日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年10月2日
「結局、外見や手続きを整えても救いは来ない」ローマの信徒への手紙2章17~29節
 はじめに「あなたはユダヤ人と名乗り」とあるが、これは特定の誰かを指すのではなく、ローマ教会のユダヤ人キリスト者を指しているのだろう。2章から繰り返し出る「あなた」は、ユダヤ人であることがここではっきりする。
 ここで確認したいのは、キリスト教徒である前にユダヤ人であることを意識するのが当然と考える人がたくさんいるということだ。使徒言行録で問題とされているユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の対立は、ユダヤ教の伝統とその外の人のあいだの軋轢であるが、ローマ教会においてもそのことが大きな問題だったとみられる。要するに、キリスト者であるとしても、ユダヤ人としての選民意識や律法へのこだわりは捨てるわけにはいかない。キリスト者であってもユダヤ人であることを優先するのが当然である。そして、ユダヤ人であるなら、その律法に生きることが、キリスト教の内部にあっても優先すべきである、と考えているのであろう。
 パウロはそのような人々に向けて、根本的な批判を始めた。パウロはまず彼らの在り方を確認する。「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法に拠って教えられて何をなすべきかをわきまえています」(17-18節)。この言葉は、かつてファリサイ派として生きてきたパウロの自己確認と言っても良い。そして「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負している」(19-20節)と述べ、ユダヤ人が世を導く者であるというかつてのパウロの自負、現在のユダヤ人キリスト者の自負を確認する。ユダヤ人とは遠い昔にすでに啓示を通して偶像崇拝のような宗教性を乗り越え、この世の在り方を精神的なレベルではとっくに乗り越えている人々であるから、ユダヤ人こそが世を導きうる唯一の民族であるという。啓蒙する人間、教育者である。
 さて、その後の非難がわかりにくい。パウロは「それならば、他人に教えながら、自分には教えないのですか」と皮肉を言う。要するに本当はわかっていないのはユダヤ人、君たちなのだよ、ということだろう。その後に十戒の「盗むな」「姦淫するな」「偶像をつくるな」を引き合いに出し、君たちは全く逆のことをしているではないか、と非難する。
 しかし、具体的にこのユダヤ人がどんな違反を行っているのかは、はっきりしない。あまりに一方的である。しかし、この言葉でわかる人にはわかったのであろう。実際のユダヤ教徒がその生活において何をしていたのか、どのように律法を有名無実にしていたのかを。しかし、ここでは不明瞭である。ヒントになるのは、当然イエス・キリストの「宮清め」に代表される神殿の祭司批判、そして律法学者やファリサイ派に対する批判のスタンスである。律法を自分に都合よく利用し(あるいは自分に都合よく作り)、人を差別し、自分の既得権を主張することに対する厳しい批判や非難。このようなイエスの批判をパウロもやっているのである。具体的なことは想像するほかないが、伝統にしたがう様々な儀式や律法、特に食事の律法(コシェル)、そしてユダヤ人男性であることを示す身体的痕跡である割礼をもとに、自分たちの優位性を、たとえキリスト者となったとしても、主張していたのである。それなのに、自分たちは商売を通じて人からかすめ取り、都ローマの性的慣習に染まり、エルサレムの神殿をないがしろにしている(つまり、イエスの非難と同様)。
 そこでパウロは言う。「あなたが受けている割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」。律法を遵守する民のしるしとして割礼があるのだから、それができないなら、割礼を施していることに何の価値もないという。それどころか、「割礼をうけていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼をうけていなくても、受けた者とみなされるのではないですか」と問う。パウロは次第に割礼というユダヤ人であることのしるしが神の祝福の約束ではないことを告げる。ここにおいて、パウロはユダヤ教の律法と、律法の民であることの徴である割礼の関係を無意味化し、割礼それ自体の価値を完全に相対化したといえるだろう。
 さらにパウロは畳みかける。「体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう」と述べ、律法の順守が本質であり、身体的スティグマ(痕跡)があったところで、裁きを逃れられるのでもない。割礼は何ら救いの約束でもなければ、目印でさえない。ユダヤ人であることの証明にも似た割礼には価値がない。割礼を受け、律法の文字を「所有し」ているだけのユダヤ人には何の栄光もあり得ないのである。このような批判はすでに述べたとおり、かつてファリサイ派の生粋のユダヤ人であった自己自身に対する批判であるが、彼は当然その批判を乗り越える立場に立っていると信じているのである。
 そしてついに決定的なことを言う。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉は人からではなく、神から来るのです」(29節)。もちろんパウロはいまだこの時点では、律法については留保している。しかし、文字を持っている、割礼をしているという客観的な事情だけではもはや価値がない、あるいは効力がないのである。しかし重要なことは29節の最後の言葉である。「その誉れは人からではなく、神から来るのです」。つまり割礼を受けているというのは、人間の技に基づくものにすぎないから、そのようなものにそもそも名誉などない。そのようなものは勝手にユダヤ人が主張しているに過ぎないのであり、霊によって心に施された割礼こそ、神の誉れに値するのだ。これはこういうことである。その人の心が主の霊によってとらえられ、その心に刻印されるということ。もちろん、これは比喩的表現である。心に刻まれたものとはキリストの心の一部である。もちろんそのことは書かれていない。一つの解釈ではある。しかし、すでに、キリストの心が直接に自分の心の一部となったとき、その人は律法に書かれていることを自然に行うだろう(2章15節参照)という見方をパウロは提示していた。
 さて、パウロはユダヤ人キリスト者のユダヤ人としてのプライドのようなものを徹底的に批判し、形式的なもの、手続きのようなものを無益であると喝破したといえるだろう。このようなラディカルな批判は時代を超えて意味を持つと思う。たとえば、プロテスタント教会のキリスト者にとって割礼に当たるのは洗礼や聖餐といったいわゆるサクラメントであるが、このような儀式は、パウロの論理に従えば、まったく二次的、あるいは人間的な思惑によっているに過ぎない。ユダヤ人パウロは、キリストの幻に接し、いわば霊によって刻印された人間になったがゆえに、それまでの律法や割礼などの「外からの縛り」をかえってむなしいものとして見出したのである。つまり、かれは律法や割礼によって守られている「何か」を直接とらえることの重要さを見出した。それはすでに旧約聖書において繰り返し言われる、「愛すること」、具体的には人と神を愛するということである。
 今日は世界聖餐日であり、約2000年前のキリストの十字架の出来事を記念する行事つまり聖餐式を行うことになっている。しかしこれさえ、イエスの出来事を私にとっての真の「出来事」として刻印することがなければ、意味はない。そして刻印されたゆえに、新しい勇気を抱いて、未来へと向かうことができる。聖餐式を巡って教団の内部で殺伐とした出来事が起こりましが、本来このような、究極的には人間の思惑に基づいている儀式についてまともに是非を論じることは無意味である。それなのに、数が多い人々の「伝統だから」の一言で片付いてしまうとすれば、これはパウロに批判されてしかるべき事態です。パウロやイエスは伝統や慣習の縛り、特に宗教的なそれの支配によって、神の啓示、福音が隠されている時代を強烈に批判しているのです。私たちは、例えば本日の聖餐式も、本当にイエスの道行に従うのか、他方でその十字架の先にある復活の栄光を信じるのかという問いに立つのです。そしてイエスが野の花や空の鳥を指示したように、形や手続きによって神の栄光にあずかれるのではないことを、真にイエスの心を自分の心にたった一ミリでも刻印されたなら、私たちは真に生きることができる。
 パウロは自分の過去の生き方を顧みながら、つまり自分を棚上げすることなく、同胞と呼ぶべき人々の限界をはっきりと示したが、その指摘は実は今日のキリスト者、すなわち私たち自身の在り方に反省を迫るものであるといえる。形や伝統や手続きは、それら自体を生み出した「何か」を忘れたとき、無益なものどころか、きわめて危険なものにさえなるのである。