砧教会説教2016年8月21日
「醒めることなく、命の主のもとで」
テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1章1~10節
このパウロの手紙は彼の手紙のうち、最も古いものとされます。彼の第二回伝道旅行の初めの頃、50年頃とされています。パウロはエルサレム使徒会議の後、アンティオキアで一時教え、やがて第二回伝道旅行に出発する。この間の事情は使徒言行録15章以下に詳しいが、第二回伝道旅行は第一回のそれよりも、はるかに規模が大きいものとなります。シリアや小アジア東部だけでではなく、小アジア西部からマケドニア、ギリシアに至る非常に広い範囲に及ぶのです。
その旅の途中でまず、フィリピで迫害を受け、投獄されます。しかし、投獄されていた牢が地震で崩れたこと、その後、投獄されたこと自体がローマ市民権を持つパウロに対する侮辱であることが認知され、かえってその地の高官が詫びに来るといったことを経て(使徒言行録16章参照)、テサロニケに到達します(使徒言行録17章)。彼らはユダヤ人の会堂、つまりシナゴーグで教え、かつ論争し始めました。そこにはギリシア人もいれば多くの貴婦人たちもおり、パウロの説明に同意し、従ったとされます。しかしユダヤ人たちは「それをねたみ、広場にたむろしていたならず者を何人か抱き込んで暴動をおこし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとした」(17章5節)。ここでも、パウロとシラスは騒動に巻き込まれます。その後そこを脱出して、ペレア、アテネを経て、コリントに行きました。パウロはここに一年半滞在したとされます。おそらくここで今日取り上げたテサロニケの信徒への手紙を書いたのです。
この手紙の背景には、彼がこの間に経験した迫害や騒動の記憶が反映されていることは言うまでもありません。しかし、キリストを受け入れ、その信仰を守る人々への思いはその難儀な過程をはるかに超えるほど強いと言えるでしょう。パウロは、テサロニケの信徒への感謝と希望をこの手紙で語るのです。今日の箇所はその出だしの部分です。
最初の部分は挨拶で、簡潔なものです。キリストに結ばれていることを確認し、恵みと平和を祈ります。とくに平和を祈るというのは単なる社交辞令のようなものではなく、すでにみたように、騒乱や迫害と言った身に危険が迫ってしまうような事態が起こったことを踏まえて、そうした危機や険悪な事態が起こらないようにという現実的な祈りだというべきでしょう。パウロに限らず、キリストを述べ伝えることは、その地に平和どころか、混乱をもたらすことになる場合が多いのでした。つまり、パウロをはじめとする伝道者たちは、平和をもたらすものではなく、争いをもたらす者という見方ができるのです。各地の習俗、宗教、信心といった、人々の生活を縛り、束ね、同時に安定をもたらしているものを、解体し、人生に新たな意味と目的を与える力をキリストの宣教は持っていたからです。
2節では感謝を述べています。テサロニケでは騒動に巻き込まれはしましたが、被害を受けることなく無事に町を出ることができたのでした。3節には次のように書かれています。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。ここには後にはっきりと定式化されていく「信仰」「愛」「希望」という三つの概念がならんで提示されています。しかし、この一文において大切なことは、むしろこの三つの概念に基づいて実際のこの世で生きる態度のことです。つまり、信仰によって「働き」、愛のために「労苦し」、希望をもって「忍耐している」という姿です。働くこと、労苦すること、忍耐すること、これらがテサロニケの信徒の在り方なのです。信仰を持つとか、愛するとか、希望を持つ、ということには常に、それらをもって、それらに基づいて、具体的に行動する、態度を示すということがなければ、大した意味はありません。信仰している、愛している、希望を持っているといっても、本当に世のために働く、隣人のために尽くす、困難や迫害を耐えていくという行動や態度が伴わないのなら、キリスト者として存在する価値がない。パウロはそのように考えている。そしてテサロニケの信徒がそのように行動し、態度で示してくれたことを、パウロは「わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めている」と感謝しています。最初期のギリシアの都市の信徒たちは、おそらく日本の戦国時代のキリシタンや19世紀末のプロテスタントの信徒たちもそうでしょうが、信仰や愛、希望といった言葉を自分の人生の核に据えたとき、その町やその時代の世の中の在り方に対して、新しい生き方を実際に示すことのほかになすことはなかった。それは新しい共同体を立ち上げ、実際に福祉と平和を実現し、かつそれらが失われないよう、将来の絶対的な救済という希望を保ちながら、それによって現実の苦難、つまり妨害や迫害を乗り越えていったのです。ギリシアの都市は、もちろん文明は進んでいますが、そのような世俗の世界の繁栄と、他方にある退廃、頽落といった毒も薬も一緒のような、清さと濁りとが区別ないような、ある意味では自由な、人間的な世界(ヒューマニズム)でした。そしてそれは文明の一つの頂点であった。グレコ・ローマンの世界は、多分私たちが想像するよりはるかに豊かで、自由で、しかし権力は過剰であり、すべて人間化されていたと言えるでしょう。その証拠は、今なおギリシア・ローマの遺産が、現実のイタリアやギリシアを完全に見失わせるほどの魅力をもってかの国々を支えていることから明らかです。
しかし、このようなヒューマニズムの世界にあって、それとは別の次元の人間の存在の仕方を提示したのが、はるか昔の旧約聖書の民であり、それを受け継いでいるユダヤ人でありました。そして今やそのユダヤ人の中から、この世界全体に通用すると思われる新しい教えが生まれたのでした。それがイエス・キリストの福音であり、そこには新しい世界、新しい人間の共同体の姿が示されていたのです。
もちろんその具体的内容は今日の箇所には書かれていません。しかし4節にあるように、キリストの福音を受け入れている者とは、言い換えると「神に愛されている者」ということです。このような確信を持った者こそが、逆に「愛すること」ができるのです。そしてそれがお互いになされたとき、それは教会となったのです。パウロはさらに語ります。「あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」(4節)。こうした発言は注意を要します。選ばれたというのはいつも私たちの心をくすぐるのです。エリートである。権威あるものによって認められたからこそ、選ばれたのである。だから選ばれた者は誇りを持つ。そしてその誇りはやがて周りが承認することによって権威に変わる。権威はやがて権力に変化し、その周囲の者とともに、その外側の者たちを支配するようになる。
パウロはもちろん選びということをユダヤ教から受け継いでいます。したがって、おそらくギリシア・ローマ的なものではない。むしろ、ユダヤ教において選びとは苦難の道を歩むこと、自らを時に迫害される者の位置に据えることために、内容的に申せば、この世の力から解放された人間とは何かを示すために神に選ばれている。そのような意味です。つまり、地上の権威や権力によって人間として偉い者、力ある者として選ばれたというのではない、ということです。そのあたりを間違えると、キリスト教はとんでもない宗教になる。いや実際にこの後しばらくするとそのような間違いをおかすことになる。
さて、このような「選び」に言及したのち、福音をテサロニケに伝えることができたのは「言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」(5節)と語ります。これはもちろんすでにパウロに与えられている神の賜物のことです。その力、聖霊、確信によってテサロニケの人々は周囲の無理解や妨害、迫害にあってなお、「聖霊による喜びをもってみ言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者とな」ったと言われます。
テサロニケの人々は福音を受け入れ、主に倣う者となり、マケドニア州やアカイア州の模範的なキリスト者となったとされますが、その実際の姿は9節後半から10節前半に書かれています。すなわち「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのかを待ち望むようになったか」というパウロの評価からはっきりします。偶像から離れ、生けるまことの神に仕えること、キリストの再臨を待望すること、この二つが挙げられるのです。
偶像から離れることはこの世の権威や力を相対化すること、そしてキリストの再臨とはこの世が最後の裁きを受け、この地上世界が新しくなること、新しい天地が始まることを意味します。
このようなことをまともに信じ始めるほどに、テサロニケの人々のなかには新しい世界と新しい自分の人生を求める人々がいたのです。そのような人々の思い描く世界、新しい世界像、人間像、そして未来像。そうしたものは、一見荒唐無稽にさえ見るものであるが、しかし、このような法外な幻、乗り越えていく希望の力、共同体の愛の力、いわば夢のような世界に信を寄せる「心から酔った人々」がキリスト教の歴史を支えていくのです。このことをわたしたちは真剣に受け取る必要がある。偉大な宗教的伝統はある種の「酔い」のうちに自らを保持し続けているのです。もちろん、このような心酔は、まともなものもあればまったく危険なものもある。そこを見分ける基準がなくてはなりません。本来のキリスト教は、そこははっきりしています。つまり暴力や憎しみに基づく幻を捨てるかどうかという点です。そして、そこだけを基準に、幻を語り続け、未来の救いを信じる、そしてその夢を抱いてこの世を生きていく。「醒めることなく、主のもとで生きる」という今日の題、特に「醒める」という漢字は、やや当惑させるものですが、実際、キリスト教はしたり顔の冷静さの中にあるのではなく、半分夢の中にありながらこの世界の露骨な現実から一歩引いて生きる、つまりは酔いから醒めて、要するにお金がすべて、快楽がすべて、力を持つのがすべてというリアルの世界と一線を画しつつ、違う次元の幸福を常に求める「醒めない」生き方を貫いていくことであると思うのです。
一人一人が持っている平和や幸福な夢、未来の幻を、何を言われようが大切にすること、そこから「醒めずに」生きること、わたしはそれがことのほか重要なことだと最近特に思うのです。