日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年6月26日
「家族でもなく、世間でもなく、国家でもなく」マタイによる福音書12章46~50節
 この個所はイエスの宣教活動の目的をはっきりさせる非常に端的な言葉を記しています。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。単元の最後の句がすべてと言ってよいでしょう。イエスのもとに集まった人々は新しい家族である、と言うことです。そしてイエスの宣教の目的はそれをつくることにあると言えるでしょう。
 ではなぜ、このような活動をすることになったのでしょうか。
 それは簡単なことです。イエスの時代、人々のつながりを新たにつくる必要があったからです。
人間の基本的なつながりは、家族が出発点ですが、それはひとまず血のつながり、つまり母と子の関係が最も基礎にある。そこに父が登場し、やがてそれぞれの側の祖父母が登場する。こうして3世代にわたる家族関係が出来上がるが、祖父母は父系制か母系制かによって、関わりの強さは相当異なるでしょう。古代イスラエルは原則的に父系性なので、つまり父の名によって家族が代表されるので、母の父母は、外に置かれます。
ところで、イエスの家族関係に、以前も述べましたように、父の影が薄く、ほとんど登場しません。この理由は不明ですが、イエスの出自と関係あるのかもしれません。ともかく、イエスには実は母の影響が強い、というか、彼の周りには自身の母のほか、子持ちの女性、病の女性、遊女など、深刻な事情を抱えているとみられる多くの女性が集まっています。これは何を意味するでしょうか。
おそらく、イエスの周りに集まってきた人々は、家族的な関係が壊れているか、それを脱出してきた人々ではないかと言うことです。彼ら彼女らは家族とは別の関係を通して、新しい生き方、というより、深刻な生活、貧困、病、差別といった苦しみから逃れたいと願っていたのです。逆に言えば、家族関係ではそうした苦難を解消するどころか、それ自体がそうした苦しみの元凶であったとみることもできるでしょう。
家族とは一般に自生的、人間が社会をつくるにあたって自然にできてくる共同性であると言われます。そうです。わたしたち一人ひとりは家族を選んで生まれてきたのではなく、気付いてみたらその家族の中にいた、ということであり、知らぬ間に家族の中で、その圧倒的な影響のもとで、自分を形成しているのです。それを逃れることはだれもできません。少なくとも小さいうちは、その関係から逃れることは死を意味するのです。
ところで、その家族の暮らしはどのように維持されるでしょうか。古代イスラエルの理想では、実は家族の前にすでに部族社会があります。ヨシュア記によれば、イスラエルは12の部族の連合体ですが、それぞれに土地が分配されたと言われます。彼らは部族単位で土地を取得し、部族の長老たちが最終的に家族に分配したという順です。家族の暮らしは部族社会の伝統に支配されているということです。そして多少の小家畜を飼育しながら土地を耕作して生きる自営の農民というのが、初期イスラエルの一応の理想の姿でした。しかし、ヨシュアの時代からは遠く1000年以上たったユダヤ・パレスチナ世界がイエスの時代です。すでに世界はヘレニズム都市を中心とし、多様な人々が行き交う非常に流動的な世界になっています。遠くローマから派遣された総督ピラトが最高権力者として君臨し、その下に地元の王家(ヘロデ家)が暴政を行い、神殿には大祭司を中心にした宗教制度があって、民衆の慣習を支配していました。古き部族社会の伝統はもはやありません。牧歌的な世界はとっくの昔に終わっているのです。アッシリアの支配からペルシアの支配、ヘレニズムの帝国、そしてローマ帝国。この変遷の中で、人々の生活は、全体として流動化します。なにしろ、イスラエルとしての国家的独立などはすでに失われて久しく、宗教的な戒律によって、つまり律法主義によって、辛うじてその独立性を維持できていたという感じでしょう。もちろん部族社会の観念は残るとしても、土地所有に基づいて一定の自立性を維持して生きることはもはやできません。支配の網は幾重にも重なり、民衆は自画像を描くことができなかったとみられます。部族社会のもとに家族があったと書きましたが、部族社会が解体すれば、結局家族社会も次第に解体していくでしょう。同時に、職業は細分化され、次第にカースト化していく。つまり差別的秩序が形成されるのです。それは宗教的観念によって整理されるでしょう。ユダヤ教は自分たちを他民族から区別することを厳密にやりますから、勢い、自分たち自身にも厳しく律法を適用することになり、ユダヤ人でありながら、同時にユダヤ人として二流、三流、あるいは罪人としてレッテルを張るようになる。福音書を読んでまいりますと、ユダヤ社会内部の様々な差別に出会いますが、カースト制的なものとしてみれば納得いくものです。しかし、そのような差別的な制度は安定的ではない。なぜなら、そうしたカースト的なものを撤廃し、乗り越えようとするのが、元来のユダヤの精神、出エジプトの精神だからです。それが命の神ヤハウェを信じることの基本的、かつ、最終的な意味と目的なのです。
そのことにもちろんかなりの人が気付いていたに違いありませんが、それをもう一度実現させようとしたのは、ほんのわずかだったでしょう。
さて、このような中で、解体されていった家族と流動化した人々を支えるのは何か。それは「世間」です。世間と言ってもそれは先に述べた通り、カースト化しています。そのなかでどこに自分を位置づけるか、要するに何を生業(なりわい)として生きるのかということが最大の問題です。土地を持たない家族は世間に依存するほかありません。具体的には福音書にはあまり出てきませんが、イエスが大工であったことは知られていますし、ペトロとアンデレなどは漁師です。その他徴税人マタイなど、多様で民衆的、もっと言えばやや周辺的な人々です。彼らも当然、その世間の中に自分を位置づけていたのでした。しかし、その彼らは、そうした「世間」の支配から、結局抜け出すのです。特に弟子たちは世間から本格的に抜け出し、イエスの周りでおそらく共同生活さえ始めたのでした。なぜなら、その世間が彼らにはいたたまれない場所だったからです。
イエスの周りには人々がたくさん集まってきました。そのわけは、イエスの力が立派だからと言うのもありますが、実は家族と世間の支配から抜け出したい、抜け出さざるを得ない人々が潜在的にたくさんいたということです。そしてそのような人々を新しい共同体つくりへと導く圧倒的な言葉と実行力を備えたカリスマ的な人間としてイエスが現れたというのが実際の姿だと思われます。
聖書に戻りますと、イエスが群衆に話しているとき、イエスの母と兄弟がやってきたと言います。そのことを告げに来た人に向かって語ったことが冒頭に書いたことです。つまり、母や兄弟とは肉親のことではなく、天の父の思いを行う者であるということ。イエスにとっては肉親とは地上の血縁関係とは別の次元のことである。これを実際の血縁から離脱する、つまり勘当する、親子の縁を切るといった、法的現実的な意味で理解するのはたぶん誤りです。地上の家族とは別の次元での共同体を新たにつくるということです。さらにくわえて「世間」、というか私たちの普通の言葉で言えば「社会的関係」からも離れることに行き着くでしょう。もちろん実際にはこの世間のしがらみを全面的に捨て去ることはできません。その代り、その「世間」の精神、カースト化した差別にみちた精神を乗り越えるより高い精神性が求められることになるでしょう(言うまでもなく、そのことをまとめたのが5-7章の山上の説教です)。
こうしてイエスの教えを中心として新しい共同体が作られていきます。これは家族や世間といったどちらかと言えば自生的でたいていは抑圧的になる共同体とは一線を画する、相互に平等かつ配慮に満ちた、自由な共同体となりました。それで十分ではないか。なぜやがてイエスは苦難の道を歩むことになるのでしょうか。
それは国家との関係でしょう。もちろんユダヤ国家はありません。もちろんヘロデ王家は存在します。しかしそれ以上に、ローマ帝国の存在が圧倒的でありました。それは遠くにあるのではありません。ものすごく近くにあるのです。それはイエスの暮らしたガリラヤ地方では歴然としていました。ローマの駐屯地があり、軍隊が駐留し、百人隊長もいた。イエスはしかし、こうしたローマの軍人でさえ、差別することはなかったように見えます。それは裏を返せば、イエスはローマの力など恐れてはいなかったということも意味します。恐れていなかったからこそ、わけ隔てせず、百人隊長の手下を癒すのです。つまり、イエスにとって自分の共同体は強大なローマ帝国という国家から自由なのです。
この自由はもちろん、時に危険なものとして映ったに違いない。特にユダヤ社会自体が危険なものとして排除しようとした。それは自分たちが依存するほかないローマ支配にとって危険なものとして、です。やがてイエスは増幅された危険性の宣伝によって、抹殺されていきました。そしてそれは全く不当なことだった。しかし、そのことさえ、新しい共同体を形成する生みの苦しみ、つまり自ら犠牲となって人々を活かし続けるというあまりに大きな「愛」であったと理解されることによって、イエスのまいた種はやがて花開くことになったのです。もちろんそこには復活信仰もひと役買っています。
こうしてイエスの生み出した共同体は、「家族でも、世間でも、国家でもなく」、命の神ヤハウェへの信頼とお互いの慈しみだけによって成り立つ極めて簡素で、かつ力強い、しかも非常に平等で思いやりの深い共同体となったのです。これをわたしたちは今、普通に「教会」と呼んでいますが、この共同体の力はこの世の普通の共同体とは別の次元にありつつも、この世の共同体と拮抗しながら、この世に存在しています。家族でも、世間でも、国家でもなく、教会に集まることを通じて、生きることの本当の豊かさに多くの人々が触れることができ、そして自分らしい人生を生きることができる。その出発点にあるのが、きょうの聖句であると言ってよいでしょう。