砧教会説教2016年9月11日
「福音を告げ知らせたい」
ローマの信徒への手紙1章8~17節
パウロはまず、ローマにいる信徒たちによってその信仰が全世界に向けて伝えられていることに感謝を表明する。「全世界」というのは大げさな感じであるが、帝国の都ローマで信仰者として礼拝を守っていること、しかもおそらく誰もが知る形で公に活動していることによって、ローマ市に住む人々にキリスト教の存在を主張するということは、すなわち世界的な伝道とみなされたのだろう。それほどにローマの信徒は重要であり、その活動はキリスト教の将来に影響を及ぼしていく。
9節の「御子の福音を述べ伝えながら心から」は意訳で、御子の福音のもとに心から私は神に仕えているという感じだろう。彼は既に存在しているローマ市のキリスト教徒に改めて自分の働きを知らせる。そして訪問する機会が与えられるよう願う(10節)。その際、「霊の賜物を分け与えて、力になりたい」と書く。伝道するための様々な力を「霊の賜物」とまとめているが、これはパウロの持つカリスマ的指導力、弁舌の力、そして様々なギリシア的知恵を含む神学的な論理などが含まれているだろう。パウロは謙虚に書いているが自信に溢れている。いや、自信では語弊がある。謙虚さの先にある、キリストに由来する聖霊に満たされた姿である。さらに、「互いに持っている信仰によって、励ましあいたいのです」と語る。もちろんこれは単に社交辞令ではなく、けなげなローマのキリスト教、時に馬鹿にされ、邪道扱いされているこの新興宗教に帰依した信徒たちと、過激な伝道旅行を続けるパウロとが、真に互いに励まし合うことが必要なのである。それほどに、初代のキリスト教は内にも外にも困難を抱えていたのである。信仰によって励ましあって生きることが真に求められていた。信仰によって励ますということの意味はきわめて重要であろうと思う。単なる励ましは底が知れている。口先だけの、一時しのぎにしかならない「大丈夫、頑張ろう」(これは日本の3.11の時、テレビで流れていた。他方、米国の9.11の時は励ましではなく、怒りと復讐を呼び起こす方向に向かった)は、その人の未来を保証することなどできはしないのだ。それに対して、信仰によって励ますというのは全く違う。信仰とは確かな信頼しうる対象をはっきりと自覚していることであり、これはイメージというか世界像というか、理想的な世界をはっきりと抱くことが含まれている。そしてそれだけでなく、その世界に加わる資格を持っているという確信も同時に持っている。それらの信念ないし確信をもつことによってはじめて真に互いに励ましあうことができる。それは時代を超えて私たちにおいても全く変わらないと思う。「信仰によって励ましあうこと」以上に確かな力はない。
パウロは繰り返しローマ訪問を計画したが頓挫したと語る。それほど、ローマへの情熱がある。そしてこう書く。「わたしはギリシア人にも未開の人にも、知恵ある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」と。これは何を意味するのだろうか。ローマにはまだ福音が到達していないとでもいうのだろうか。信仰があるのに福音がないとは考えにくい。ならばなぜ、このように書いたのか。
それはたぶん、信仰がまだユダヤ教的なものに、つまり選ばれたものであるユダヤ人が優先されることや律法の重要性に力点が置かれていたからだろうと思う。それはのちの文章からおおよそ想像できることだ。ローマの教会は事実上、ユダヤ教からの転向者が多かったのかもしれない。だからこそ、彼自身ユダヤ人でありながら、完全にキリストの出来事を理解した、あるいは伝達しうると確信した立場から、キリストの出来事の持つ圧倒的な勝利の知らせ、すなわち「福音」の真実性を「告げ知らせたい」と書いたのかもしれない。
逆に言えば、そうした福音の重要さはまだローマの信徒には正しく到達していないといえる。それどころか、福音は誤解され、かえってとるに足らないものとさえ考えられていたのかもしれない。だからこそパウロは、続いてこう書いた。「わたしは福音を恥としない」と。この表現の裏には、福音をまともに信じ語ることが恥ずべきことであるという感覚が確かにあったとういことだ。キリストの十字架の死という危険でさえある言説をまともに語ることははばかられることだ。あるいは、その死が復活によって乗り越えられたのだといった言説は、常識からかけはなれた荒唐無稽なものであり、これを宣言することは恥ずべきことだ。このような感覚というか、いや正確に「恐れ」の感覚があったに違いない。なにしろ、自分たちの救い主がローマの死刑なった罪人であるということなのだから。
にもかかわらず、というか、それだからこそというべきか、パウロは「恥としない」と宣言する。その根拠は「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だから」という。もちろんこれだけではよくわからない。福音はユダヤ人、ギリシア人を問わない。つまりヘレニズム世界に住む、つまりは世界に住むすべての人に有効であること、ただし「信じる者」であることが条件であるということだけ言っている。
私たちはこのパウロの言葉を通して、力を得た気がする。しかし、福音の意味が分からないままその力を得た気になっては仕方がない。福音とはキリストの十字架の死の出来事を通して神の正しさが表わされたということ、もっとわかりやすく言えば、十字架のキリストの出来事を通してあらゆる人間が自分の罪を自身で暴き(つまり告白し)、同時にそれがキリストの死を通して滅ぼされた出来事であり、それはその人が救われた、そして最終的に救われるということである。最終的な救いであると同時に、今ここでの救い。それは当時の人間にとっても、そしてその後の時代の人にとっても、そして現代を生きる人々とっても、たぶん同じであろう。このイエスを見ること、十字架の物語を自らの物語として受け止めること、そして彼の周りに集まった人々が自分と重なったとき、私たちはだれもがイエスの救いにあずかるのである。そのような確信を基にすることを、「信仰」と呼ぶ。「福音には神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(17節前半)とあるが、ここでの「神の義」という文句がまずわかりにくい。これは神が人間を創造したがゆえに、最終的に完全なものとする、つまり救いを与える責任を担っているのだということ。わかりやすく言えば、不肖の子供だとしても自分の子である以上、慈しみ支える責任を果たすということ。それを「神の義」とよぶ。要するに神は責任を必ず全うするということであり、それがイエスの、つまり神の子としてのイエスが犠牲となるということの意味である。それが「啓示されている」、正確に訳せば「覆いを取られている」のである。つまり隠されていた真の目的が顕わにされたということ。神は私たちを見捨てることはなく、それどころか自らの子をメシアとして人間に遣わしたということ。そしてそのことを徹頭徹尾信じることによって、顕わにされた救いの出来事が実際の個々の人間において実現する(ただし「実現されるのです」という日本語訳は付加的説明であるが、これでよいと思う)。
そう、信じることによって実現されるというのが最終的にはキリスト教の核となる。ただし、まだここではそのからくりは明らかではないように感じられる。今日取り上げた序文的な箇所ではただ、ハバクク書2章4節後半が引用されるだけである。旧約聖書による根拠づけに過ぎないが、逆に言えば、すでにそうした、信仰に基づいて生きるという生き方がすでにあり、そのような生き方が連綿と続いているということでもある。「正しい者は信仰によって生きる」の箇所は旧約聖書では「神に従う人は信仰によって生きる」と訳されているが、ヘブライ語テキストはツァディーク ブエムナートー イフイェで、これをほぼ完全に逐語訳でギリシア語に移している(ホ デ ディカイオス エク ピステオース ゼーセタイ)。つまり、正しいと者とは最終的には律法とか、この世の習いに忠実であるとかによって生きる者のことではなく、神自身が人間を救ってくれることを信じ切ることによって、正しい者となるということでもあるだろう。
わたしたちは21世紀の東京で信仰者として生きている。先週もお話ししたが、そのことの意味はじつは非常に重く深いという気がする。パウロの励まし、すなわち「福音を恥としない」ということばが、今のわたしに実に響くのである。あのキリストの出来事の意味を自分の救いの出来事として、そして人類にとっての救いの出来事であると確信したパウロのこの言葉が、迫ってくる。それはパウロの時代とははるかに隔たり、かつ文明の度合いも大きく違う。しかし都市文明の本質において、ローマと現代の都市もそれほど変わらない。だからこそ、この時代この巨大な都市の、ほとんど砂粒になってしまうほどの一人一人の人間の孤独や悲しみ、他方、都市の巨大化に反比例して過疎化していく地方の一人一人の困難な現実がある。そしてこの時代の人間が作り出す巨大な差別や抑圧の中で圧倒的に苦しむ人々の困難がある。最後に、いかなる時代であれ、一人の人間は生まれ、成長し、やがて老い、土にかえるという命の根源的なはかなさがある。
これらもろもろの人間の限界、言い換えれば罪を、福音としてのキリストの出来事、それに先立つ旧約聖書の信仰が、今もなお私たちに真の救いとなるのだと改めて思う。この手紙の序文は、もちろんまだ漠然と語っているにすぎないが、一つひとつの言葉が、私たちに多くの期待を呼び起こしてくれる、そんな気がしている。