砧教会説教2016年8月14日
「平和をかみしめて生きよう」
詩編34編1~15節
この詩編のような確信に満ちた言葉を、私は語り、あるいは歌うができるだろうか。「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」(1節)とはじまるが、本当に「どのようなときも」賛美できるだろうか。5節では「わたしは主に求め、主は答えてくださった。脅かす者から常に救い出してくださった」とある。この言葉の背後に何が具体的に想定されているのかわからないが、表題を見るとダビデがペリシテの王によって殺される危険にあったとき、ダビデは狂人を装うことで、軍事的指導者として活躍できる人間ではないと欺き、追放されて済んだというサムエル記上21章の故事を念頭に置いている(一部誤解があるが)。もちろんこれは後からつけたものだろう。すると、やはり具体性を欠いたままとなる。
しかし、このような具体的な背景を欠いていることに意味があると思う。「どのようなときも」「脅かす者」「苦難」「辱め」といった言葉に、色々な人々の思いを重ねることができるからだ。以前にもお話ししたが、具体性を欠いた言葉にこそ、かえって人の気持ちを自由にそこに重ねることができる。つまり、自分の苦しみや辱めを静かに重ね、だれに知られることなく、かみしめ、そこからの救いを祈ることができ、またそこから救われたことの感謝を歌うこともできる。
それにしても、「主を恐れる人には何も欠けることがない」(10節)「主に求める人には良いものの欠けることがない」(11節)という確信に満ちた言葉を、いったい誰が語る事が出来たのだろうか。
それはその経験をした人から始まったに違いない。そしてその始まりは、旧約聖書の公式な言い方なら、伝承的にはアブラハムであり、歴史的にはモーセの出来事である。さらに言えば、「貧しい人」という言葉から、飢饉のためエジプトに下ったヤコブの子孫をイメージするだろう。しかし、それはイスラエルの人々にとってのイメージである。これを読んでいる日本の2016年夏の私たちがこの詩編に重ねるものは何だろうか。言うまでもなく、71年前の敗戦の記憶とその伝承だろう。今日はその日、正式にポツダム宣言を受諾した、つまり敗北の日なのであるから。
この詩編は確信もって、主を恐れることの根本的であることを語るが、同時に貧しさについて言及する。貧しい人とは言い換えると最も謙虚な人である。貧しさとは否定的な意味で取ることが普通だが、積極的に見れば、神の前にまったく自由であるという見方も可能である。後のキリスト教はこの貧しさを「聖なること」と見なしていくが、旧約聖書(特に詩編の「アナウィム詩編」)でもおそらくそうなのだろう。
この貧しさを戦争の敗北の後の日本に重ねる。すると、あの敗戦の直後は全く貧しく、しかし同時に底抜けに明るかったと想像する。あらゆることが国家の戦争に動員され、自由は全くない。あらゆることが上からの命令によって有無を言わせずに遂行させられる。このようなあり方が一夜に終わったのだ。
しかし、それまでに重なった苦難に敗北の後のさらなる苦難が重なる日々が始まったのである。そのような時を顧みてなお、「主をたたえる」ことができた人々がいるのだろうか。今日はその例に言及しておきたい。
大阪水上隣保館発行の『水上の友』の今月号の巻頭にはある女性の話が載っている。彼女が隣保館(これは80年前に始まったキリスト教の福祉施設)に来たのは3歳の時。戦災孤児か捨て子であったらしく、まったくの孤独の身であった。しかし隣保館ではバレエを習わせてもらったり、中学を卒業して行き場がなくなってもいろいろと助けられ、やがて保育の学校に行けるようになり、保育士として自立した。その後、身の上も含めすべてを理解してくれた男性と結婚し、「あまりにも幸せすぎて不安になるほどでした」という。施設では何不自由なく育ったが、世間は「孤児」と見下げた。それでも彼女は施設の先生たちの励ましによって卑屈にならずに生きられたと言います。そしてある先生の「無から有を生み出す」という言葉を、「欠点や知識や根性のない自分でも何かができるはずだと思えて来る魔法の言葉」として大切にしたという。生まれたときから孤独にあり、支えるものを欠いていた一人の幼児が、こうして確な幸福を獲得し、喜びをもって自分を振り返ることができたことに接して、私は「主を賛美する」事が確かにできると強く思う。
一方、西中国キリスト教社会事業団の運営する「清鈴園」の会報『清鈴』88号(2016年8月1日)には、池田ミサ子さん(85歳)の被曝体験談が載っている。清鈴園は身寄りのない被爆者の世話をする施設として戦後建てられた。池田さんは爆心地から2キロの広島市南三條町で被爆した。
「今でも思い出す。母は、友人達と一緒に爆心地の近くに乳飲み子をオンブして薪を拾いに行っていった。(略)その日父はもう会社に出ていた。私はすぐ下の妹と留守番していた。服を着替えようと思って、脱ぎよったんよ。
自分が気が付いた時は親も兄妹もいないの。私がぶあっとしてて…これほど情けないのはないね。(略)私は「兄弟の一番上だから、置いて逃げるわけにはいかん。このまま死ぬる」と思ったね。私はけがをしなかったけど一番すぐ下の妹はひどくてね。思い切りやられたの。足から下がぐちゃぐちゃ。すぐ下の妹はどの病院に連れて行っても「ダメ」と言われ、(略)私が看病しよったよ。
ケガはね、火事でも会うでしょ。顔でもどこでもけがをするでしょ。母はえぐり取られたようなけがをして、腐ってしまった。顔を見たとき「もうダメだ」と持った。母親は被爆の時にすぐに亡くなったよ。子どもの名を呼んでね。私に「あんたが一番上じゃけぇ、頼むよ、頼むよ」と何回か言うて果てた。母もまだ若かった。「つらかったろうなあ」と思う。乳飲み子も亡くなった。目をコロンコロンさせてね。(略)お父さんは頭をけがしていたけど、無事だった。
皆泣くだけ泣いたよ。抱きおうてから、気が狂うほど泣いたよ。寂しい…。(略)〔母方の〕おじいさんおばあさんも毎日泣いてたよ。
妹も亡くなった。
お金がなくても、着るもんがなくてもよい。もう、ああゆうのは…。(後略)
池田さんはこのように振り返る。そこには筆舌に尽くしえない痛みと悲しみがあった。その後彼女は会社に勤めて必死に働いたという。そして「今の時代は、日本人としてね「うらやましいな」と思う」という。このうらやましいという言葉は、自分がみじめであることを言いたいのではなく、あの愚かで酷い戦争に巻き込まれていない幸福をちゃんとかみしめてほしいという願いをこめているように思われる。
そして池田さんは今、原爆被爆者を世話することから始まった「清鈴園」のホームにいる。彼女がキリスト教なのかどうかはわからない。しかしこの語りを残すことによって平和の祈りに替えているように私は思うのだ。
私たちは8月6日と9日を原爆の記念日として被害者と追悼するが、71年前の広島、長崎は8月6日と9日という日からまったく違った時間(季節、カイロス)が始まったのであり、その新しいカイロスはまだ完結していない。この時間、この原爆以降の季節は、広島と長崎という場所に特定した季節(カイロス)ではなく、もちろん日本全体にとってのカイロスであり続けている。そして今年の5月27日夕刻にオバマ大統領が広島に来たことによって、アメリカを巻き込むカイロスとなった。これは画期的ではあるが、核兵器を巡る危機は、解消されるどころか、新たに高まっている。それは東アジアにおいて、深刻である。
このような時代にあって、わたしたちは少なくとも70年をこえて、カッコつきではあるがこの国を平和に保ってきた。カッコつきと言ったのは、朝鮮戦争やベトナム戦争において、あるいはイラク戦争において、間接的に関与したことを意味する。それでも、我が国はいまだ直接的には戦争に関与していない。そしてそれを憲法が支えている今の体制がある。私たちはこのことの意味を深く理解しなくてはならない。私たち日本の歴史は、71年前から新しく始まっている。そしてあの敗戦はそれまでの混沌の日本から救われた経験として解釈し直す必要がある。屈辱の敗戦ではなく、ほとんどの民衆にとっての「救い」の時として。つまり、暴力と脅しと洗脳の教育によってつくられた国がいったん滅んだ時として。他方、同時に、核兵器や原発といった制御しえない力が解放された時代の始まりとして記憶されなければならない。救いと解放の時、平和の構築の始まりであると同時に、より大きな危機の始まりとして。このような二重性を帯びた時代をわたしたちは生きてきたし、これからまだしばらく生きていく。ひとりひとりの人生は、自ら選んで時代を生きているのではないし、そんなことは一切不可能である。ならば、各人の関わる時から目をそらすことはできないし、そうしたところで、それはせいぜい頭隠して尻隠さずというのが関の山である。ならば、わたしたちはどのような構えで生きていけばよいのか。その時に思い至るのが、「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」という冒頭の言葉と、「主に求める人は良いものの欠けることがない」、そして「悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」というこの詩編の言葉である。
イスラエルの長い苦難の歴史から紡がれ、かつ、抽象化され、やや儀式化された詩編でありながら、この歌は確かな確信をもって歌われている。そして私たちひとりひとりの苦しみや嘆きに、そして生きる時代の課題や問題に押し流され、つぶされていくことを乗り越えていく生き方を示してくれる。だから、この歌を共に歌う者には、それらの苦しみや嘆きをはるかに超える勇気と力を与えられるであろう。
なぜなら、すでにわたしたちは真に恐るべきものを知っているからである。主を畏れること以外に、もはや畏れるものはない。それは言い換えれば、もはやこの世界に恐るべきものは何一つないということである。
戦後の71年の平和を改めてかみしめるとともに、「主への恐れ」と信仰を自らの生活の基として生きていくことの喜びを味わってほしいと願います。