砧教会説教2016年9月25日
「最後に神が裁く」
ローマの信徒への手紙2章1~16節
今日の箇所は1章18節以下につなげて読むべきだが、少し前、1章18―23節まで取り上げ、しかもその時に24-32節についても言及したので、今回は省いた。しかし、24節以下の言葉とつながっているので、こちらも参照しながらお話ししたい。
さて、2章は「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」という非難めいた言葉で始まる。この言葉はもちろんイエスの「人を裁くな」(マタイ7章1節)という山上の説教の勧告を踏襲している。そして、「あなた」という呼びかけは、17節でやがて明らかにされるが、ユダヤ人キリスト者全体のことを指している。ということはローマの教会の信徒は改宗したユダヤ人キリスト者であることを示す。パウロにとって、ユダヤ的色彩の濃い信徒たちにその色彩を変えるよう促すことが目的のように見える。
ところで、「あなた」といきなり2人称になったが、その前、つまり1章後半では「彼らは」と繰り返されている。そしてこの「彼らは」という三人称は1章18節にある「不義によって真理の働きを妨げる人間」を受けての代名詞である。この人間はもちろん複数形である。問題はこの「人間」が単に人類を指すのか、実際にはイスラエル(ユダヤ人)を指すのか微妙である。1章後半は新共同訳の見出しは「人類の罪」としているが、違うのではないか(先々週は人類一般とみなしていたが)。というのも、「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです」とあるので、仮に「神についての事柄が示された」ということを十戒の律法を含めたイスラエルへの啓示であるとするなら、この「人間」はイスラエルの人々に重なる可能性がある。ただ、その後の文章は偶像崇拝や自然な性関係の破壊など、創世記の物語を前提にした人類史を回顧しているようでもある。しかし、偶像崇拝や性的混乱などを「罪」なことと認めているのはイスラエルの人々なのだから、結局この「彼ら」は人類一般ではなく、イスラエルであり、1章後半はその歴史の回顧である。そして1章最後にある「彼らはこのようなことを行う者が死に値するという神の掟を知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為を是認しています」という客観的な観察ないし回顧、つまり3人称による叙述から一転して、2章ではこの「彼ら」とは「あなた」のことだとして、直接にユダヤ人キリスト者に向けて語り始めるのである。
パウロが見るところ、このユダヤ人キリスト者は自分を棚に上げて人を裁いている。彼らは自分たちが罪をなしているにもかかわらず、他人を裁く。一体何を言っているのかはっきりしないが、これはローマ教会内の裁きあい、つまりいずれのグループが正統なキリスト教なのかの争いにおけるユダヤ人キリスト者の態度のことだろう。そのことに対して山上の説教から触発されて語りだした。
2節に「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きなると私たちは知っています」とあるが、「このようなこと」とは1章29節以下の罪のカタログに挙げられていることを指す。不義、悪、むさぼり、ねたみ、殺意、などなど。このような様々な罪を行う者を裁くのは神なのである。それなのに、あなたは、自分を棚に上げて、裁いているとはけしからん。裁くのは神なのに、越権である。これがパウロの批判である。パウロは続いてこういう。「あなたは神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじるのですか」と。この言葉は、パウロの信仰を明らかにしている。彼は、神が裁くということ(つまり人間が裁くのではないということ)、そして神は裁く前も(そしてたぶん裁いた後も)、悔い改めに導くほどに慈愛と寛容と忍耐を保つのであって、人間が軽々に裁いたりすることは、かえって「神の怒りを自分のために蓄え」ることになるということ、このように信じている。パウロは旧約以来の「神の裁き」に忠実なのである。そして身勝手に裁いている者には最後の裁きの時に神の怒りが落ちるだろうという。
パウロは自分がユダヤ人キリスト者であるがゆえに、自分自身の反省や忠告も含めて語っているのだろう。キリスト教を迫害するファリサイとしてのかつてのパウロの生き方、つまり生まれたばかりのキリスト教を厳しく裁いてきた一時期の彼自身の姿を思い起こしているに違いない。
続いて、ユダヤ教的な応報思想をことさらに語りだす。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、……」(6-7節)。そしてこのような神の応報ということはユダヤ人もギリシア人もなく、普遍的なことであるという。ここにはパウロの意図的な飛躍がある。元来、律法に忠実な生き方が善であり、そのことによってユダヤ人は救いに至るのであった。しかし、パウロは善をより普遍的に取り出し、「ユダヤ人はもとより、ギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません」と言う。そして律法を知っていようといまいと、罪を犯した者は滅び、あるいは裁かれるのであり、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」と語る。これは字面だけ見ると、いわゆる「律法主義」、つまり口伝も含めたモーセの律法を厳密に守ることを推奨するように見えるが、そうではない。パウロの言う律法とはもっと大雑把な、あるいは原則的なものである。それはおそらくイエスが語った「神と隣人を愛する」という律法の根本を念頭に置いているのだろう。それ故に次のように言うのだ。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています」。これはやはり革新的なことだと思う。パウロはファリサイ派のユダヤ人として、律法の厳格な遵守を現実に行えるのはそれを与えられたユダヤ人以外にあり得ないとかつては思っていたはずである。それは誇りであり、そのことが生きる意味でさえあった。そのパウロが、律法を相対化したのである。しかし間違ってはならないのは、律法など守っても守らなくてもよいと言っているのではない。書かれ、伝えられてきたユダヤの律法も、書かれてはいないが「自然に」身について実行されている律法も、その本質において一致している。したがって、「律法」は普遍的なのであるから、だれにとっても守ることは善である。
15節ではエレミヤ書31章31節を念頭に、律法の命じるところを自然に行える人々は、「律法の要求する事柄がその心に記されている」と語る。つまり、書かれた律法に照らして自己をいちいち律するのではなく、もはや自然と律法を実行することができるということだろう。15節後半「彼らの良心もこれを証しており、また心の思いも、互いに責めたり弁明しあって、同じことを示しています」とあるが、この「彼ら」とは、おそらく「律法の命じることを自然に行う」ギリシア人の知者・賢者たちを念頭置いていると思う。彼らも、いわば「隠れたキリスト者」として、最後の裁きの時に、正しい者として明らかになるだろうという。
さて、このような律法の相対化、あるいは普遍化をどうとらえたらよいだろうか。
律法は書かれたものとして、つまり旧約聖書の文字として存在するだけでなく、実は異邦人も心に記されて共有して可能性があるというのである。このことはユダヤ教の特権性を剥奪する。同時に、ギリシア的な倫理がユダヤ教に近づけられたともいえる。つまり、パウロの立場とは、ユダヤ的なものとギリシア的なものの調停者としてあるということになろうか。これがキリスト教の普遍性を決定づけている気がする。ユダヤ教徒にとって、そしてユダヤ人キリスト者にとってさえ、このような完全な相対化は危ういと見えたかもしれないが、パウロはそれを貫徹する。そのような立場を支えるのがパウロの言う「福音」である。今日のところではその中身については触れていない。この先でそれは問題となる(ただし、先々週多少言及した)。
さて、ローマの信徒に限らず、このパウロによる律法の相対化は非常にインパクトがあるように思いう。つまり、単にユダヤ的律法の相対化というより、ある種の世界性を持った宗教はその目指すところは似たようなものであり、したがってそこに到達するための規範(つまり律法)は本質的には同じであるということである。パウロが宗教の倫理性の本質は同じであるとみたとすれば、それは宗教多元的に見える現代世界において非常に重要なことである。つまり多元的であるがゆえにこそ一体であることの重要性。残念ながら、21世紀は宗教に限らずいろいろなことが多元的に見えるが、価値観自体は均質になっている。つまりマネーですべて処理できると思っている。しかも価値観は同じであるからこそ、争いが絶えない。マネーが神となった世界。ほとんど冗談のような世界になっている。これをかつては偶像崇拝と見たのだろう。しかし、見方を変えれば、マネー神によって統合された世界であるともいえる。それはそれでよいのではないか。しかしそれは根本的に誤りである。マネー神は、本当は人間が蓄積した、人間の一部であり、結局人間を神としたのと同じである。これは完全に偶像崇拝と言ってよいだろう。このような中にあって、偶像崇拝を超えた倫理的共同性を構築できるであろうか。
もちろんそれはできたし、今後もできるだろう。その一つの道が、普遍性を持った様々な宗教性が倫理的本質において一致し、共闘することである。それはもちろん始まっている。この9月前半、ローマ法王のよびかけで、世界の宗教者の代表がアッシジに集まり、平和への連帯行動を誓った。このような象徴的行動はやがて広く人々をつなげていく。その中に私たちも連なることで、現実は変わる。
ユダヤ教の強さを取り出し、その狭さを打破したパウロの働きは、当時の世界ローマを支えているヘレニズムの偉大な思想とその倫理にユダヤ的な救済の思想をつなげた。そのことによって、人々の救済と世界の平和という壮大な構想が現実となる可能性が見いだされたのである。砧教会もその可能性が現実のものとなったものの一つであることは言うまでもない。
しかし、忘れてはならないのは、救いと終末の平和に至る間に、裁きがあるということである。その裁きを自分たちが行うことはもちろんできない。だからこそ、裁きは神にお任せするのである。そのことがまじめに受け取られるとき、共同体はすでに平和を先取りするのである。最後に神が裁くとは、一方的な裁きを断念し、かつ昇華するための思想なのである。