日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年6月12日
「預言者エレミヤの信」エレミヤ書17章5~8節
 まもなく一年となろうとしていますが、昨年6月末、福井正治さんの前夜式と告別式で選んだ聖書はエレミヤ書でした。奥様からいただいた、正治さんの好んで読まれていた(と思われる)聖書箇所のメモには、エレミヤ書から数か所あげられており、その中らから選んだのでした。
 前夜式で選んだのは本日の箇所の次の断章、9-10節でした。この個所には人間のこころの病の深さについて言及しておりました。もちろんこの心の病とは、現代言われている具体的な精神的な病状のことではありません。エレミヤが生きた紀元前7世紀末から6世紀前半の、その時代の人間の罪深さといったことです。しかし、この言葉の広がりはもちろん現代を生きる人間に対する感慨と重なるものでもあるでしょう。それは戦前から戦後を生きた福井さんの実感を表現するにふさわしい言葉だったのだろうと想像しました。20世紀の病と紀元前7-6世紀の病はたぶん重なるのです。
 さて、今日は5-8節だけを取り上げました。この個所は前半と後半が対をなしています。まず前半から見てみます。
 「主はこういわれる。呪われよ、人間(アダム)に信頼し(バタハ)、肉なる者を頼みとし(彼の腕〔力を〕を肉に置き)、その心が主を離れ去っている人(ゲベル)は」(5節)。
 このような言葉は、表面的に読んでも意味は伝わってきません。人間を信頼する者は呪われるというなら、わたしたちは普通の生活をおくることができません。むしろ、人間を信頼することから私たちの人生は始まるというのが普通の姿です。しかし、人間を信頼するということを少し掘り下げますと、色々と問題が見えてきます。まず、人間とは何か。ここではアダムという語で、単に人間でもよいですが、土からできた者という見方、つまり崩れていく者、(手近にあるホラデーのエレミヤ書ハンドブックではモータル〔死すべき者〕と訳しておりました)であるということです。としますと、そもそも人間に信頼するということが可能なのかという問題に突き当たるのです。
 わたしたちは普通、親や兄弟、友人、何らかのきちんとした団体の構成員に信頼を置きます。そして信頼を置いたその人は、ひとまず変わらずに同じ人として存在するだろうと考えます。同時に、自分もまた今の自分と同じ自分が明日もいるであろう、という漠然とした確信のもとに生きている。しかし人間は変わります。なにより、年を取る。それゆえ姿かたちも変わると同時に、認識する力も衰える、そしてものの考え方も変わりうる。すると、これまでは信頼できる人だったがそうでなくなる時が来るだろう。人間を信頼することには限界があるということです。人間に信頼するということが可能なのは、互いに変わらないだろうという漠然とした同一性を根拠にするほかない。その同一性への信頼がある限りにおいて、人間同士、信頼が可能であるとひとまず言えるでしょうか。
 しかし、今やそうした同一性への信頼は急速に崩れています。なぜか?そもそもその人の同一性を支えているものが何かを考えてみるとよくわかります。その人の同一性を支えているのは、実は社会関係の安定であるということです。その人が立派な会社に勤めている、公務員である、学校の先生であるなどといった、その人にくっついている属性に見えるものが、実は本質であると多くの人が考えている。だから私たちは学歴や学校歴、社会的地位などを指標にしてその人を信頼する。人間に信頼するというより、その人の社会関係の総体への信用と言うべきかもしれません。
 エレミヤの生きた紀元前7世紀末のもっとも信頼できるものとは何でしょうか。それはひとまず王の権力でしょう。ユダ王国にこれ以上の力の源はありません。次に祭司たち。彼らはイスラエルの伝統、特にモーセの律法を伝え、教えている。言うまでもなく神の権威を担っているのですから、信頼度は極めて高いはずです。そして預言者たち。彼らは直接に神の言葉を取り次ぐことができると主張しているのです。そしてエレミヤもその一人でした。これら社会的に大きな役割を担う人が信頼に値すると思われていたに違いありません。そしてこのことは今も同様です。
 社会関係の総体としての一人の人間に信頼する。これが普通の意味での信頼の内実であると言ってよいでしょう。その信頼には、したがって強弱というか優劣というか、差がある。信頼の程度の問題です。わたしたちはこういうことを表立っては言わないし、そのようなことは憚れることだ、と抑圧しています。しかし、本当のところ、どうでしょうか。なんの裏付けもない、社会的評価もない、そういう人を信頼し、何かを任せ、託すことができるでしょうか。できません。わたしたちはよく、人間として信頼できるという言い方をする際、多くの人はその人の誠実さを評価しますが、そのような誠実さの根拠はたいてい、社会関係の総体を見て言っています。
 だから信頼するというとき、結局自分の利益が失われないと思われる人にしか信頼を置くことはない。 しかし、先ほど述べた通り、人間は予想以上に変化する。したがってリスクは常に付きまとうのです。
ところで、エレミヤの時代、信頼すべき王権や祭司たちはもはや信を置くべきものではなくなっていました。つまり彼らは変わった。少なくともエレミヤから見て変わった。
 それゆえにエレミヤは「人間に信頼することはできない」と言ったのでしょうか。ちょっと違う気がします。たしかにエレミヤの時代、時代が変わりつつありました。それはバビロンの脅威が迫り、ユダ王国が亡国の危機に至ったからです。このことが一番大きい。しかし、エレミヤはそもそも人間に信頼することはできないと言っているようです。もちろん人間は変化するから信頼に値しないという意味もあるかもしれませんが、別な次元のことを言っているような気がいたします。
 それはこういうことです。人間は初めから限界を持っている。もちろん彼らが変化し、死すべき者であるという根源的な事実と関連します。エレミヤの理解は、人間は初めから信頼に値しないということではないかと思われるのです。彼にとって人間とは、そもそも、自分の力で自分を作り出すことはできない。私たちはすべて、理由もなく土から作られた。そして自分たちがなぜここにいるかさえ、実はよくわからないままである。そのようなものにそもそも信頼を置くことはできないということです。それなのに、そのようなあいまいで不安定な人間に信頼を置くのは、たぶん今ある人間たちより、後から生まれてきた者たちでしょう。後から生まれた者は、自分の選んだものではない世界にひとまず生きるほかありません。それゆえ、いわれるままに目の前にいる世代を信頼するほかない。そうでなければ生きることができない、と思い、かつ思わされるのです。
 しかしエレミヤは、王国の危機に際して前の世代が全く信頼できないことが露呈し、必然的に新しい世代がなすすべもなくなる中、そもそもそうした信頼を基にすること自体が無意味であることにはっきりと気が付いたのです。というより、彼が預言者となった時点で、そのことが明らかになったというべきでしょうか。
 つまり、人間の間の信頼は幻である。だとするなら、人間は生きていくことができるのか?
 昨日、私は玉成保育専門学校で一緒になる野村路子さんという作家・編集者が主催する「『アウシュビッツの真実』を伝える展覧会」に行ってきました。アウシュビッツに関する展示会は本当にしばらくぶりの気がします。実は私は20年数年ほど前、ある仲間たちとアウシュビッツ展の企画に参加したことがあります。残念ながら主催者となる中核の人が、自分の売名行為のような展示会をもくろんでいることがわかり、実行委員会は破たんし、企画自体は流れました、というより、こんなことはやってはいけないと思い、つぶしたというのが真実です。まあ、大規模な企画なので、しかも戦後50年に近いころだったので、その方はそのような企画で名を売ることができると思ったのでしょう。嫌な思い出です。今回の企画はアウシュビッツの収容所に消えた15000人の子供たちがひそかに残した絵のパネルと、野村さんが託されたポーランド出身の画家で、アウシュビッツに送られたミェチスワフ・コシチェルニャック(1912-1993年)の残した絵の展示などでした。コシチェルニャックはマクシミリアン・コルベ神父の最後をほぼ見届けた人物で、奇跡的にアウシュビッツを生き延び、解放後も収容所の虐殺と殺戮を伝えるため絵筆をとり続けたのでした。初代のアウシュビッツ博物館館長を務めましたが、過去の記憶に耐えきれず、やがて館長は辞したそうです。
 子供たちや彼の絵を見て思うのは、人間に信頼を寄せることは本質的にできないということと、同時に人間にしか、希望を見いだせないという矛盾です。そこで、私は今日のこの節の「その心が主を離れ去っている人は」という言葉を好意的に解釈しようと思ったのです。つまり、やはり人間に信頼しつつも、しかし同時に、主(ヤハウェ)を離れ去っていない人間は、望みがあるということです。おそらく順序はこうかもしれません。まずヤハウェを忘れないこと、つまり私たちをこの世界に送り出した神ヤハウェに信頼を置くこと。そしてその後に、その神が創造した自分の外にいる他者を信頼する。つまり、人間を信頼することの背後に、その人間を作り出したはずの神を見出すこと。つまり他者を信頼することを通じて神を信頼するということです。神から切り離されて人間を信頼するのではなく、信頼の根っこは神に由来するということ、そして世界の他者はこれもまた神の作品であるということを深く感じ取った瞬間に、希望を託すことが、つまり信頼することが可能になるのではないか。
 エレミヤは、だから、人間に信頼を置くことを呪うのではなく、神を忘れて人間を信頼することを厳しく非難したのです。仮に人間を信頼することをすべて否定するなら、エレミヤは預言を残すこと自体をしなかったはずです。しかし彼は残した。エレミヤは嘆きとともに、希望を捨てることがない。
 21世紀の人間は19世紀末から20世紀後半までの巨大な負の遺産を背負っています。そしてそれは人間に信頼することだけに明け暮れた結果とみることもできるかもしれません。そのような巨大な遺産を前に、多くの人々がひるんでいるようにも見えますが、聖書の神に信を置く人はそれを超えることができるのです。エレミヤはだから、対照的な7-8節を加えています。これは詩編1編を思い起こさせるものです。ヤハウェへの信を先に置く人がみずみずしい樹木としてイメージされています。この樹木のような人間を、私たちは人間として信頼するということもできる。つまり、命の神ヤハウェに信を置く人は信頼に足るということです。
 こうして人間に信頼する可能性も見えてきます。しかしそれは人間を通して神を信じること、それは神を信じる人間を信じるということと、神が作った人間であるから、その限りで人間を最後は信じるほかないという背理法的信頼の二つがあるといえるかもしれません。いずれにせよ、私たちは希望を互いに託しあえる共同体を形成していますが、そこにはエレミヤが苦難の中で行き着いたヤハウェへの信頼を最初に置くことから始まっているのです。そのことを改めて確認したいと思います。