砧教会説教2016年8月7日
「平和のしくみをつくり出す」
ローマの信徒への手紙1章18~23節
今日は2016年の平和聖日です。日本基督教団と在日大韓基督教会の議長名で平和メッセージが発せられております。資料を用意いたしましたので、ご覧ください。
ここには三つの課題が挙げられ、ともにそれらに取り組むことが宣言されています。一つは「ヘイトスピーチのない平和と共生の社会を」と題され、民族差別、少数者差別、被差別部落への差別などに改めて取り組む決意が表明されています。ヘイトスピーチとカタカナで書くと英語を知らない人にはわからないのですが、相手を人間扱いしないで罵倒する、悪意と憎しみを増幅するために誹謗・中傷する言論です。これまで表現の自由をもとに規制されなかったのでした。ようやくこれは名誉棄損や人格権の侵害として罰するべきとの機運が高まり、具体的に動き始めました。それにしても、排外主義がこれほど高まり、かつ執拗に追及される時代になっていることに注意が必要です。排斥の対象は結局自分たちに都合が悪い者すべてに拡大していくからです。フランスでは信教の自由、いや宗教批判の自由に基づいたムハンマドに対する愚弄に端を発したテロも起こりました(新聞『シャルリ』への攻撃)が、イスラムに対する苛立ち、憎しみは、それと連動しながらユダヤ人排除への動きも進みつつあるのです(エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か』参照)。ヨーロッパではイスラム排除の言論は実はユダヤ人排除の隠れ蓑の可能性さえあるのです。
わが国ではどうか。イスラム世界への偏見はもちろんありますが、それ以上に東アジア世界への差別や偏見、恐れがないまぜとなって、ヘイトスピーチが起こる面もあります。しかし、実際は国内にいる在日韓国朝鮮人への偏見と無理解が出発点の気がします。それと北朝鮮問題、さらにそれを支えている中国共産党への不信。加えてその膨張する中国の恐れ。しかし、他方で日本は観光立国を標榜し、外国人に来てほしい。そして中国をはじめとする東アジア世界の市場への輸出によって生き抜く必要がある。要するに日本も含め世界はひどくいびつな形の相互依存の網にからめとられている。しかしそのことへの正しい認識が多くの人々にはなく、勢い、排外主義と自己愛(日本人はこれだけ優れている、日本にはいいところがたくさんあるなど)。世界との結びつきが強まれば強まるほど、かえって排外的ナショナリズムに陥っていく。これはつながることを恐れているというより、既得権が外の力によって脅かされているという恐怖なのでしょう。
このような動きが実は世界に蔓延しているのが現状です。アメリカではトランプ氏が共和党の大統領候補者になる、EUを脱退する、中国を中心にAIIBがつくられる。そして中東・イスラム世界はISとタリバンがなお力を持ち続けている。私たちはそれぞれ限りある人生を生きているのですが、そうした一人一人の人間がそれぞれの思惑というか、自分の幸福を目指して生きている結果が、実は今の世界の姿なのです。
わたしたちは「ともに生きる」とか「共生」とか言いますが、そのようなあいまいな言葉では本当はだめだと思います。このような表現は、いびつな相互依存関係のなかで共生せざるを得ない現実さえ、肯定するほかないからです。つまりどんな差別や搾取があっても、その人々が生きている限り、共生が果たされているとみなされるからです。そしてそれは奴隷労働さえ肯定される恐れがある。つまりそれぞれが労働契約をしている限りにおいて、合意されたものだからというように。
したがって、この最初の主題に関するメッセージの最後の文にある「平和と共生」はより厳密な表現にすべきだと思う。つまり、「暴力や搾取を伴わない共存に基づいた、相互に自由で尊厳を認めあう平和な世界」というように。
私はイエス・キリストの言葉と働き、つまり宣教の活動は抽象的な平和とか共生を進めているのではなく、非常に具体的で直接的な、同じ目線で生きる関係を作ることだったとみています。それらは初めの三つの福音書にはっきりと出ています。イエスの活動に加わった人、イエスに癒された人、そしてその周囲の人々が新しい共同体をつくっていった。やがて教会となるが、それは教えのための集まりという面と、助け合い、序列をつくらず共生する理想的な集まりだった。もちろん理想的なのであって、やがて現実の社会秩序を反映せざるを得なくなっていく。だから民族や出自、社会的地位、宗教的慣習を尊重しつつも、みながどこかでその一部を断念し、何とか「一致」のようなものを作り上げていった。これが初代教会の歩みであった。この過程は部分的には使徒言行録やパウロの手紙を見ると多少わかるようになっている。つまり、キリスト教はその出発点から初期カトリシズムの成立にいたる3世紀までの間にある種の共存の作法を構築したとみることができる。しかしそれは、実は共存ではなく、排除のシステムを構築したとみるべきかもしれない。つまり、異端と呼ぶ者を排除することによってつくられた教会秩序。したがって、初期のキリスト教の教会がいわゆる平和の構築に貢献したかは疑問もある。むしろ、イエスが望んだのとは別の形、つまり権威に基づく秩序の構築になったといえる。それゆえ、伝統的キリスト教は、先に考えたような相互に自由で尊厳を認めあうような平和ではなく、権威に従属する限りにおいて安心と安全が保障されるというかたちとなり、根本的な平等性の欠如をその基本的性格としてしまった。それでも、その教会の中心にイエスが置かれていることから、常にその原点に回帰しようとの思いはあったに違いない。
さて、話を戻すと、平和や共生とはより厳密かつ具体的に語られるべきことを指摘したが、今回のメッセージでは、あと二つ課題が上がっているので見てみると、第二のそれは原発問題である。原発推進策への抗議、エネルギー政策の転換の呼びかけである。残念ながらここには踏み込んだ働きかけの提案はない。その意思のみである。そして最後は基地の問題である。ここには安全保障関連法への反対の声明も含まれており、全体として非暴力的平和の実現を期すことが表明されている。さらに戦前回帰、憲法改悪への危惧も加えられている。そして沖縄の基地問題。
残念ながら、「基地のない平和で非暴力的な社会を」という一項目にしたことで、このメッセージからは三つの事柄それぞれの持つ重さが伝わらない。安保関連法が東アジアの平和だけでなくイスラム中東世界との関係の影響を及ぼすこと、憲法改正が日本のファシズム化と一体であること、これらの危険性について、もう少し踏み込んだうえで、項目を別途つけて独立させた方がよいだろう。
ともあれ私たちの教団の今年の平和メッセージは課題として担うべきことを挙げているのは確かである(ただ、明らかに一つ欠けているのは格差の問題である。これについては今日はもう触れない)。
さて、今日の聖書はローマ書です。パウロは神を忘れた人間のことを批判しています。彼は非常に極端な表現を使います。人間の不義と不信心に対して神が怒りを天から現すというが、その理由は「神を知りながら、神として崇めることもせず」かえって偶像崇拝にふけっているからです。この断章で大切なことは20節で、「世界がつくられた時か、目に見えない神性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」という箇所です。パウロは人間は元来神の力によって生かされているのであって、神を本来知っているのだと言っています。だから次に、「弁解の余地はありません」というのです。それにもかかわらず人間は本当の神を忘れ、偶像崇拝にふけっている。これはユダヤ教を前提にした批判です。パウロは伝統的なファリサイ派のユダヤ人ですから、異邦人世界の宗教性の問題は良く知っている。それどころか人間世界はほとんど偶像崇拝を基本としていることも知っている。神でない物を神としたい、崇拝する対象がほしい、目に見える形がほしい、これらの希望は普遍的なものです。だから非常に手ごわい。なぜなら多くの人間にとって、そのことのどこが問題なのかわからないからです。
確かにヘレニズム世界は多神教的世界であり、世俗世界であった。なぜそれではよくないのか。パウロはその説明のために、当時の性的放縦についてこの次の断章で語っている。それは自然的な関係を捨てることとして非難されています。しかし、そのようなことは一例にすぎません。パウロは全体として人間化した世界、人間の力がすべてに優る世界、そして人間の一部が最も強力な神となって他の神々や人間を序列化し、差別し抑圧する彼の生きた世界を根源的に否定しようとしたのです。そしてこのような世界に、真の平和、キリストの平和、つまり命の神を忘れた人間たちにもう一度回復の可能性があることを伝えたのです。もちろん多くの人々は「真の平和、キリストの平和」などと言っても意味が分かりません。時はローマの平和なのです。しかし、このローマの平和が、そして偶像あふれる世俗化した宗教世界が、そして人間の一部が最高の神であるとしてつくられた世界の秩序が、嘘であることを強いく意識する人々も実はたくさんいた。偶像に騙されない人も、疑う人も、ユダヤ人だけでなくたくさんいたのです。その人びとに向けてパウロは人間世界の新しい、あるいは回復されたあり方、つまり命の主としての神との関係を取り戻すことを呼びかけた。その手段が「信仰」なのでした。それは偶像への捧げものとか犠牲とか、お金とかを媒介した取引としての宗教ではなく、その人の心が神を発見する、あるいは神とつながる、という直接的な関係の構築です。そしてそのことが皆できるようになれば、結果としてその世界は互いに平和となり、偶像も必要でなくなる。そのような合理的に思われることを言い始めました。しかし、信仰はそれ自体で存在するものではありません。それは応答の行為だから。応答のきっかけとなるのは、人間への恵み、恩寵に気が付くことです。パウロはすでに人間には神の永遠の性質が現れていると言いますが、それは忘却されています。だからもう一度それを想起するきっかけが必要だ。パウロはそれがキリストの十字架と復活であるという奇想天外の論理を構築する。そのことの解説がパウロの手紙ですが、説明がなくてもわかる人にはわかることです。しかし、それでもこの説明は人間を立ち止まらせる力がある。そして自分を神に繋げる道を見出させる。そしてそれが真の平和への礎となる。
平和の仕組みは実は簡単です。自分たちに都合のよい偶像や神々から離れてみること、そしてそこか自由になって、一人になって、自分の命の強さとはかなさに気付くこと、そして自分の力とは別の力に自分を委ねてみること。つまり「信仰」によって各人が自由となるということから始まります。そこから、それぞれの人間が裸で無一物であり、同時にそれぞれが完全に恵みのもとにあること、それゆえに一人一人は互いに自由で尊重されるもの(何しろ自分も相手もその他も、痛み嘆き喜び悲しむ者なのだから)であることに気が付き、ついに互いの尊厳を前提にした平和的な共存が可能となるのです。
パウロの手紙は極端な表現が多いがそれはレトリックなのであり、むしろ主張は難しくない。彼はひたすら、信仰によるこの世の真の平和の可能性と具体的な仕組みを伝え続けたのです。
平和聖日、わたしたちは改めてキリストにある平和をパウロの力を借りながら、かみしめたい、そして次の世代へと平和をつないでまいりたいと思います。そして冒頭取り上げました今年の教団平和メッセージの課題も、より丁寧に担ってまいりたいと思います。