砧教会説教2016年6月19日
「真に優先されるべきものは何か」
マタイによる福音書12章1-14節
安息日の意味は実ははっきりしません。十戒には第四戒として出てきますが、なぜ安息するのかについては明確には書かれていません。この戒めの根拠は、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出20章11節)という一節にあるとみなされています。つまり神の天地創造とその完了という創世記1章の伝承と繋げられ、神が七日目に休んだのだから、それに倣って休まなければならないのです。これは六日間の創造の業と翌日の1日を合わせて1週間とし、最後の一日を安息日にしたということですが、天地創造が六日間であることと1日休むということを意図的に1週間に割り振った結果にすぎません。つまり、7日間というサイクルは、創造物語以前からあったと思われます。とすると、神が休んだから1週間に一日休みにするという決まりが意味を持つのは、創造の話とは別に、特別な理由が本当はあるはずです。
これに関して、申命記にもう一度出てくる十戒(申命記5章6-21節)の第四戒には先に見た出エジプト記の解説とは違って、次のようにあります「そうすれば(仕事をやすめば)、あなたの男女の奴隷もあなたがたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたがたを導き出されたことを思い出さねばならない。そのために安息日を守るよう命じたのである」(申命記5章14節後半―15節)。このテキストには安息日を制定し守る理由が、自分と同じように奴隷を休ませるためなのだということが明確に挙げられています。それは自分たちが奴隷であったことに繋げられています。つまり、安息とはまず、使われている者、奴隷にとっての休息であるということです。もし、お前たちが主人であるなら、週に一度は休まなければならない、そう率先しないなら、奴隷たちは休むことができない。休むのは自分のためではなく、自分の下にいる者たちのためである、と言うわけです。よく考えれば当然です。主人は自由ですから休みたければ休めばよいし、休まなくても良い。しかし、下の者は主人が休んでも休むわけにはいかない、なぜなら彼らは自由ではないから。しかし旧約の考えは「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の中に寄留する人々も同様である」(出20章10節、申5章14節)と、きわめて厳密に安息を課すことによって、主人の判断に拠らず、すべての働くものが休みを得られるように決めたのである。
このことは画期的なことと言わなくてはなりません。多くの人は実は今日のイエスの話を聞いて、漠然と、その通りだ、安息日で人を縛るなんて本末転倒であるなどと思ってしまいますが、それはまったく誤った理解なのです。安息日が厳密なのは、主人の側の利益ではなく、奴隷の側の、使われている側の利益なのです。そのことをよく考えずに、休みは自分のためにあるのだから、外から決められてほしくないというのは、そもそも休みがない人々にとってはのんき話にすぎません。そして、ほとんどの人は誰かに従属しているのですから、その人が休めと言わない限り、休むことなどできないのです。それが全世界の人間の歴史の現実です。 しかし、ユダヤ教はそれを突破した。奴隷も主人も休みだ。寄留者も休みだ。家畜も、だ。彼らはすべて神の創造物なのだから、最終的には権利は同じであるということです。創造された者は平等であるというのが、ユダヤの教えの根幹にあるのです。権力を持ついかなる人も、本来神に従属する。したがって、神の名によって休むことが命じられたことを受け入れることによって、すべての被造物は休むことができる。要するに、安息日とは休みがない人にとっての、つまり奴隷たちの、そしてそれ以外の自然的世界の被造物の権利として決められたと言えるでしょう。これは非常に驚くべきことです。実は十戒に対応する実定法である契約の書(出20章22節―24章)の安息日に関する箇所ではこう書かれています。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復すためである」(出23章12節)。ここには安息日の意味付けが非常にはっきり出ています。あなたが休むのは使用人たちや寄留者が元気を回復するためであるというのです。とくに興味深いのは「女奴隷の子」への言及です。母が奴隷として仕事をしている限り、彼女の子どもは放置される可能性が高いのでしょう、だからこそ、女奴隷の子という最も弱い立場への配慮がわざわざ入れてあるのです。
安息日の律法を簡単に拒否することは、実は自分たちの首を絞めることになりかねないのです。事実日本ではいつの間にか働き方の自由とかいって、働く人々、つまり使われている人々の権利はあっという間に失われてしまいました。あたかも自分が主人であるかのように錯覚させられて、働かされ続けている。私のような仕事や芸術家などはいわば好きで(いや、召されて)やっているという面が強いので良いのですが、ほとんどの人はそうではないのです。このことはさらに、人間だけでなく、自然的世界に対してもきちんと適用しなければなりません。ひたすら木を切り倒し、生物の多様性を損ない、砂漠化を進めることは、最終的に私たち自身に災いをもたらすのは明らかなのです。
古代イスラエルの人々は実際にこの辺りまで見通して、この安息日の律法を守り続けていたと私は考えています。
しかし、イエスはこの安息日の律法に盾突いたのです。安息日に麦の穂を摘むとか、後半では安息日に病気を治すなどの行為(仕事)をした。これらはファリサイ派の人から見れば、言語道断である。前半の話では、イエスはダビデの行為(サム上21章1-7節)、空腹のダビデの一団が祭壇にあった聖別されたパンを食べたことを引き合いに出すが、これはやや文脈違いの観があります。さらに加えたのが、そもそも祭司自身は安息日に仕事をしているではないか、というやや屁理屈めいた論法です。つまり祭司とは、安息日律法の上位にいるということです。イエスはこれを転用して、「神殿よりも偉大なものがここにある」(12章6節)と言って、自分たちの行っていることが祭司の権威よりさらに上にあることを主張して、安息日違反を一蹴しているのです。もちろんこれは非常に勝手な言い分に見えます。では、神殿より偉大なものがここにあるとはいったい何を言っているのでしょうか。おそらく、イエス自身のことというより、安息日とは命を守ることであるという根本的な動機自体を暗に指していると言ってよいでしょう。そのことをさらにホセア書6章6節「わたしが求めるものは憐みであって、いけにえではない」を引用して、暗示するのです。ここでの「憐れみ」とは命を守るということなのです。
しかし最後の言葉「人の子は安息日の主なのである」という語によって、弟子たちも含むわたしたちの権威ははるかに高いのだという主張に代わります。つまり、安息日の本質に関係するのではなく、その権威がどこに由来するかの問題にすり替わっています。要するに伝統的なユダヤ教の権威を否定したということです。
弟子たちが空腹であったから安息日に麦の穂を摘んで食べたということに対しての反論としては、いささか荒っぽく、しっくりこない話です。
安息日論争の話は元来マルコ伝がもとだと思われますが、マルコ伝では正確にイエスの言葉が残されています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2章27節)。これは安息日の本質をついています。安息日を厳密に守るのはよろしいことだが、本来安息日は人の命を守るための権利だとすれば、その権利を損なうような守り方は誤りであって、しかるべき例外を設けるべきである、というのが本筋です。
ところで後半の物語を見ますと、問題はイエスが手の萎えた人を癒すことが良いのか悪いのかとうい問題とは別の観点で敵対者が見ていることがわかります。彼らはイエスの癒しの行為に驚いたりしていません。彼らは単にイエスが安息日に仕事をするかしないかだけに注目しているのです。そしてイエスは仕事をした。これは明らかに律法違反です。なぜなら、手の萎えた人を癒すのは翌日でもよいからです。これが緊急事態ならとくに咎められないはずです。しかし、イエスはあえてこのような違反をしたのかもしれません。つまり、イエスはファリサイ派や律法学者、あるいは祭司たちなど、律法を振りかざして、差別や排除を拡大し、律法の名のもとにユダヤ社会を混乱させているいわゆる律法主義的ユダヤ教に対して敢然と挑戦を始めているのです。しかも、当のユダヤの律法を駆使しながらです。
さて、このマタイによって部分的に創作されたとみられるイエスの対決物語から何をわたしたちは読み取れるでしょうか。それは真に優先されるべきものは何かと言うことです。それは「憐れみを行う」ということです。それは安息日自体が本来憐みだからです。憐れみとは、自分がこんなだったらどれほどつらいだろうという思いから生まれる心情です。それがこの厳格な安息日の律法にもなったのです。ですから、それは安息日を超えるものであることは当然です。だから安息日には憐みの行動は良いこととすべきなのです。イエスの言う「人の子は安息日の主である」という発言は、実はイエスのものかどうかわかりませんが、うがってみれば、人の子つまり神のメシアは当然この「憐れみ」を人格したものですから、この発言は正しいといえるのです。この言葉を単にイエスの権威を宣言する言葉として理解するとしたら、まったく不遜なことです。それはむなしい争いになるだけです。
真に優先すべきものとは憐みの行為である。安息日とはその行為の実現の一つであり、非常に重要な掟である。同時に、その由来が忘れられたとき、安息日の権威だけが独り歩きする。イエスはそうした忘却から安息日の本質を取り戻そうとしたのです。したがって、イエスは安息日の破棄や緩和などを求めているのではありません。意味を取り戻そうとしたのです。イエスのこのような姿勢から、わたしたちもまたこの時代において今本当に何を優先したらよいのかをそれぞれが考えなくてはなりません。その際、もちろんこの憐みの対象に、自分自身も含まれていることを忘れてはなりません。自分の痛みを優先せず、自らを大切にすることが欠けては、他者への、外への憐みの行為はたぶん届かないでしょうから。
安息日の物語を通して、わたしたちはいつも自分の忘れていたものに気が付く、そのような気がいたします。