日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年5月8日
「迫害を乗り越える力―マタイによる福音書の根幹」マタイによる福音書10章16~33節
 この大きなまとまりがすべてイエスにさかのぼるわけではない。マタイが底本としているマルコ伝では、はるかに短い。しかし、マルコのイエスも、似たような緊迫感を抱いて語っている(マルコ13章9-13節)。今日は見出しの上では二つ単元から成るが、実際には10章全体が弟子に向けられた勧告であると言ってよい。前回、全体の三分の一を読んだが、それは弟子たちの将来が厳しいものになることを予想させるものであった。本日の箇所では、より具体的に迫害の状況を語り、同時にその中でどのように耐えていくか、その方法、あるいは精神の構えについて、イエスが語っている(あるいはイエスを借りてマタイが語っている)。
 まず16節で「わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語る。弟子たちは非常に困難な宣教の活動を経験することになる、という。だからこそ、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」という心構えが求められる。創世記に「野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」とあるが、マタイはこれを受けて、普通は否定的に見られそうな蛇を、まったく肯定的に持ち出している。蛇の賢さはエヴァを禁断の木の実へと唆したが、それは人間として生きる道を開くものであった。もちろんそれは神からすれば罪ではあったが、人間も知恵を持ったのである。蛇によって開かれた知恵をしっかりと用いるべし、というのである。そして「鳩のように素直になりなさい」と語り、オリーブを加えてノアのもとに戻り洪水の後の平穏を告げる穏やかな生き物、同時に食べ物として人間を養う鳩という家畜としての鳩の素直さを持つよう進めている。しかし、この素直さとは、わたしたちが普通イメージするのとは違う。これはイザヤ書53章にある、苦難の僕を想起させる、神の決定に対する従順さのことであり、したがって、覚悟と表裏をなす構えのことである。
 さらにその後には「人々を警戒しなさい」とあるが、地方での宣教活動において一般のユダヤ教徒からつるし上げを食らうことを想定している。地方法院とあるのはユダヤ教の地方議会兼裁判所のようなものらしい。
 そのあとの言葉は弁明の際の心構えである。後のキリスト教はヘレニズム世界の中で自らの正当性を、または少なくともヘレニズム世界における自らの存在の許可を求めるために、自分たちを弁明しなくてはならかった。そしてそれを本格的に始めたのがパウロであるが、原始キリスト教は自らを主張するという、ある種の安全性を前提とした、言論活動を行ったというのではなく、ほとんど受け入れられることがありえないような、とんでもない主張を民衆的なレベルのファンタジーやたとえを用いて伝えていたのである。しかし、そのことが当然民衆を扇動する力と見なされていく。そして敵視され、宣教者は逮捕され、やがて弁明を行うことになる。その際、どのような弁明をなすべきか?そもそもそんな弁明ができるだろうか。弟子たちはそうした問題に直面していくだろう。その時の対応が19節以下の言葉である。「引き渡されたときは、何をどう言おうか心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。これはもちろん無責任な言葉である。要するに、あなたがたにかわって父の霊(マルコでは「聖霊」)が語ってくれるのだから、あらかじめ何を言おうかなどと考える必要はないということ。言い換えれば、出たとこ勝負でよいという励ましである。つまり、この勧告は、ひとまず後先を考えずに、行動せよという促しである。
 その後には唐突に「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」(21節)という非常に殺伐とした言葉に出会う。これは底本であるマルコ伝も同じである。この言葉はイエスのものだったとしても、実際の背景はおそらくユダヤ戦争の時代であろう。ローマと戦争することを選んだのはユダヤ教徒全員ではない。ウルトラ民族主義者たちがそれを始めたのであり、それに反対する立場のものもたくさんいた。したがっておそらくローマとの戦争は、他方でユダヤ教内部での反目も引き起こした。そしてその一つの要素が新しいユダヤ教である原始キリスト教であった。彼らは当然、ユダヤ戦争には反対であった。暴力闘争による疑似的メシア運動とは対極の、はるかに空想的・終末論的なメシア観念の中で現実の歴史を捕らえていた原始キリスト教徒は、おそらく民族主義的反ローマ闘争を指導する人々と厳しい対立を避けることはできない。その中で、この21節のような事態が、どこまで深刻かは別として、生じていたのは間違いないだろう。
 さらに、その後に続くのは「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(22節)という激励の言葉であるが、これは慰めの言葉に見えるが、必ずしもそうではない。なぜなら、マタイのイエスは「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらわないうちに、人の子は来る」と言っていることから、迫害はもはや一時のことであり、天の国の到来は迫っているとする理解である。しかも、「人の子」すなわちメシアが間もなく来ると言っている。やや理解に苦しむのは、ここで語っているイエス自身は、自分が「人の子」ではないかのように語っており、むしろ預言者的である。再臨のことを言っているとすれば理解は可能であるが、いまだイエスの十字架は先の話である。ここにはある種の混乱が見て取れるが、それについては今日はこれ以上詮索せずにおこう。ひとまず、終末とメシアの時はまもなく来るという切迫感の中で、マタイのイエスは語っているのである。
 24節は弟子と師、主人と僕の関係に言及するが、これは最終的に同じレベルで十分とのことであるが、その後25節後半はややわかりにくい。これはある人が否定的に見なされたとき、つまりベルゼブル(悪霊憑き、悪魔的人物)と見なされると、その次の世代はもっと差別されることになる。つまり、弟子たちは私(イエス)よりもっと否定的に見なされるであろうから、心せよ、と言うことだろう。
 26節以下は非常に真剣な勧告である。そこには完全に身体と魂の二元論が前提され、しかも魂も肉体も最終的には天の父の裁定のもとにあるということ。ただし、肉体は人間によって滅ぼされる可能性があるが、魂については大丈夫であるとの考えが出ている。つまり、人間の魂は人間の力によっては最終的にはコントロールできないという主張である。このことは普通のことである。わたしたちは子供を叱るが、しかし、それはなかなか功を奏さない。つまり肉体を従わせることができても、その心を支配することは難しいということ。この話に加えて、雀の話と髪の毛の話のたとえ話がでるが、これは要するにあらゆる命は神の支配のもとにあり、それを逃れることは全くできないことを言っている。
 最後の32―33節はイエスの集団に入るなら救われ、そうでなければ救われないと語る。ここには原始キリスト教団の信仰告白がほのめかされている。この信仰告白、厳しいものであり、イエスの仲間であることを示すことが救いの絶対条件であるかのように言っている。ここには単にイエスの仲間であるという事態だけではなく、「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者」という条件がある。これは儀式的なことを言っているのではなく、迫害され捕らわれた後、喚問されている際に、はっきりと表明するよう求めている。キリスト教は告白する宗教であると言われるが、これはべつに罪を告白することとは関係がない。そうではなく、わたしは天の神の支配を信じるのであり、地上の支配、人間の支配を否定するという、常識からすれば非常に険しい、危険な態度の表明である。要するに、モーセの十戒の第一をもう一度真剣に受け止めるということだ。しかも、そのことを当のユダヤ教徒の前で言うのであり、二重の意味で、つまり単にこのローマ支配の世界へのアンチだけでなく、自分たちの宗教である現実のユダヤ教さえ乗り越えるような立場である。すでに律法の名においてかえってモーセの次元を覆い隠しているエルサレムの権威主義的ユダヤ教は、捨てられるべきものなのである。
このようなあれかこれかの決断めいた信仰は自分の属する共同体が本当にまっとうであるとみられるときにのみ有効である。そうでなくては、カルト的なもの、自己催眠的なものによって実質的に支配されていくこともありうる。実際その危険はこのマタイによる福音書ではっきりと出ている。今日の33節の言葉もその一つの例かもしれない。
ここには一種の恫喝がある。いったんカルト化した宗教に捕らわれると、そこから抜けられないのは、救済の可能性と恫喝とが一体で受容されるからだろう。もちろん、カルトだけではない。ある種の団体性を実体化するためには(企業であれ、国家であれ)、成員をつなぎとめる手段が必要だが、それは結局飴と鞭に収斂する。宗教は天国と地獄がそれらを代替する。
 しかしながら、このような危険を正しく理解したうえで、マタイの今日の箇所(その続きもそうだが)、ここにはキリスト教の倫理の核心が表明されていると言えるのではないか。つまり迫害を越えて未来に賭けるということ。いや賭けるというのは語弊がある。むしろ未来の勝利を確信するがゆえの忍耐と言うべきかもしれない。マタイのイエスは飴と鞭を使いすぎるきらいがあるが、マタイのベールをとれば、結局そこに見えるのは、イエスの十字架であろう。もちろん、この個所ではまだ十字架以前であるが、実際にはマタイそれを前提としている。それゆえ、イエスの素直さ、従順は、マタイには極めて崇高な忍耐として解釈された。それは後のキリスト教の宣教における態度を決定したのである。すなわち、あらゆる艱難は、それを喜びとして耐えること。その先の勝利はすでに自分のうちにあるということ。
 わたしたちは、この21世紀にあってなお、その倫理、つまりイエスの苦難とともに生きるということを受容している。そのことの意味、いや価値は何か?たぶんそれはわたしたちが今なお、この世界の完成に責任を負っているということをおいてほかにない。それはすでに示されて2000年を経たが、忍耐の先にある、真の平和は先にあるから。
 もちろん、このような究極の忍耐をいつも意識する必要はない。そんなことは逆に自分を束縛し、本来否定すべき律法主義となるからだ。強いられて耐えるのではない。そこには最後に喜びがなくてはならない。それを時に意識することがわたしたち普通のキリスト者の精神の構えである。