日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年7月24日
「負債を免除しなさい」申命記15章1~11節、マタイによる福音書18章21~27節
 申命記は荒れ野の旅の終わり、すなわち土地占領に向けて出発するにあたってモーセが遺言として語った言葉であるとされています。これはモーセの律法の核心であり、同時にこの書はこれまでのイスラエルの旅の回顧でもある。この書はモーセ五書と呼ばれるはじめの五つの書物の最後であると共に、この書に続くヨシュア記から列王記までの歴史記述の序文でもある。これはイスラエルの歴史伝承の要と言って良い書物です。
 さて、この書のちょうど真ん中あたりでしょうか、今日の負債の免除に関する命令が出てきます。なんと出だしは「七年目ごとに負債を免除しなさい」となっています。わずか7年でこれまでの負債は帳消しにせよというのです。これはいったいどういうことだろうか。これでは借り得となってしまい、貸す者がいなくなるのではないか。
 この7年という単位は、レビ記25章では安息年として出てきます。これは土地を休ませ、仮にそこに何か実っても、それは貧しい者のためにとっておかなければならないとされます。これの方が理解はしやすいし、納得もいく。しかし、申命記では7年ごと負債を免除せよとなる。これはそもそも貸すことによって貸し手が利益を得ることができるという考えそれ自体を無意味化しているように見える。私たちはすでにお金を貸したら、利息付きで戻ってくるという観念にとらわれていますが、貸すということは、元来利益を前提しているのであろうか。おそらくそうではない。貸すという行為は、相手を助けるということが元来の目的であるはずだ。貸すというのは、だから援助である。そしてその援助を援助した相手に返すということは、信義の問題としては当然に見えるが、本来なら援助は一方的であっても問題はないはずである。7年目に帳消しにするということは、相手の信義を前提とした命令でなければならない。それが前提である限りにおいて、仮に返せない事情があるなら、帳消しにするということであり、自動的に帳消しになるということではないだろう。援助としての借り入れは、当然借りた人の負い目となる。それを負い目と感じる限りにおいて、共同体の仲間であるという暗黙の了解があると言えるだろう。
 同胞に貸すと言うことは手助け、援助である。だからむやみにそれを基に債権者として振る舞うことは健全なことではない。申命記はそのことを言いたいのだろう。一方、「外国人からは取り立ててもよい」(3節)とあり、信義の範囲の内側と外側を峻別している。このような考え方は箴言にもたびたび出てくる。つまり、同胞にとっては貸すことは手助けだが、外国人にはビジネスである。利息については書かれていないが、おそらく何らかの担保くらいはあったに違いない。このような内と外を分ける思考は、旧約聖書に頻出するが、民族主義というより部族社会の倫理に近いかもしれない。
 4-6節はやや文脈が変わる。4節には「あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」と語り、土地占領が終わり、土地が分与されたなら皆豊かになるのだから、借りることもなくなるだろう。それどころか、多くの国民に貸すようになり、支配するようになるだろうとさえ言う。これは具体的な状況が背後にあるはずだが、よくわからない。金融支配というべき状況が背後にあるのだろう。ただし、これはイスラエルの土地取得の時代や王国時代のことではなく、ディアスポラの時代に至ってから、つまり捕囚期以降だろう。このような露骨な分離主義と差別はその時代を反映するのである。
 最後の段落(7-11節)では、同胞倫理として「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に大きく手を開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」と、非常に懇切に語っている。貸すということは確かに援助である。
 11節では、先に触れた4節の言葉とは真逆で、「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう」という非常に現実的な見解が表明されている。だからこそ、援助としての貸し出しを渋ってはならないという。
 ここまで申命記の記事を見てきたが、これは全体として同胞倫理といって良い。つまり同じ部族内(あるいは部族連合の内部)、あるいはディアスポラの共同体の内部では、「貸す」ということは実際上、贈与に近い援助と見なすということだろう。最後の節では「わたしは命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。豊かな者は惜しんではならないのである。
 しかし、このような、惜しみなく与える、貸す、といったことがなぜ納得いくのだろうか。この問いについては、ここでは明確な答えは見いだせないが、先に触れた4節の「あなたに嗣業として与える土地において、必ず祝福されるから」という言葉がとっかかりとなる。つまり、神は彼らに惜しみなく与えるということである。これは申命記7章において「あなたたちはどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛の故に、(中略)ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(8節)とあるように、解放の出来事、つまり救いの業、あるいは恩寵というべき、最大の贈り物がすでに与えられ、救いが実現したことが裏づけになっているのであろう。さらに土地占領も実現するだろうということも、同じく神の惜しみなく与える心の表れである。
 このような「めぐみ」つまり救いの先行、これについてはキリスト教は原則として受け入れている。もちろん、それは旧約聖書に見られる解放の出来事ではなく、イエス・キリストの出来事によって示された神の救いの業を指している。しかし、イエス自身は、自分の生涯がそのように解釈されることを考えていたわけではないだろう。イエス自身は神の恵みをもっと広くかつ深く信じ、考えていた。そのことを示すテキストはいろいろあるが、今日取り上げたマタイの箇所もそのようなイエスの信をよく示しているテキストである。
 この箇所も借金の話、負債の話である。そして天の国のたとえである。話は簡単で、王とその家来、そして家来の仲間が登場する。家来は王に借金しているが、返せない。王はこどもも妻も、持ち物のすべて売って返済せよと迫ったが、その窮状と懇願に免じてその借金を帳消しにしたという。他方、この家来は仲間の一人に金を貸しており、その人が返せないと知ると、彼を牢に閉じ込めたという。すると別の仲間たちがこのことを王に知らせたのである。当然王は怒り心頭、仲間の窮状を顧みることなく返済を求め、あげくに自由を奪うこの家来を糾弾し、牢役人に引き渡したという。
 もちろんイエスは、申命記に記されたような具体的な借金のことではなく、兄弟の間での「赦し」、つまり和解と平和の根本について語っている。22節では前もって結論というべき命令を語っている。「あなたに言っておく。7回どころか、7の70倍までも赦しなさい」と。つまり負債など繰り返し帳消しにすればよいのだ、ということ。これはもちろん極端な、誇張した言葉であるが、このような寛容と赦しを他でも繰り返している。なぜなのか?なぜイエスはこれほどに赦しや寛容を強調するのだろうか。
 イエスは、旧約の伝統の中にいる。だから先に挙げた申命記の律法も当然知っている。負債を免除すること。同胞に心開いて、惜しみなく与えることを知っている。しかし、申命記に見られる具体的な経済的事情に対する救いという狭い範囲で考えているのではない。むしろ、そしてこのような心の広さを、神の心の広さと重ねている。つまりあらゆる命、あらゆる命の糧、それらは何の見返りもなくあらゆる人々にすでに与えられていること、そして今もなお与えられ続けていること、あるいは貸与されているということ。(それは自然の贈与とみてもよいだろう。イエスは自然の贈与について、農耕の比喩を使いながら繰り返し語っているのはよく知られている。山上の説教の「野の花」「空の鳥」はその白眉といって良い。)このような贈与、あるいは貸与は、神の側から言えば、それは愛である。そして人間の側から言えば「恵」「恩寵」である。この譬えはわかりやすく見えるが、意外に奥が深い。ここで言っている赦しとはあまりに極端なので実際は現実的でないが、赦しを贈与に置き換えれば、人間はすべて、返しきれないほどの贈与あるいは貸与を受けているということなのであり、だからこそそれは究極の負債でもあるが、それを返せとは言わないのである。つまり、赦されているということである。
 だからこそ、イエスは人々の間でも赦しあうことが根本的なことであることを繰り返す。彼は主の祈りにおいてもそうしている。ただし、逆転している。つまり主の祈りでは、私たちが私たちに罪を犯した者を赦すから、神よ私たちの罪を赦してくださいといっている。もちろんイエスは知っている。神は惜しみなく私たちに与えていることを。赦しているのであることを。それでも、人間は傲慢だから、無償で与えられていることを、恩寵とも、赦しとも思わないことの方が多いに決まっている。つまり、いつも私たちは今日の話のあの家来になってしまいがちなのである。だからこそ、主の祈りでは赦しを求める祈りに代える必要があったのだ。
 そして主の祈りの語句はやはり借金である。負い目と訳されているのは借金(おふぇいれーまた)のことである。このような経済的な用語で語る方が、おそらく元来はしっくりいったのだろう。そして赦すという言葉も「帳消しにする」と同じ(あふぇいみ)である。今日の話は、主の祈りのと深く関連しているのである。
 私たちは今、巨大な不均衡の世界に生きている。それは言い尽くされているが、ほんの一部の人間が富みを独占し、その富の巡りの中で多くの人間が、国家が借金漬けになり、事実上奴隷状態にある人や国がたくさんある。もちろん、経済的な仕組みからみれば、借金は資産でもあるから、生かせば良いとも言えるし、そうでなくてはならない。しかし、そのような貸し借りの絶対化の遥か手前に、純粋な贈与があり、恩寵があること、そしていかなる富も本来だれか人間の「所有」ではないこと、したがって、それの所有をもとに人を支配することが本来の姿ではないこと、だからこそ、「負債を免除しなさい」という申命記の命令も、7の70倍赦しなさいというイエスの命令も、そして「負債を帳消しにしますから」という主の祈りの誓いも、いまなお有効であり、その実現を求めて力を尽くす必要があるのである。