要すると思います。本来イエスの弟子は、何をしようとしたのか。そして人々をどのように変えようとしたのか。天の国にふさわしい人間になることは、ユダヤ教の徹底化、つまり律法の厳格化につながる恐れがある。わたしたちはマタイの描く弟子たちの任務から、逆にイエス自体にさかのぼることが必要かもしれません。つまり、マタイによって解釈されたイエスとその弟子の姿から、イエスの姿を取り戻すこと。マタイによる福音書は新約聖書の冒頭にありますが、そこには初代教会の思惑があります。その思惑から出発するのが伝統的キリスト教ですが、プロテスタント教会はそこから遡行する、さかのぼることが出発でした。
イエスから始まった活動はいつの間にか目的が代わっているのではないか。そんな疑いを持ちながら、今、改めて福音書からイエスとその弟子たちの姿を読み直すことが必要な気がします。