日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年7月31日
「世の転換へのあこがれ」ダニエル書7章1~14節
 ダニエル書は黙示文学である。黙示と訳されている語はギリシア語アポカリュプシスで、これは啓示とも訳せる。つまり、神の意思の現れである。ならば啓示と訳せばよいのだが、それは明らかな意思表示ではなく、奇想天外な幻や夢の記述として描かれているので、読んだだけでは意味不明と感じられる。だから、これは黙示、つまり黙って示す、というか、明らかには語らない啓示と見なした。しかし、このような黙示という理解が本当に正しいのかは争われている。田川建三は黙示の持つ何か秘密めいた、奇妙な象徴による表現が、本当にその集団の意図を第三者にわからなくするために書かれたのか、と問う。つまり黙示文学の機能について疑っている。彼によれば、このような表現は迫害から自分たちを守るためにつくられた表現方法ではなく、紀元前後に流行した特有の表現方法であって、必ずしも神秘的で謎めいた表現の持つ、迫害下の抵抗の姿勢を読み取る必要もないのではないかというのである。確かに、黙示と言われるが、奇妙な表現への解釈も本文に含まれているのだから、全体としては謎ではない。つまり、隠したままではないのだから、結局「黙示」ではないことになる。そうすると、これは単に夢や幻とその解釈からなる、ある種の対話的文学作品と見ることができるだろう。黙示文学、黙示録というと、その呼び名から何だか神秘的なので、さらなる解釈をし始め、それを勝手気ままに用いる人々が後に沢山出てくるが、それは本当に勝手な解釈、我田引水、牽強付会と言ったものに過ぎない。もちろん文学的手法に政治的抵抗の意思が含まれているだろう。だとしてもまず理解すべきはこの著者の時代への関心と理解であって、これを自分の(読み手の)考えを正当化する権威として用いることは、すべきでないと思う。
 このダニエル書7章も特に理解が難しいわけではない。今日取り上げた14節までの箇所について、後の15節以下で解説しているので、獣たちが歴代の王国を示すことまでわかる。ただし、どの獣がどの王国を指すのかは確かにはっきりしない。だからその解釈はある程度の自由はある。ただ、バビロンの王ベルシャツァルの治世を背景に書かれているので当然それ以降の帝国や諸王国(あるいは王自身)を示すのは間違いない。つまりペルシア帝国、アレクサンドロスの帝国、その分裂した三つの王国、そしてその中から突出してくる王(たぶん、これはアンティオコス4世エピファネス)だろう。
 一言付け加えたいのは、黙示文学の持つ秘密性ということをはるかに超えて、旧約聖書自体の持つある種の不思議さに関して、である。例えばモーセ五書にせよ、詩編にせよ、預言書にせよ、だれが何のために書いて編集し、それを伝えたのかという基本的問題が実は残るのである。当然ユダヤ教の人びとが自分たちのために残したには違いないが、それにしても著者性はあいまいにしてあるし、時代も非常に幅広く、不明瞭になっている。これは偶然そうなったのでなく(つまり伝承の過程でテキストが壊れた、読み方を忘れた、書写にミスが起こったというのではなく)、意図的にこのような曖昧さを持たせてあると思われる。それは伝承過程の問題だけでなく、編集過程においてそうである。たとえば申命記は荒れ野の旅の回顧であるが、語られている相手は多様である。そしてこの回顧ははるか後の時代のものであることも示唆されているのである。預言書では、預言者の言葉と活動に集中しており、その伝記的側面に関心がほとんどない。もちろん一人称で書かれているものもあるので一概に言えないが。歴史書については、時系列はかなりわかるが、王の治世を基準に書かれているものの、個々の王に関する関心・言及はダビデとソロモンを除けばほとんどない。ダビデ以外で一番大きいのはエリヤ・エリシャ伝である。総じて旧約聖書は、特定の誰かに宛てているというより、より広範な人々に向けられている。と同時に、いつ何時理解ができるかはわからないといった趣である。詩編は嘆きと賛美の集成だが、その嘆きと賛美の背景はわからない。つまり意図的にそうした背景を除き、これを歌う者の嘆きと賛美を重ねるように作られている。これらを歌うことが嘆きや賛美を表現することなのであろう。あるいはこれらの歌が個々の人々の嘆きや賛美を形にしたのである。要するに祭儀的・儀式的なものだが、範例的なものといえる。
 ではダニエル書はどうか。これはその時代を神の視点から、もっと言えば真の救いという視点、あるいは歴史の転換する地点から見ようとした文学であり、終末論を基調とするものである。そしてこのような歴史理解をやや幻想的なイメージを通じて多くの人々が受け入れたのであろう。奇想的描写、幻の描写は、ファンタジーであるが、そこには強い意味が与えられている。本文を見てみよう。
 7章は前半の6章までを受けて、それを黙示的に語りなおしたものである。いきなりベルシャツァル王に戻っており、あらたな断章の始まりを示す。ベルシャツァルはバビロンの最後の王という設定(歴史的には正しくない)である。その治世の元年にダニエルは夢の中で幻を見た。4頭の獣、第一は獅子のようで、翼があるがやがて抜け落ちて、立ち上がり、人間の心が与えられた。第二は熊のようで三本の肋骨をくわえている。第三の獣は豹のようで、翼も頭も四つある。最後のものはとてつもないもので、他の獣でイメージできない。角が十本あったが、さらにもう一本生えてきてこれが卓越した強さを持つ。これらの獣はおそらくバビロン、ペルシア、メディア、アレクサンドロスの帝国とその分裂した三つの帝国(プトレマイオス、アンティゴノス、セレウコスのいずれかであろう。そして最後の獣の11番目の角がおそらくアンティオコス4世)を指すとみられる。歴史はこの凶暴な「角」によって極まるという理解がある。主人公ダニエルにとって、バビロン王ベルシャツァルの時代の夢の中の幻だが、もちろんこの書の著者にとってはすでに民族が経験してきた歴史である。そしてその歴史は下るほど悪くなっていく。そしてその果てにおそらく地上世界の争いを全く乗り越える神的世界の介入があるだろう。これは対話的なのものではなく、一方的なもののように見える。著者は、このよう最終的審判の考え方をどこから仕入れたのだろうか。おそらくすでに広まっていたペルシア的思考・ゾロアスター教の思想であろう。善と悪、光と闇といった二元的対立の果てに最終的な裁きの時が来るという思考は通俗的にも知られていたのであろう。しかもそのような歴史理解が実感として感じ取れる現実があった。それが著者の時代のアンティオコスのエルサレム侵入という出来事である。しかし、このことはダニエル書自身からははっきりわからない。だから本来マカバイ記を読むべきだが、正典には入っていない。それゆえ、ダニエル書は黙示文学、つまり象徴的で謎めいた文学となってしまった面があるのは否めない。だからと言ってそのような特異な文学とみなすわけにもいかない。このテキストはマカバイ記と同時代つまり紀元前140年代のユダヤの危機を描いていると同時に、その克服の道を探っているのだ。
 さて、四つの獣とその尊大な角が現れた後、幻はさらに続く。「なお見ていると、王座が据えられ、「日の老いたる者」がそこに座した」(9節)。おそらくこの「日の老いたる者」が神自身である。バビロン捕囚以前は王座とは契約の箱だったが、もはや現実には失われている(と思われる)。9節のこれは幻に見る王座であるが、もちろんエゼキエルの王座の幻と似たものである。神らしき者は白髪であり永遠の昔にさかのぼるゆえに老人のイメージである。車輪は火のようで、火の川が流れている。その前には多くの人びとが仕えている。この老人は審判者でもあり、ついに裁きのための巻物が繰り広げられた。最後の裁きが始まるのである。神はすべての人間を記録しており、その記録に従って最後の裁きを行う。人間はその生涯をただやみくもに過ごしているようにも見えるが、実は覚えられ、記録されている。これは奇妙とも見えるが、ニヒリズムを克服する思想である。のちのカントはこれを実践理性における「要請として神」として理解したが、簡単なことである。つまり人間は地上の生涯で終わるのではなく、その生涯のはるか先にその生涯の正しさを問われるということだ。
 さて、その間にこの角を持つ獣は殺されてしまったが、他の獣は定めの時まで生かしておかれたという(12節)。やがてその幻の中で「人の子」のような者が天の雲に乗ってやってくる。これは一体何か、天使か、それともメシアか。日の老いたる者の前に彼は来て、権威、威光、王権を受けたという。つまり、この者は「日の老いたる者」の後継者、もしくは代理人である。そして「諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は終わることがない」ように見える幻を見たのである。
 こうして世界は新しい段階に入る。これは時代の転換を夢見ているダニエルを描く著者の希望であり、憧れの世界である。これは本当に困難な中に見出された希望なのだろうか。あまりにファンタジーにすぎないか。「人の子」のような者(メシア?)の権威を本当に諸民族、諸国家が承認するのだろうか。あまりに幼稚な考えではないか。
 しかし、このようなファンタジーもやがて人を支えるようになる。それは歴史に意味を、いやその中に生きた一人一人の人生に意味を与えることになる。なぜなら、これらの獣たちの権力のもとに迫害されても、それを耐えることを通して、新しい世界の命を得ることができるということである。このことをのちにパウロは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」といったが、新しい世界の命こそ、希望の中身であろう。
 本日の箇所ではそのような最終的な段階まで言及してはいないが、ひとまず「人の子」のような者の永遠の支配まで幻に見ている。この後のユダヤ世界がどうなるかは、ダニエル書では結局語られない。そしてその後を知っている私たちは、このダニエルのみた夢の中の幻が現実になることを知っている。そしてその力は今なお私たちの時代にさえ働き続けている。その証明は言うまでもなくここに集まる私たち自身である。私たち自身がダニエルの夢の幻の実現の一部なのである。世の転換への憧れは、その背後に深刻な苦難があるにもかかわらず、あくまで麗しく、栄光にあふれている。そのような麗しさこそが、苦難や悲しみを超えていく原動力となるのだろう。美しいもの、輝くもの、そして永遠を映し出す老人、そして雲に乗る「人の子」のような者、これらのイメージこそ、私たちを前に向かって生かす力となるのである。黙示文学の本質は実は美しさであり、それこそが人を生かすのである。