砧教会説教2016年9月18日
「都への疑い―ミカの預言から」
ミカ書1章1~9節
今日は「都への疑い」と題しましたが、これは「ミヤコ」と当然読むのであって「ト」ではない。「ト」すなわち東京都の昨今の事情、築地から豊洲のへの市場の移転問題にかかる不祥事や疑惑のことを念頭に置いたものではない。しかし、この題目を決めた後、この移転問題がにわかに脚光を浴びてきて、東京都への疑いも非常に強くなった。ミヤコへの疑いとは、ミカの時代においては当然エルサレムやサマリアのことであるが、彼の意識したミヤコへの疑いは、実は今日の日本のミヤコへの不信や疑念、批判とそれほど違ってはいないと思う。
さて、ミカはエルサレムから少し南西に離れた町の出であった。つまり都の近郊、つまり都の様子がよくわかる位置にあった。彼の職業はよくわからないが、初めから預言者であったわけではないだろう。しかし、ユダ王国南西部の詳細な記述(1章11節以下)、エルサレムの都市民の姿をよく知っていること、サマリアの腐敗に言及していること、アッシリアの台頭に対する危機感を強く抱いていること、長期にわたって活動しているらしいことから、非常に情報に通じた、彼自身明確な都市的意識、つまり取引、物の流通、町の人間模様、そして政治権力の動きに通じている人物である。しかも現在の都そのものを完全に否定的に見ていることから、エルサレムの外部からそれを批判的に眺めている人間である。新聞その他のメディアがない時代に情報を集め、正確にその意味を理解するのは難しいだろうから、彼は自由に動き回ることができ、かつそれを彼自身の宗教的意識あるいは預言者的批判精神に照らして厳しく現状を批判しうるだけの知識・知恵と勇気をもった知者であった。彼が一定の職業を持っていたかはわからないが、預言者としてのキャリアが長く見えるので、おそらく仲間や弟子たちの集団を持っており、それらの中で養われていた可能性もあろう。そして、アッシリアによる混乱の中、首都に住む人々の支配層に向けて、非常に厳しい預言を語ったのである。
さて、1節には彼の紹介がある。もちろんこれは後代の人によるが、ミカは前8世紀後半、わずかに遅れるものの、ほとんどイザヤと同じ時期に預言活動を行ったことになる。それはアッシリアによるパレスチナ支配の始まりを強く意識できた時であり、さらにその後の展開も経験したことを意味する。
このような意識とその後の経験から見て、当然ミカはアッシリアが台頭する紀元前738年頃には成人していた。そして彼の預言者的精神というかその透徹した意識からすれば、このアッシリアの台頭の歴史的意味を速やかに感じ取れたと思われる。
わが国でも、実際、満州事変開始から太平洋戦争の始まる1931年から1941年までの10年間をおおむね成人として生き始めた人で、ある程度の知識と情報を得ている人なら、その後の展開、つまり中国戦線の肥大化に対する米国をはじめとする諸国の反発とそれに対する日本の闘争の結果、つまり敗北を予想することができた。多くの大正生まれの若い人々が戦争で死んだが、その人々の多くはほとんど国家の言いなり、というかある種の妄想を抱かされて死地に赴くほかなかったが、一部のある程度の情勢判断ができた人々は、無謀な戦争に巻き込まれたことを呪いながら殺し、殺されていったのだと想像する。ミカの時代はもちろん、近代の戦いのような総力戦ではないので、軍人を中心とする一部の人間たちが戦うのであるが、そのもたらす結果は深刻であった。
ミカはそのような結果をおそらく予想していた。ただし、それは単に戦争が敗北するといった自国の不利益を予想するという単純なものではなかった。むしろ、こうした敗北が来るとすれば、そもそもその原因は何かを深く問うことであった。つまり彼は戦争を単なる国際情勢の変化の必然と見るのではなく、あるいは逆にたまたま運が悪かったといった偶然と見るのでもなく、イスラエルとユダの罪の問題としてとらえたのである。もっと簡単に言えば、責任の問題である。そして彼は、これらの王国がその責任を果たしえなかったゆえに、神の最終的審判をうけざるを得ないと考えた。その言葉がミカ書に残されたと言えるだろう。それゆえ、この表題をつけた人物は彼の言葉を「ヤハウェの言葉」であり、さらにそれを「幻に見た」と加えた。つまり、ミカは起こる前から予想・展望していたとみなしたのである。
2節以下はちょうどイザヤ書冒頭と同じような書き出しで、非常に厳かな、あるいは大上段に構えた言い回しである。「諸国の民よ、皆聞け、大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ」と呼びかけている。この言葉はもちろん、天地創造の神という視点からの言葉。人間だけでなく、地上のすべての生き物を含むすべてに呼びかけている。ミカはすでに神の視点から語ろうとしている。正確には神の登場は裁判における証人としての登場である。証人とは当然、イスラエルの民の罪の証人ということ。神は証人であると同時に、裁く主体である。これはやや一方的だが、こう考えるとわかりやすい。かつて時代劇で『遠山の金さん』という番組があったが、彼は普段遊び人の金さんであるが、その金さんが様々な事件の証人になるはずなのに、いざお裁きの時には金さんは白砂の場に連れてくることができない。悪者は金さんなどでっち上げだと言い張るその直後、裁判する奉行自身が金さんであったことを自ら示し、悪者は驚きとともに観念するというはなしだが、ミカ書の表現もこれと同じように証人自身が裁く主体である。だから、これはもはやいかんともしがたいほどに強烈な裁きである。
ところで、神はどこにいるのだろうか。「聖なる神殿」とされるが、これは現実のエルサレム神殿を指すとは考えにくい。なぜなら2節にある通り、「主はその住まいを出て、降り」とあるので、地上の神殿ではないだろう。さらに、「地の聖なる高台を踏まれる」とあるので、やはり地上の神殿ではなく、天地を超えた神の住まいをイメージしている。4節は火山の噴火と地震による地上世界の崩壊から着想されたと思われる。世界の混沌への逆戻りのイメージは終末論的である。つまり、黙示的な意味合いが強い。ミカがこのような大地の崩壊の姿を実際に見たことがあるのかははなはだ疑問だが、このようなイメージは誰しもが共有できるものであったのだろう。
なぜこのような災害が起こるのか?それは「ヤコブの罪ゆえに、イスラエルの咎のゆえに起こる」という。注意すべきなのは、戦争や飢饉、疫病という三大災害ではなく、地上世界全体の崩壊が語られている点である。なぜ、具体的な災いが語られず、やや漠然としたイメージなのか。イザヤ書の冒頭は明らかに戦争を背景に語られている。しかしミカはそうではない。むしろエレミヤ4章23節以下と同様な、世界全体の崩壊である。これはおそらく今ある国家の秩序と世界全体の秩序が相関関係にあることを前提に、国家の崩壊が世界秩序の崩壊のイメージで語られているということなのだと思われる。つまり単に戦争で負けるというレベルのことではないという強烈な不安と危機感が感じ取られているのだ。このようなイメージはまさに宗教的と言ってよい。
さて、5節後半にはヤコブの罪がサマリアであること、さらにユダの聖なる高台(これが罪の源であると考える)がエルサレムであると明かされる。このユダとエルサレムに関する言及は付加であるかもしれない。この後にはエルサレムへの言及がないからである。ミカはこうして南北に分かれているイスラエルの王国のそれぞれの首都が罪の源泉であるという。つまり都を根本的に疑い、かつ否定しようとする。まだその理由は語られない。ただ言及するだけである。6節でようやく戦争のイメージで語り始める。「わたしはサマリアを野原の瓦礫とし、ぶどうを植えるところとする。石垣を谷へ投げ落とし、その土台をむき出しにする」と語る。サマリアの崩壊、これはアッシリアによって現実となった(前722年)。7節にはかなり過激なことが書かれている。サマリアにはおそらく神殿娼婦がいたのだろう。元締めはその娼婦たちの報酬を上納させ、それを祭司に収め、祭司は神殿の経費の一部に当てていたのだろう。もちろん多くの部分は犠牲と税によるのだろうが、祭儀の実施、祭司たちの報酬は様々に調達されていた。宗教を現実に維持するとは経済行為であるが、宗教が中心となった世界では、その規模は巨大であった。もちろん北イスラエルはそれほど大きな国でもないが、その中心サマリアはミカの時代にはすでに200年以上首都としての権威と伝統を保持してきた。よって、その都市の経済的規模、そして神殿の宗教的権威(とその経済規模)はそれなりの大きさだった。そしてそこでは娼婦たちさえその機能の一部であり、神殿祭儀によって搾取されていた。ミカはサマリアの神殿にある様々な呪物を淫行の報酬と見なす。これはもちろん異教の神々の礼拝の対象なのだが、それらを娼婦の仕事の報酬で作ったとみなした。それらが破壊され、「遊女の報酬に戻される」と語る。この意味は分かりにくいが、申命記23章19節に手がかりがある。そこには「いかなる請願のためであっても、遊女の儲けや犬の稼ぎをあなたの神、主の宮に携えてはならない」とある。犬の稼ぎはややわかりにくいが、遊女の儲けとは遊女からピンハネしたものである。ミカ書では「遊女の報酬」と訳されているが、これは遊女から掠めた元締めの儲けのことかもしれない。「報酬」と訳されたエトナンは申命記では「儲け」と訳されている。遊女にとっては報酬の全部が儲けになるのではなく、いつの時代も元締めが掠めるのであり、それを「儲け」と見るべきであろう。遊女には儲けと呼ぶべき自由なお金がどれほどあったか疑問である。
だから遊女に儲けは本来の受け取り手に戻されるのである。
8節はこのことが実現してしまった後の嘆きの行為にも見える。預言が実現した後の嘆きであろうか。それとも、やや過激だが、破壊と略奪の後の姿を描いているのかもしれない。
それはやがてユダにまで及ぶという(9節)
さて、ミカはサマリアの都の崩壊を預言するが、すでに述べた通り、それは単なる戦争の結果ではなく、都の持つ根本的な罪に対する罰ともいうべき将来である。なぜ彼はこのようなことを語るのか。それはこの後に書かれるが、彼には都に対して根本的な批判があった。7節に仄めかされているように、都の持つ権力と富の過剰、そしてその法外な魅力に対する危機意識である。ほとんどの人間はこの魅力に抗うことはできない。なぜなら、それが文明だから。都市をつくることが文明である。耕すこと、はぐくむこと、つまり文化(カルチャー)の上に、都市ができた。イスラエルはこの文明のはざまに生まれたが、自らも都市的なものになっていった。しかし、その起源はどこであったか。都市の外であった。そのことをミカは根源的に保持しようとする。言うまでもなく荒れ野のモーセ、荒れ野のイスラエルである。だから、積極的に言えば、この崩壊の預言は、かえって荒れ野での再出発を促すものとさえ読めるかもしれない。ミカは単なる崩壊の預言を冒頭に置いたのではなく、都の崩壊の先にある、自由さえ展望した可能性がある。彼の都への疑いは、権力を持つものへの不信に由来する。それは現実の東京においても同じである。すでに都民は知っていたことなのかもしれないが、小池百合子知事に代わったことで、その暗部が見えてきたのかもしれない。こうした都の持つ、法外な魅力も含めた巨大な力を丸ごと批判し、捨て去るというミカの視点は、あまりに過激かつあまりに非力であるように見えるが、しかし、その都サマリアは瓦礫となった。神の都が本来持つべき謙虚さを失ったとき、それは単に人間の都となり、かつ人間同士が敵対、あるいは差別、抑圧しあう場所となる。そうした本質を、この預言者は深く理解し、その未来を見通していたと言えるだろう。
この巨大な都市東京も私は謙虚さを失えばまさしくあのサマリアのようになるだろうと思う。戦争か自然災害かではなく、もっと内部的な腐敗によるかもしれない。その一端はこのたびの築地移転問題に表れているかもしれない。
都に住む者として「都への疑い」を意識することが、最も必要なことであると、ミカ書冒頭の預言を読みながら痛感する者である。