砧教会説教2016年7月10日
「口から出て来るものが人を汚す」
マタイによる福音書15章1~20節
前半の論争は何やら些細なことが話題になっているように見えます。食事の前に手を洗うかどうか、これはユダヤ教の律法では厳しく守るべきことだったのでしょう。もちろん書かれた律法ではなく、ハラカーつまり口伝の律法だったとみられ、わざわざ「昔の人の言い伝え」と説明されています。モーセの律法は書かれたもののほかに、口伝の律法もあったとされ、それらも含めて最終的に『ミシュナー』に集成されます。結局、言い伝えも最は文書になったわけです。
さて、イエスはこの論争の中で、「昔の人の言い伝え」を「自分たちの言い伝え」と言い換えているように見えます。4節では十戒の「父と母を敬え」と出エジプト記21章17節の「父または母をののしるものは死刑に処せられるべきである」というモーセの律法、すなわち「神の掟」を引用しながら、君たちが神へのささげものをするのだと称すれば、父母への配慮をしなくてよいとしているのは、結局のところ父母を敬っていない、それどころか父母を欺いているのと同じであると非難しているのです。この個所でのやり取りは、マタイによる福音書ではやや不明瞭ですが、マルコによる福音書7章1-23節のほうはよりわかりやすく書いています。おそらく、年取った父母の資産を息子が私物化するための口実のようなものかもしれません。神への供え物をするという言葉が、結果として父母をないがしろにすることになる状況があったのです。
イエスはこうした口実、つまり敬虔を装った背き、背信行為に非常に怒っています。このことを「自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」と非難しています。そしてイザヤ書29章12節を引用します。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている」と。
この言葉は非常に重要です。かつて預言者イザヤは中身のない儀式や犠牲を否定しました。
「お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか、わたしの庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など災いを伴う集いにわたしは耐ええない」(イザヤ書1章11-13節)。
イザヤおよびその同時代の預言者ミカは、犠牲的祭儀という言わば神との取引行為と、ヤハウェ宗教の本質とを分けて考えていたように見えます。彼らはヤハウェ宗教を、犠牲を伴う祭儀的宗教と切り離したかったのでしょう。しかし、そのような革命的な意図は当然簡単には実現しません。それ以降イエス時代にいたるまでユダヤ教は犠牲的宗教性を色濃く残し続けたのです。つまり富と財の蕩尽によって神と取引する原始的な宗教性です。もちろん、それが本気で行われたのならまだよいのですが、動物や財の移動は実際上は商行為であり、世俗的な利害関係にどっぷりつかることになります。後にイエスは神殿の境内で狼藉を働きますが、それは今日の箇所の非難と意味は同じです。要するに自分たちの言い伝えを守って、神をないがしろにしているということです。
その後イエスはややこれまでの文脈とは違うように見える言葉を語ります。「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(11節)と。口に入るもの、外から人間に入るもの、食べ物ですが、それだけでなく神の言葉も含まれています。口から出て来るものとは、もちろん人間の言葉です。人間の言葉が人を汚す、このことは先に話題となった人間の言い伝えも含まれています。自分たちに都合のよいように作った言い伝えで、自分たち以外の人々を縛っていくこと、差別していくこと、貧困に陥れること、これらこそイエスが厳しく批判した律法主義者たちの姿勢です。モーセの律法を過剰に解釈し、条項を重ね、さらに言い伝えのようなものさえ律法に準じたものとして行き、様々なタブーをつくり、民衆を支配すること。しかし、このようなことは別にユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々に限ったことではありません。むしろ今の時代も似たようなものでしょう。労働者派遣法をつくり、自由な働き方ができるといって労働者を分断し、搾取する。沖縄振興といってお金をばらまき、かえって沖縄の人々の自立を阻み、かつ米軍基地の危険を放置する。緊急事態法をつくれば大規模災害に有効だなどと言って、個人の自由を制限する。安全保障関連法によって事実上憲法9条を無力化する。そして再び、安全と称して原発を再稼働する(かつて絶対安全と言っていたのにでたらめだった)。体のよい理屈をこさえて、現実を覆い隠し、民衆を愚弄すること。このようなことは枚挙するにいとまがないほどです。
ちなみに本日は選挙ですが、きちんと口に出してさえいないことが、選挙後には口に出され、それをもとにあれよあれよという間に世の中が変わるかもしれません。口先だけで、人の世を変えることができるのです。
その後イエスはファリサイ派の人々が結局「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人だ」(13-14節)と放言し、捨て置くように言っています。そして「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」(17-20節)と弟子たち語ります。
この解説のような言葉は、前半の論争と一応最後の言葉でつなげています。ただし、自分たちの言い伝えに従うことが神の掟をないがしろにするという問題とは別に、人間の心が生み出す悪いもの、悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口を問題にしています。マタイはどちらかといえば、「自分の言い伝え」の問題より、こちらを強く意識しているように見えます。実際、山上の説教でも、腹を立てるな、姦淫するな、復讐するな、敵を愛せ、人を裁くなといった、人間関係を壊すこと、あるいはより一層悪くすること、そして自分自身を危機に陥れるであろう態度、つまりは言葉、口から出て来るものに対して厳しく警告しています。今日の箇所はこの山上の説教の命令の根拠を再度語っているように見えます。つまり、人間の心の問題です。人間は神との関係を忘れ、自分本位になったとき、その心が言葉を通じて悪となって表れるのでしょう。イエスはそのことに敏感だった。このような悪は実に新たに悪を誘発していく。そのことがこの現代において深刻な問題になっている。それは新聞や電波によるマスメディアの登場からインターネットによる情報化社会の発達にいたるこの100年くらいで劇的に深刻化したように感じます。新聞を通してナショナリズムがあおられる、電波メディアによってそれが音と映像によって激しく増幅される。第二次大戦はこれらが圧倒的に影響を与えたのは確かです。そして今日、自分本位の心はインターネットを通じて一瞬で人々に届いてしまう。日本のネット右翼と呼ばれる人々の広がりはまだ非力かもしれませんが、イスラム国によるインターネットを駆使した勧誘の力はその破壊力において群を抜いている感じがします。つまり、悪意も憎しみも言葉を通じて拡散し、そして増幅されていくのです。
私は言葉の力は最強だと感じています。ペンは武器に勝るといいますが、それは武器さえ操ることができるという意味ではないでしょうか。武器を食い止めうるものかもしれませんが、実際は武器を取ることを促すことに使われているのです。
ペンであれ話された言葉であれ、それが武器を取らせない力となるためには、その言葉の由来が最終的に問題でしょう。イエスは口から出て来るものが人を汚すと言いますが、それは人間の心から出て来るとしています。とすれば、人間の心を変えるほかはありません。
今日の物語ではその解決策は考えられていません。やや捨て台詞の感があります。しかしイエスは当然わかっていました。それは「人間の言い伝え」という言葉にやはり示されています。つまり、人間の都合で、あるいは一部の権力を持った人の都合で、自分や一部の人だけが良い思いをするような、あるいはほかの人々が苦しむような言葉の支配こそが一番の問題だということです。
問題は、本当に「人間の言い伝え」なのか「神の掟」なのか、の区別です。この区別は難しいのでしょうか。いや実は簡単なのです。なぜなら、発せられた言葉が悪いかどうかは、本来、すでに発せられた瞬間に、そして聞かれた瞬間に、「悪い」かどうかは実はわかってしまうはずだから。というのも、一人の人間は、人間である限りにおいて、神が創造した器であり、そこには神の霊がすでに働いていて、判断することができるからです。だから、口にした人間も、本当は悪であることを知っているはずなのです。ではなぜ、悪がはびこるか?自分が神の器であり、霊の器であることをいつの間にか忘れるからです。そしていつの間にか、器ではなく、自分が神であるかのように思ってしまうのです。イエスはそのことの危うさに気づかせるために、命を賭けたのだといえるかもしれません。その命がけの業の上に、今日の教会がある。そしてわたしたちはその業を通して人々の間に平和を保つことができることを知っている。それゆえ、口から出て来るものに汚されることがない、それどころかその汚れを清くすることもできるはずです。
わたしたちは口から出た汚れを浄化する力を今こそ発揮すべき時です。おりしも今日は選挙の日です。けがれた言葉が多い中で、それに惑わされることなく、神の霊の器としてふさわしい判断がなされるよう期待するものです。