日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

HOME  砧教会について  牧師紹介  集会案内  説教集  アクセス


砧教会説教2016年7月17日
「求め続ける一人の女性」マタイによる福音書15章21~28節
 この話を読むたび、イエスは元来ユダヤ教の内側で、ユダヤ人のために活動していたと考えてしまう。しかし、よく見るとそうでもない気がしてくる。なぜなら、冒頭、「そこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」とあるが、わざわざ地中海側の港町に行っているが、その地域は、そこにユダヤ人がいたとはいえ、実際にはフェニキア、つまり異国の町である。ただ、この話がどこまで事実を反映しているのかはわからない。このイエスの旅は、列王記上17章の、干ばつの際、シドン地方に赴いたエリヤを重ねているように見えるからだ。すでに指摘したことだが、イエスの物語はエリヤ・エリシャ伝の主題を重ねているので、いろいろと考えてしまう。しかし、実際のイエスの姿がエリヤと重なる面があったからこそ話もそうなっただけなのかもしれない。イエスは大方ガリラヤ地方で活動したとすれば、フェニキアはすぐ西の地域である。人々の様々な交流があったに違いなく、その中にイエスもいたのであろう。
 さて、ここでイエスが出会うのは「この地に生まれたカナンの女」である。なぜわざわざカナンの女と呼ぶのだろうか。カナンという語は本来、古代イスラエルが征服する以前のパレスチナを指し、カナン人はその地域の民の総称であった。この文脈だとフェニキア人というのが正しい気がするが、カナン人と呼ばれている。おそらくユダヤ人と対照させるために、マタイは異邦人の総称として、差別的響きのある古来の言葉にしたのかもしれない。念のため添えておくと、マルコ伝ではより詳しく、この女性が「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」(マルコ7章25節)と書かれている。つまり、マタイはこの女性の素性をマルコより簡略にして、よりはっきりユダヤとカナンというわかりやすい構図の話に変えたのだろう。後の流れにおいても、よりわかりやすくしている点がある。
 さて、この異邦の一人の女性が「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだとある。ただならない場面である。この女性はイエスをダビデの子と呼んで、そのメシア的性格をわざと強調し、イエスに媚びているかのようである。異邦の女性がダビデの子と呼ぶのは異常であるが、これはマタイの明らかな脚色だろう。
 この女性の懇願は聞こえたはずなのに、「イエスは何もお答えにならなかった」とある。つまりイエスはこの異邦の女性の声を無視した。マルコの平行記事ではこのようなイエスの態度は記されていない。むしろすぐに応答している。マタイではイエスの冷たい態度を強調している。このようなイエスの態度に接しても、この女性は怯まない。弟子たちはうんざりしたようすで、イエスに向かってこの女性を追い払うよう願う。自分たちで追い払えばよいのにそうしない。もちろんこの弟子の言葉はイエスをこの話の中心に据えたいがための、新たな展開に向けた流れを作る文である。するとイエスは言った。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)。イエスの活動はイスラエルの人々の中で迷い苦しんでいる人々のためだと言っている。イエスは実際自分の国のことが問題であって、それを超えて何かを行うことは念頭にないかのようである。
 このようなイエスのあしらいに接したにもかかわらず、この女性はイエスの前にひれ伏して、さらに言葉を継いでいく。「主よ、どうかお助けください」(24節)。するとイエスは、「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない」とにべもない。要するにカナン人のお前に分け与えるべき救いの力は持っていない、異邦人を救うつもりはないというたとえを語った。
 このような差別的な言葉を聞いたのにもかかわらず、この女性はこのイエスの言葉に応答する形で、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言った。この言葉に感心したイエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と語り、同時に娘の悪霊憑きは解かれたという。
 さて、これは自らを子犬になぞらえ、主人に忠実な者として主張することが、結果として救いをもたらしたという話である。たとえ異邦人であっても、ダビデの子に忠実であれば、救いを与えられるということだろう。単に謙虚な態度で臨めば異邦人でも救われるというのではない。むしろ、積極的に忠誠を誓うことが肝要である。
 この物語はマルコの話を脚色しているが、最終的には「あなたの信仰」が救ったという説明である。つまりこの女の熱意を信仰の篤さに置き換えるのである。しかしわたしは、この女の熱意にあふれた行動をイエスのいう「求めなさい」という命令の実行であると考える。
 イエスは「求めよ、そうすれば与えられる」といい。多くの人間を前向きしていく。もちろん信仰といってもよいが、ここでは「求めること」と言い換えよう。今日の話では、この女性は再三求めている。最初は憐れみを求め、叫ぶ。さらに助けを求める。そして最後イエスのことばに鋭く反応する。このような女の姿勢は「求めなさい」真に実践している姿である。
 この物語の主題はもちろん癒しの奇跡を語ろうとしているのではなく、癒しに向けてイエスに向かうこと、つまり求め続けている女性を描く。イエスの言葉を知ってか知らずか、実践しているのだ。他方で、この求め続ける一人の女性によって、自分の狭さにおそらく気が付いたに違いないイエスがいる。イエスの働きは必ずしも「イスラエルの失われた羊」にだけ向けられているのではない。すべての迷える羊にその力は働く可能性がある。
 ところで、マタイのこの物語では、イエスは最後の言葉で「あなたの信仰は立派だ」と言わせている。マルコにはない。つまり、マタイは信仰の強さによって、この奇跡が引き起こされたとしている。言い換えると、信仰が深く強ければ、その人の由来は関係がないともいえる。イエスは、はじめこの女性を無視したが、マタイのテキストをじっくり考えてみると、イエスが異邦の女であるゆえに無視したのではなく、この女性が本当に心から求めているのかを試したのではないか、とも思えてくる。つまりイエスは最初から差別的などではなかったという可能性もある。ただし、マルコでは、こうした解釈の余地はほとんどない気がする。そしてマルコの方が元来の記事であるとすれば、やはりイエスはこの女性の熱意に、つまり求める力に根負けしたのだということだろう。
 さて、いま私たちはこの一人の異邦の女性のように求めているだろうか。いや、求めるものがないということもあるだろう。しかし、求めるものは自分の望みということだけではなく、自分が助けたいと思う他者のことでもよい。私自身振り返ってみて、求めることをやめていた時期も幾度かある気がする。求めるということをよく考えてみると、このことの意味はおそらく「外に向かって叫ぶ」ということが基本ではないかと思う。そのことができないとき、人間は苦しむ。あるいは病む。もちろんそのような人々は無数にいるに違いない。しかし、その人に代わって「外に向けて叫ぶ」ことはできる。そしてやがて、その苦しんでいる人、病んでいる人が回復に向かうだろう。実際、この物語でも、苦しんでいるのは娘の方であるが、その娘に代わってその母がイエスに叫んでいるのである。おそらく、今、最大の課題は、そのような、代わって叫ぶ人が少なくなっていることではないだろうか。例えば、非正規の労働者の困難は政治にそれ代弁する人がほとんどいない。労働組合が元来、終身雇用時代の「社員」という枠組みで作られているからである。それゆえ、非正規労働者の権利を強化し、待遇を改善することが、自分の不利益となると考えてしまうからである。あるいは働いて子育てする女性。こちらも代弁する人がほとんどいない。政治家はほとんど男だし、女性政治家であれキャリアの高い女性であれ、男性的な心理を内面に形成しているので、たいていの活躍する女性は、そうした弱い立場の働く女性をかえって軟弱なものとみなすだろう。つまり様々な局面で、かなりの人々が、「外に向かって叫ぶ」ことがしにくい時代になっている。今般の参院選で、本質的なことをはっきりと外に向かって叫んだのは私が知る限り三宅洋平さんだけだろう。そして最終的に彼を応援に来たシールズという学生団体も、候補者ではないが、そうだった。窪塚洋介もそうかもしれない。もちろん、いろんな場所でいろんな人々が語っているはずだが、その声はまだ響いてはいない。むしろ、かき消されている感じさえする。ただ、沖縄と福島で現職の閣僚が落選したことは大きなことだった。閣僚が敗れたことは今までに二度しかなく、しかも同時に二人落選するのは前代未聞のことである。この二つの県民の声は、明らかに「外に向かって叫ぶ声」が一部届いた例であるかもしれない。ならば、この声にさらに声を重ねていくべきだろう。というのも、両県の課題は実は日本全体の課題なのだから。米軍基地と原発過酷事故、これらは言うまでもなく「悪霊」に取りつかれた状態といってよい。あの女性の娘は癒されたというが、この悪霊はいまだ憑りついて離れない、それどころか一段とその力を増す気配さえある。
 一人一人の人生の時間は限りがある。だから、その時間を越えてしまう課題に対して「求め続ける」ことは難儀なことだろう。しかし、イエスはそう教えている。求めよと。しかも、そうすれば必ず与えられると。そしてそれはキリスト教の中心でさえある。イエスは、あの女性の求め続ける、叫び続ける姿に驚き、称賛し、それに応えた。そして同時にイエス自身も求め続けた。彼は十字架の死に至るまで求め、叫び続けた。キリスト教倫理の基本の一つは、この叫び求めることを通じて、新たな世界をつくり、違う人生を生きる可能性を信じることから始まるといってよい。
 だとするなら、私たちは今の場所に、とどまってはならない。神の国を最後の目標と定め、そのはるか手前の私たちの時代の、そして私たちの命の課題に、叫び求め続けること。それが肝要である。最後に最近祈祷会で取り上げた、アイヌの人々の語り部の家系に生まれ、植民地化してしまった北海道の滅びゆくアイヌ文化の再興を期して書き、かつ訳し残した知里幸恵さんの、『アイヌ神謡集』の序文を引用して終わりたい。

知里幸惠編訳『アイヌ神謡集』岩波書店、1978年(原著は、知里幸惠編著『アイヌ神謡集』郷土研究社、大正12年8月10日刊行)

その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福なひとだちであったでしょう。
 その陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず、山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮らして蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ、嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。わずかに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの目をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかたず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
 時は絶えず流れる、世は限りなく進展していく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事でございます。
 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い回し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、滅びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。
 アイヌに生まれアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集まって私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙い筆に書き連ねました。
 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほとんど無限の喜び、無上の幸福に存じます。
 大正十一年三月一日
知里幸惠

この序文を書いて半年後、19歳で彼女は天に帰った。ここにもひとり求め続けた一人の女性がいたのです。