日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年5月22日
「信じて生きる―アブラハムの生涯から―」創世記15章1~21節
 私の師であった木田献一先生は、最晩年、東洋英和の生涯学習センターでの講義でアブラハムについて非常に深く検討なさっておりました。私は二度ほど講義を聞くことができたのですが、先生はアブラハムへの啓示ということをしきりに強調していた記憶があります。後でわかったのですが、先生の亡くなる直前、最後の文章はW.E.オールブライトの『石器時代からキリスト教まで―唯一神教とその歴史的過程』(木田献一監修、小野寺幸也訳)の監修者としての言葉だったのですが、この書は歴史哲学と考古学そして聖書学を総合した古典的書物でした。先生の文章の中で、「聖書学が扱っているのは歴史と言うよりは宗教の伝承である。イスラエル宗教は「超越者の啓示」という超越的源泉を持つ。アブラハム、モーセの受けた啓示という源泉が、現代に生きる我々にまで伝承されているのである。」(444頁)と述べ、啓示から出発する宗教としての特長を基礎に据えない聖書学の不毛さを憂いておりました。聖書は歴史文献ではなく、結局それは信仰の証の書である。そのことを改めて強く打ち出していたのです。そのような経緯があって、アブラハムを取り上げていたのですが、先生にとってイスラエル宗教の真の出発点はモーセへの啓示(出3章)であり、アブラハムの伝承はかえって二次的なイデオロギーと見ていた気がしていた私は、最晩年、アブラハムを取り上げていたことにある種の戸惑いを覚えたものです。
 しかし、聖書を改めて啓示に基づいて生きた人びとの証言を根本に据えていると考えれば、アブラハム伝承のような、おそらく王国時代以後のイデオロギーを色濃く反映しているものでさえ、その外皮を除けば、実にモーセよりはるか昔、すでに啓示に基づく新たな生き方が始まっていたと考えるべきなのだと、わたしは今では思えるのです。なぜなら、王国時代のイデオロギーを支えるためとはいえ、アブラハムを古い伝承から取り出した伝承者はアブラハム伝承に、それを用いるべき理由を見たはずであるから。そしてその理由とはおそらくアブラハムが父とともに「カルデアのウル」から旅立ったとされる点にあったのではないかと思うのです。つまり、彼らは何らかのきっかけで強力な都市国家ウルから出ていったことを神の啓示の結果と見たのではないでしょうか。
 アブラハムの物語は創世記11章の最後、つまり父テラとともにカルデアのウルを出たことから始まります。創世記はそれまで人類史的な視野で描くのですが、この辺りでイスラエルの先祖の物語に移行します。その始まりはアブラハムなのですが、彼は旅する人間として描かれています。小家畜飼育者であり、かつ隊商として商いをしているようにも見えます。彼はメソポタミアからエジプトまで旅をするのですが、後の時代、やがてダビデ・ソロモンの領土となる地域を旅しているように見えるので、後の王国の暗示として見られるのです。
 そのアブラハムは12章でまず、啓示に出会います。これはアブラハムの召命の記事といわれますが、あきらかにのちの時代のことが投影されています。しかし彼の旅自体はひとまず本当のことと見るべきでしょう。彼はその後、甥のロトと別れ、旅を続けますが、やがて再度啓示をうけます。それが今日の聖書です。ここには高齢で子どものいないアブラハムとサライ夫妻に奇跡的に子どもが生まれ、その子がアブラハムの後継者となるだろうという啓示が示されている。こう書かれています。
「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして言われた「あなたの子孫はこのようになる。」アブラハムはヤハウェを信じた。ヤハウェはそれを彼の義と認めた。」
ここにはアブラハムの「信」が伝えられています。これはもちろん口伝の伝承でしょう。しかし、この言葉は重要です。アブラハムは自分の生きる道を、ヤハウェへの信に基づいて進んでいくことにしたのです。このことは何を意味するのでしょうか?
アブラハムは小家畜飼育者と商人を兼ねたような人ですが、彼は家畜やお金という人間の欲望を前提にした生き方をしていると言ってよい。しかし、今や、それとは別の次元、つまり人間的思惑とは別の、人間の世界を超えた、あるいは地上の世界を超えた、真の世界の主人であるヤハウェという神の啓示に基づいて生きることを選んだということです。アブラハムから信仰が始まったと言われますが、それは神への信仰を持って生きることではなく、神の啓示に基づいて生きることを意味します。啓示に基づくとは、天上からの神の声に聴き従うこと、人間の語る自分本位になりがちな言葉に頼らないこと、です。このことは、逆説的ですが、この世からの自由と言うことも意味するでしょう。だからこそ、旅ができるとも言えます。旅とは人生そのものですが、人間的思惑の中で縛られ、あるいは自分自身で縛ってしまえば、その人は本当の意味で旅することができない。アブラハムの生涯は、もちろん王国のイデオロギーが色濃いのですが、しかし、本質的に旅する人であったことは間違いないでしょう。
ところで、神の啓示に基づいて生きるということは、必ずしもハッピーではありません。それは人間の思惑とは別な次元ですから、まったく重ならないことがよくあります。それどころかあまりに残酷で悲しいことも「啓示」として受け止めざるを得ないこともあります。それが22章にある、息子イサクを焼き尽くす捧げものとして捧げよとの命令です。アブラハムは当然悲しんだはずですが、それを啓示として受け止め、仕方なく息子を犠牲に捧げる決断をします。そしてアブラハムはイサクを縛り、薪に火をつけ、剣を振り上げたのです。
しかし、間一髪のところで神が介入し、その人身供犠は遮られたというのです。もちろんこれは良かったのですが、しかし、神の言葉を信じて生きるとは、神の言葉に忠実であるということを意味するので、これはとんでもないことも起こってしまう恐れがあるのです。こんなことに従ってよいのか、これは悪魔の啓示ではないか、そのような疑いが起こることがあるに違いない。しかし、アブラハムの信仰はそうした疑いをはさむ兆しがないのです。
わたしたちはこのような聖書の記事に出会うと、立ち止まらざるを得ません。本当にこのような忠実さが求められるのだとすれば、そのような信仰は誤りではないか?このような問いは、実は聖書を貫いていると言えるかもしれません。ヨブの最後の敗北もじつはアブラハムの忠実さに結局戻ったように見えます。イエスの十字架への道もそうかもしれません。自らの命を捧げてしまうのですから。
このようなアブラハムの態度に、何らかの葛藤はないのだろうか。聖書は何も語っていないように見えます。しかし、おそらく、行間を読めということです。あるいは、そこに自分の思いを補えということです。そのことは実は聖書のどの物語にも言えることでしょう。そう、聖書とはまず、問いかけの文書であると言ってよいかもしれません。
では、アブラハムの信、神への忠実から私たち、いや私は何を読むのだろうか。
アブラハムの生涯は旅でした。一つ所にとどまることがない。もちろんそれは場所的な意味ですが、かりに場所的移動がなくても、旅であると言えるのではないでしょうか。それはこういうことです。わたしたちは一人一人常に変化している。昨日の自分はもういない。今この時に自分を生き、そしてその時を経て移っていく。経ていくとは英語ならパス。つまり過ぎていくこと。わたしたちは実は、場所の移動という旅だけでなく、日々が旅である。それどころか、旅することが課せられた存在であると言えるのではないでしょうか。だから私たちは常に指針を必要としている。もちろん日々が過行くのは普段は当たり前で、だれも旅とは思わないかもしれない。しかし、変わらぬ日常が続いているのではないことに突き当たったとき、つまり病、死、災害、戦争といった非日常に突き当たったとき、それぞれが信を問われることになるのです。信とは、そのような旅の喜びも困難も同時に支えるものと言えるでしょう。この世の旅路、それは最後は神に至ると思ったりする。しかし、最後で神に至るのではない。常に神につながっているのです。では、そのような信がなぜ必要とされたのでしょうか?
それは結局人間は一人一人最後は人間に頼ることができないからではないでしょうか。わたしたちはわたしたちで完結することができない。親や兄弟、信頼できる友人、それらに頼ることは可能ですが、彼らは過行く。そして人に頼ることはついには偶像崇拝に近いことさえ起こる。そしてそれに力がないことに絶望する。しかし、超越者である神はどこまで行っても私を忘れることがない。私が信じる限りにおいて。逆に言えば信じる限りにおいて、神は存在すると言ってよいでしょう。聖書の神は、信仰においてのみ、存在するのであり、だれも信仰する者がなければ神も存在しない。神は忘れられていくのです。
アブラハムの信仰から聖書の信仰は始まったとされます。もちろん聖書にはノアも出てきます。しかしノアはいまだ一人の個人ではありません。彼の年齢を見ればわかります。ノアが600歳を超えているということ、これはノア族というべき大きな集団の時代というべきで、その証拠にセム、ハム、ヤペトという子供たちは、それぞれ中東、ギリシア、エジプトの大枠をなす民族名です。ひとりの人間としての信仰者、人生を旅と共に過ごしたアブラハムこそ、真の意味で「信」の始まりに位置していると言えるのです。彼の信じた神は、その旅路の中で様々な地域の神々と重なり合っていきますが、いずれもその地域の最高神のようなものです。いわば神仏習合のような、あるいは本地垂迹というべき考え方ですが、こうしたある種のこじつけのようなものは後から付け加えて王国支配の正統性を裏付けようとしたにすぎません。根本的なことはやはり、カルデアのウルから旅を始めたアブラハムが出会った、そして信じた神にあるのです。その信こそ、聖書の出発点であり、同時に私たちの信と重なるものなのです。その啓示が今なお有効であることに、わたしは改めて驚きと喜びを禁じ得ないのです。