砧教会説教2016年5月29日
「イエスは人々を敵対させたのか」
マタイによる福音書10章34~42節
キリスト教の持つある種の危うさは、今日の言葉の前半と、もう一つイエスの宮清めの行動(神殿広場での狼藉)から由来するのではないだろうか。
宮清めの行動は過激である。神殿の鳩売りや両替商の店を壊し、叫ぶ姿は、理屈はあるにせよ、周囲を恐れさせたか、激しい怒りを呼び起こしたであろう。他方、今日の言葉は行動の記事ではなく、弟子たちに向けた教えの一つである。10章は選ばれた12人の弟子たちに対する心構えを教える場面であるが、その最後のイエスの言葉である。
まず「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(34節)と語る。すでにイエスは自分が特別な役割をになって「来た」という。「来た」とは別な場所から移動してきたことを暗示する。つまり、イエスは神の指示を受けて神のもとから来た、イザヤ的な表彰を用いれば天上の議会で神の要請を受けて、地上世界に派遣されてきたと言った感じだろうか。イエスは預言者的な意識の中にいる。そして彼の役割は平和をもたらすことではなく、剣、すなわち戦争や争いをもたらすためであるという。非常に物騒な発言であるが、その具体的な姿は、家族内での不和ということにある。すなわち「人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。こうして自分の家族の者が敵となる」(35―36節)。この個所はミカ書7章6節の引用であるが、ミカの預言は深刻なものであった。アッシリアの支配を背景に、ユダの中に「主の慈しみに生きる者」は滅んでしまったという。だから「隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。おまえの懐に眠る女にもお前の口の扉を守れ」(ミカ7章5節)と命じ、その後イエスが引用した箇所(訳は多少異なる)が続いている。このようなミカ書の文脈を意識して語っているのであれば、「主の慈しみに生きる者」と重ねられた弟子たちは、たとえ家族であっても、この社会全体が腐敗している以上、信頼を置くことはできないということになる。
このようなミカの文脈に合わせるなら、この言葉は一般的な注意として理解することが可能であろう。つまり、家族といえども簡単に信頼してはならないということとして。しかし、次の言葉「わたしより父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない」という言葉を読むと、ミカの文脈とは違うことがわかる。つまり、はっきりとイエスの側に着くこと、あるいはイエスを愛することが家族より優先されるべきであるということである。いや「ふさわしくない」といっていることから、家族を愛する人は私にはいらないということであろう。
もちろん、これは弟子たちに向けた言葉であるから、伝道の使命を果たすには家族は邪魔であるということだろう。つまり、家族社会一般のもつ愛着の力を断念することが求められているのである。したがって、「剣」とはイエスに従うことを決めた弟子たちに起きている家族内での軋轢のようなものを暗示する。だから、イエス運動自体が戦争を起こすためにあるというのではないだろう。(ただし、文脈抜きにこの言葉を用いてキリスト教の持つ社会に対する敵対性をあおることもできるし、キリスト教自体が闘争的になることもありうる。実際、キリスト教の歴史は闘争が多い。)
ところで、家族的な関係を離脱すること、捨てること、これはキリスト教に特徴的と言うわけではない。例えばブッダ自身に最も近いとされる『スッタニパータ』の最初は「サイの角」という表題を持つが、この中で家族的な執着に捕らわれることを悪魔的誘惑ととらえており、修行者はサイの角のように一人孤独で努めなくてはならないことを勧めている。仏教は出家を強調するが、キリスト教も実は同様である。ただ、仏教は「愛」それ自体を執着とみなすので、それを別な対象に向けることは断念する。だから仏陀を「愛する」と言うことはない。これに対してイエスは、愛を自分に向けるよう求めている。ここにおいて、愛の対象が代わるのであり、それゆえ、敵対的となる。つまり家族への愛、家族からの愛、両方とも断念するのであるから、相手にとって不思議でしょうがないだろう。
しかし、ごく普通の感情、情緒を否定するように見えるこの発言も、見方を変えると非常に意味のある言葉にも受け取れる。
私は今、家族への愛着というか普通の情緒を当然肯定されるべきことと見なしたが、果たしてそうだろうか。実際、家族社会の中は険しい関係の場合が多い。とりわけ大家族制であった古代イスラエルにあって、これを営むことは様々な慣習、いや因習によって成り立っていた。そしてそこにはユダヤ特有の律法も加わり、多くの人々は意識するまでもなく束縛されていた。ユダヤの律法、中でも十戒にあるとおり父母を敬う、従うことは絶対であった。そこにはもちろん「愛する」と言うことも含まれている。しかし、それらが非常に大きな重荷であったこともうかがえる。兄弟の間での財産を巡る争い、女性に対する差別や束縛、これらはレビ記や民数記に記された律法を見るとよくわかる。つまり、家父長制と血統主義を前提する社会はどこであれ、家族を自然なものとして営むことは実はかなり大変なのである。その中で、家族への愛を強制されたとき、それはしらずしらず苦痛となり、それによってかえって精神が蝕まれることさえあるだろう。愛することを拒否すれば、共同体から捨てられる可能性があるのだから。
家族に対する愛が当然とされる中で、イエスが公然と家族への愛を捨てるよう求めるのは、弟子たちへの覚悟を求める発言とは違う文脈でとらえるなら、非常にインパクトがあるのではないだろうか。社会は簡単に言えば家族社会が基本ないし底辺をなしている。そこに大きな課題や問題があるとすれば、それを離脱せよ、そして離脱するだけなく、わたしのもとに来て私を愛せよ、そうすれば道は開けるのだ、そのようにイエスは言っているのかもしれない。実際、家族社会で一番割を食うのは女性、それも妻であり嫁であるような立場、あるいはそれを追われたとみられる女性だろう。イエスの周りにそうした女性とみられる人が集まるのは偶然ではなく、必然性があったのだ。
それでも、「息子や娘を愛する者もふさわしくない」というのはやはり言い過ぎであろう。これは簡単に言えば育児の放棄である。仮にこれを実践するなら、そもそも社会自体が成立しない。この言葉を何らかの比喩として理解しうるとしても、言葉そのもの危ういとしか言いようがない。(最終的に神を愛することを一番にせよ、というユダヤ教の核心を言いたいにせよ、である。)
さて、38節-39節を聞くと、これまでの険しい勧告がなぜ必要なのかが、一応わかるようになっている。これまでの険しい勧告は、結局この世と断絶することが確実であるからこそ、なのであった。あなたたちは十字架を負って死ぬのである。だから、この世のしがらみを捨てよ、一番大事な家族でさえ、捨てよ、と言うのである。ここで再びブッダの言葉とリンクする。真実を悟る者は目に見える世界、「色」の世界をいったん離脱するのである。その先に真実がある。仏教はそこをいったん目指す。同様に、キリスト教も、いやイエスも、そのような志を持っているかのようである。
しかし、正確には違う。仏教は一人歩めばそれでよい。しかし、キリスト教は「十字架を負う」のである。つまり、彼らの命は自らの意思でまっとうされるのではなく、他者によって支配される、人間によって支配されるのである。十字架とは自分と社会とのつながりを明らかにすると同時に、それ自体が断絶、つまり死ないし終わりを象徴する。十字架の死とは単なる死ではなく、人間によって、社会によって強いられる死である。しかし、キリスト教はそのような死を越えようとする。それが39節の言葉に重層的に表現される。すなわち「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」ここでは「命」は二重の意味を担う。この世の命と天の命。明示されてはいないが、イエスは当然そういっている。このような確言、断言は、読者・聞き手を魅了する。しかし、このような言葉はかえって丁寧に聞かれ、かつ読まれるべきである。すべてを捨てて得られる命とは何か?世界を、家族をすてて得られる命とは何か?
しかし、これはやがてパウロが言うように、それ自体は褒美にすぎない。それは目的ではない。そうではなく、この世にあって働くこと、つまり、この世に神の支配を、すなわち真の神の愛、人間の力による支配ではなく、神の愛による支配を呼び戻すことが目的なのである。それが弟子たちに与えられた課題である。それを抜きに、空想的な永遠の命を得るということが目的なら、単なる独善にすぎず、家族や社会と対決する意味などなくなるのである。なぜ、社会や家族を否定するのか、それは単にそれが神の支配、神の愛、をゆがめてしまっているからだろう。それを乗り越えるのがイエスの来た目的であり、そして残された弟子たちにとっての課題である。
そして最後に、弟子たちが出会う人々の態度に言及する(40-42節)。かつての預言者たちと同様、彼らを受け入れる者もいればそうでない者もいる。「あなたを受け入れる人」はイエスを受け入れているのであり、最終的に神はヤハウェを受け入れているというが、これは弟子たちの権威づけであり、ここまでイエスが言ったのかは定かではない。ただ、やがて托鉢のように町々を巡ることになる弟子たちは、一杯の水でさえ分け与えてくれる人々を確実に大切にしなくてはならない。その一杯の水が実は神の恵みであることに思いをいたせということであろう。
全体として弟子たちに向けられた勧告であるが、十字架を前提としており、かつ宣教活動さえ前提となっているので、はたしてイエスにさかのぼるのかはわからないが(マルコには並行がない)、キリストの弟子であることは一体どういうことなのかを端的に表明している点で、画期的なものである。わたしたちプロテスタント教会は各人が神やイエスと聖書を通して直接つながるという立場であるから、これは弟子たちに語られていると同時に、わたしたち自身に向けて語られているとみてよい。だとすれば、この言葉を一人一人が改めて真剣に受け止め、わたしたちがイエスに、そして神に心を向けることによって、実際にどんな働きをすべきかを考えなくてはなりません。