砧教会説教2016年7月3日
「私の終わりと世の終わり」
マタイによる福音書13章24~30節、36~43節
新約聖書の考え方は、人は、死んでも終わらないことを前提にしています。死んでも終わらないとは、死んでも魂が残るといった消極的なことだけではありません。死んでも最後の裁きがあり、その後で、裁かれた者たちは天国か、地獄に行くのですが、どちらに行っても、生き続けるのです。つまり、この世での命は終わりになるとしても、命それ自体にとっては区切りにすぎません。
一方、この世の終わりに関してですが、この世の終わりの方も似たようなもので、この世、つまり今ある世はきっと終わるのですが、新しい世界がやってくるのです。つまり、世界は結局続くのです。他方、わたしたちが漠然と考える世の終わりとは、もはやその先がない、「無の世界」、いやこれも語弊があります。世界そのものがない。何もない空間というイメージは間違いで、「点」のようなものかもしれません。わたしたちはそうした世の終わりをイメージしがちですが、初期キリストの人々の感覚はそうではなかったのです。あくまでこの世の終わりと新しい別の世の出現ないし到来を思い、その中で、たとえ死んでも、そこで生きるということを望んだのです。すると、新しい世とは、死んでから裁かれていく天国とどう関係があるのでしょうか。私が思うに、死んでから裁かれて行く天の国は、実はこの世が終わった後やって来る神の国と結局同じものではないかということです。
今日の聖書の話は実はこのような考え方が背景にあるからこそ、意味を持つのです。
良い種をまいても中には毒麦の種も入っている。あるいは良い種をまいたと思っても、そこに毒麦をまく「敵」もいた。小作人はそれをあらかじめ抜いてしまおうというのです。しかし、主人はこう言っています。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。この話の解き明かしが36節以下にありますが、それはひとまず置いて、このたとえ話に耳を傾けましょう。
この話では、毒麦が蒔かれて芽が出、さらに実ったのに、刈り入れ時に至ってないので、それを抜くことをしません。つまり、毒麦は実ることは実るのです。そして、良い麦も実る。この比喩で読み違ってはならない点は、両方とも実っている点です。従って、善いものも悪いものも、両方とも実るのです。結局、この二種類の種が育っていく過程は特に問題とされていないのです。これは何を言おうとしているのでしょうか。この世では結局、悪いものも、善いものも、ともに育つほかない、あるいはともに生きるほかないということでしょうか。
しかしそれは違います。このたとえ話は簡単に見えますが意外に難しい。あるいは問題がある。よく考えてみますと、毒麦であっても実ることに問題はありません。なぜ毒麦が問題かといえば、それを食べるときに問題となる。つまり食べなければいいだけで、それは成長したってかまわない。
しかしその先も考えられています。ただ食べないで放っておけば、それは翌年ものすごく増えてよい麦をきっと駆逐するだろう。だから、食べないで放っておくのではなくて、刈り取りの時、毒麦はすべて焼却処分にする。こうして最終的に毒麦が駆逐されていくのです。
この刈り入れとは世の終わりのこととされていますが、最後の裁きのことで、この時、良いものと悪いものは最終的に分けられる。
この話を聞いて、何を思うでしょうか。私は、この世の終わりまでは悪い者も良い者も同じ世界にいるのだということをしみじみ感じます。それともう一つ、わたしたちが種だとするとそれが成長し、実ったとしても、良い麦であることと悪い麦であることは互いに何の意味もないかもしれないことです。麦か毒麦かは、それを食べる人にとってしか意味をなさないことです。毒であるかどうかは、そこに生えている二種の麦にとって関係のないことです。誰に関係あるかと言えばそれはそれを食べる主人です。譬えの解釈の中では「人の子」とされています。もしこれらの種を私たちにあてはめるなら、わたしたち同士では、毒であるかどうかは意味のあることではないが、わたしたちが「人の子」(キリスト)との関係を中心に考えるなら、やはり良い麦でありたいと願う。なぜなら、悪い麦であったら、最終的には食べてもらえない。それどころか焼かれてしまうから。わたしたちは自分が良い麦でありたいとしても、この世での活動が良いか悪いかは無関係で、自分が初めから良い麦なのかそれとも悪い麦なのかにかかっていることになる。これは一般に予定説と言いますが、これではわたしたちはどうしたらよいか途方に暮れる。このたとえ話では、これを聞いているのは弟子なので、彼らは自分たちが良い麦だと思って聞いているし、今読んでいるわたしたちも自分が良い麦だと思って聞いています。だから、毒麦は外にあると勝手に思っている。しかし、このたとえ話を丁寧に読むと、毒かどうかは自分たちに関係あるのではなく、神に、あるいは「人の子」(キリスト)に関係するのです。つまり神ないし「人の子」の利益です。毒であるかどうかは麦自身にわからないとも言える。つまり、わたしたちが良い麦の側かどうかはわたしたちには本当はわからない。
しかし、それでも、この比喩が意味を持ちうるのは、結局、刈り入れの時の選別に対する恐怖でしょう。この恐怖こそが、この譬えの力の源です。それは死の恐怖ではありません。炉の中で焼かれる恐怖です。これゆえに、わたしたちは自分が良い種であることをどこかで確信したいのです。マタイによる福音書のイエスは、残念ながらこのような子供だましともいえる恐怖で縛ろうとします。しかし、このテキストはその恐怖を乗り越える確実な手段は提示していない。語っている(マタイが描く)イエス自身がすでに「人の子」であり、良い麦を選んでいるはずなので、従っている人々も良い麦だと思っているだけです。では自分をよい麦だと真に確信するためにどうしたらよいのでしょうか?マタイによる福音書は、その確信のために山上の説教をまとめたのでしょう。その中身を実践することが良い麦であることを確信する道であると。もちろんそこまで書いてあるわけではありませんが。
さて、今日の題は「わたしの終わりと世の終わり」といたしましたが、キリスト教では「私の終わり」は、実はないということです。それに対してこの世には終わりがあり、その先の世が始まる。ですからこの世の終わりと私の終わりは重なりません。しかし、この世の終わりとともに終わってしまう人々もいるのです。それが今日のたとえ話です。
さて、このような子供だましのようなお話しが、現代、有効でしょうか。わたしたちは生き物として死んで、塵に戻ることですべて終わったと感じ取ります。他方この世は引き続き続いていく。そして最後はこの地球も太陽に飲み込まれて消えていく。もちろんそのはるか手前で人類は消えるでしょう。これが科学的な見解です。しかしよく考えてみますと、そのような姿を誰も見ることができない。なぜなら見る主体がいないのです。科学的な予想は超越した地点(超越的理性)からの予想にすぎない。しかも世界の存在の、あるいは生きていく人間の存在の意味を語ることもありません。意味は人間がつくるほかありません。わたしたちは、だからこそ、聖書のたとえ話をまともに解釈するほかはない。もちろん聖書に限りませんが、物語を必要とするのです。物語しか、意味を作り出せないからです。そしてキリスト教はその意味を作り出してきた。その一つが今日の話でもありますが、これはいかんせん、独りよがりなお話です。このテキストはやはり、やや独善的ですね。つまり毒麦と良い麦などと、単純に分断しています(これはイエスにさかのぼらないのではないか。マルコにもルカにもない)。
毒麦は焼かれて終わりでしょうか。たぶん違います。本当は毒麦自体が最終的に変わることが必要なのです。なぜなら、聞いているわたしたちさえ、実は毒麦かもしれないからです。実はこの譬えにはその観点もしのばされているかもしれません。毒麦としての私と言う視点を導入することで、このテキストは意味を持ってくる。わたしたちは生きてきた生涯において自分でよいか悪いかを判定できない。たとえ、山上の説教をまじめに生きたとしても、です。それは自己満足にすぎないかもしれない。ならば、どうしたらよいのでしょうか。
キリスト教はもう一つ答えを用意します。ここには出ていませんが、すでに終末の時、世の終わりが始まっていると考えるのです。つまり今私たちが終末を生きているということです。要するに今、裁きが始まっているということ。ならば、それにふさわしい自分のこの世での終わり、そしてその先の救いの道は何であるか、ということに気が付きやすいのです。なぜなら、滅んでいく人やモノが実際に目の前に現れているから。つまり裁きの時とはそうした滅びが目に見えるときなのです。
たとえば原発の破たんは終末の到来と解釈されます。ですからあれを温存する勢力はもちろん完全に毒麦なのです。あるいは今般の極右的な集団の好戦的で野蛮なファシズムの動き、これも毒麦と言って差し支えありません。かつてボンヘファーはいち早くナチスの台頭に警鐘を鳴らしました。それがもとでかれは仕事を干され、最後はヒトラー暗殺計画に加わり、処刑されましたが、少なくとも、自分が良い麦だと思って先があるだろうなどとは思っていない。良い麦である、あるいは良い麦になる、良い麦に変わるために、あきらかな毒麦と対峙する、あるいはそれを無毒化する。そのことによって私の終わりは永遠の命へと続いていくことになる。
キリスト教の根幹はあくまで「求めること」です。それをパウロは「希望」と言いました。わたしたちキリスト教は世の終わりに私の終わりを重ねることはないのです。なぜなら、希望、求めること、を基に置いているゆえに、世の終わりを軽々と超えるのです。「世の終わり」にわたしたちは翻弄されない。安易な外側からの、科学からの中傷や非難などに負けることはない。なぜなら、その科学自体が、永遠の命(超越的な理性の立場)を前提にしているから。つまり、信仰そのものに基づいているのです。 わたしたちはこの世の終わりを超えていく。そして体は土に帰っても、わたしたちキリスト者の(良い麦の)命は続くのです。そのことを信じて、わたしたちはそれぞれ一人一人の今を、勇気をもって生きていくのです。