日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年6月5日
「イエスの軛は本当に負いやすいだろうか?」マタイによる福音書11章20~30節
 イエスは怒っています。たくさんの奇跡を起こしたのに悔い改めない町々があったからです。でも、奇跡が起きたことと悔い改めることが必ずしもつながるわけではありません。それはモーセとファラオの一連のやり取りを見てもそうです。恐ろしい災いを経験しても、一時的にこれは大変だと感じるものの、まもなくその恐ろしさを忘れ、元に戻ってしまう。ファラオはそれを9回も繰り返したのでした。
 つまり、奇跡とか災いとかは一時こころを揺さぶりますが、いつの間にか忘れ去られてしまうのです。最近の日本の例では、2011年3月11日の地震と津波、そして原発事故によって途方もない数の人々が被災しました。特にひどいのは原発事故で、多くの人々が故郷を追われたままで、帰ってこられる可能性は低いままです。先々週の祈祷会では、飯館村出身で産経新聞の記者をしている女性の本を取り上げましたが、全村避難となった村人の実に深刻な現実が丁寧に書かれておりました。放射能汚染の現実と自分の生活の折り合いがつかないまま、日々が過ぎていく中で、生きていくためについに故郷を捨てるという厳しい選択をするほかない人々が大勢います。そのような状況なのに、原発を再起動させ、再びそのエネルギーを利用しようとする政府の姿勢は全く愚かなことであり、かつ非常に危険なことなのです。これはファラオのお話しとまったく同じです。ヘブライ人の奴隷を解放すると言いながら、何度もそれを反故にする。先週の安倍首相もそうでした。2年前の確言、約束を反故にしている。それなのに、責任取るどころか、居直って「新しい決断」などとうそぶいています。言葉がこれほど軽い首相を見たことがありません。アベノミクスに失敗したなら、潔く辞職すべきなのに、しない。かつての、中選挙区時代の自民党なら内部での浄化作用がまだありましたが、小選挙区・比例代表並立制度のため、選挙がすべて、金がすべて、負けたら終わり、なので首相の権限に逆らうことができないのです。
 このように、たとえ奇跡や災いを見たとしても、そのことによって悔い改める(生きる向きを変える)ということは簡単ではないのです。
 ところで、なぜこの個所では、いくつかの町がイエスによって非難されるような悔い改めない町になっているのでしょうか。理由は簡単で、これらの町が事実上ヘロデ王家の権力によって支配された町だからです。コラジンについはよくわかりませんが、ベトサイダはヘロデ王の息子フィリポが建てたガリラヤ湖畔の町で、ローマ皇帝アウグストゥスの娘ユリアスにちなんで、ベトサイダ・ユリアスなどと呼ばれていたそうです。つまり、ここは非常にヘレニズム的な町でした。同時にそこはペトロやアンデレ、フィリポの故郷であるとも言われます。漁師の一部はイエスの弟子になりましたが、町全体はとてもイエスや弟子たちを受け入れるような場所ではなかったのでしょう。同じように、カファルナウムもローマ帝国の支配の要衝でした。そこには税関があり、ローマ軍が駐屯していたと言われます。非常に栄えていたのでしょう。そのような町で悔い改めを叫んでも、「あの変り者め、いったい何を叫んでいるのだ」といった反応だったに違いありません。そこはローマの息が強くかかった町なのです。
 イエスはこれらの町を非常に厳しく呪っています。かつて旧約の預言者たちは、近隣の国々に滅びの預言をたくさん語りました。「諸国民への託宣集」がイザヤ書はじめ主な預言書にまとめられています。とりわけ有名なのがエゼキエル書26―28章のティルスへの託宣でしょう。イエスもここでシドンとならんでティルスを引き合いに出しています。ただし、イエスはかつてのシドンやティルスの方が、コラジンやベトサイダよりまだましである、と言っています。さらにカファルナウムに至ってはソドムの方がまだよい、とまで言っています。相当な悪口ですね。イエスはやはり若かったと思える発言です。
 このような非難と呪いの言葉の後で、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした」(25-26節)と語ります。この言葉は前の呪いの言葉とうまくつながっていないように見えます。「これらのこと」とは何のことでしょうか。おそらくこれらの町で示したイエスの奇跡の業その他の一例の活動のことでしょう。しかし、これらの活動の意味は理解されなかった。当然です。町の主な人々は悔い改めるなど論外、むしろ私たちは選ばれた、あるいは最も神に祝されていると思っていたのです。なぜなら、彼らはお金も権力もあり豊かであったからです。このことは祝福されていることの証です。イエスの発言や行動など、とるに足らないものでした。だから、反対に、幼子のような者、そうした富や権力の外にいる民衆たち(その代表が弟子のペトロやアンデレといった岸辺の漁師たち)には明らかにわかったのです。自分たちの生きるべき道の方向を変えるべきである、ということが。
 そして、このこと、つまり幼子のような者こそがわたしを理解するということ、このことが神の望むことでした。イエスはそのように自分を半分慰めるかのように、祈りながら語っています。
 その後には、非常に強い確信の言葉を語ります。「すべてのことは父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(27節)。これは一種の決意に近い。なぜなら、イエスははっきりと、伝えるべき者をわけ隔てすると言っているからです。町々に向けていろいろと語ってきたが、そう簡単には変わるはずもない。この時代、父を、つまり神を心の底から信頼するという生き方を見出せる人々は少ない。だから、わたしが伝えようと思う人に伝えよう、わかるだろう人に伝えようということです。
 ここにはわけ隔てをせざるを得ない苦しみがあるはずです。しかし前後関係で言えば、すでにイエス自身が、その町々の多くの人々にとって、部外者、変わり者として、わけ隔てされてしまったのです。そちらが先ですね。だからイエスも、こうなったら私をわかってくれる人を優先するという方向に舵を切ったのでしょう。
 そして、目の前にいる弟子や民衆に向かって、言い始めたのでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(28節)と。イエスにとって父の言葉をわかるのは、そのような人々なのであり、そのような人々に対しては、「わたしは柔和(これは以前お伝えしたように、辛抱強い、しなやかであるというような意味)で謙遜な者」としてふるまう。つまり、町々に対して呪ったり叱ったりしたようなことを、父を理解する人々にすることはありません、ということです。
 しかし、その後にしっかりと条件が付いてきます。すなわち「わたしの軛」です。軛とは家畜の首を二頭一緒につないでまっすぐ進むよう促す器具のことですが、支配や隷属の比喩でもあります。イエスは私の軛を負う方が「安らぎを得る」と言います。これは正確には何と比べているのでしょう。そもそも、28―30節は文脈的にふさわしいかも問題です。 
 文脈はひとまずここでよいと思います。町を叱り、その後、祈り、そして最後に目の前の弟子や民衆に、つまり町々の富と権力ある人々や現状に疑いを持たず、かえってイエスを訝しむ人々とは全く正反対の人々に向かって言っている。彼らにとって、イエスの軛とはあの山上の説教にまとめられた最小限の戒めであろう。それらは最終的に神と隣人を信じ、慈しむということに尽きます。逆に言えばそれ以外の関心など、あるいはそれ以外の利害など、あってもなくても構わないのです。
 イエスの軛とは非常に優しいものであり、荷も軽いと言われていますが、もう少し言えば、世の中の利害、権力支配、宗教的な縛り、世間の縛りなどから出て、こちらの方に来てしまいなさい、と言うことです。もちろん、このことには勇気がいることでもあります。今の時代は、キリスト教は体制的なので、かえって敷居が高いのですが、むろん当時は全く胡散臭い集団だったはずです。しかし、こちらの方が自由である、とはっきり気付く人もいた。そしてその人こそがイエスの周りに集まっていったのです。
 イエスの軛は本当に負いやすいでしょうか。私はそう思います。もちろん、それは「軛」であるという点で、つらいものでもあります。しかし、その軛は、この世の、あの町々の人が縛られていたもの、そしてそれに気づかず、今で十分と思い込み、かつ思い込まされている人々の軛に比べたら、はるかに自由な、というより、自由以外を軛にするな、というべき軛なのです。それはかつてのモーセに告げられた十戒の第一の意味と同じです。人を本当に豊かにするのは神の自由を知ること、そしてそのことのみを信じ恐れるということ、そしてそれ以外の軛を外し、捨て去ることなのです。
 今わたしたちはイエスの呼びかけの前に改めて立っています。イエスの軛を、イエスの荷を担う方に本当につくのか。あるいはそちらにいるのかと?もちろんわたしたちはイエスの荷を担ってと信じていますが、そのことを働きによって示さねばなりません。なぜなら軛とは、神の道にまっすぐに進ませる器具の比喩だから。そして荷を運ぶとはその荷が到着することが望まれているのですから。どこへ、かって?それは神の国に向かってです。なにしろ、その荷とは神の国の一部をなすものですから。