砧教会説教2016年10月9日
「必要なことはただ一つ」
ルカによる福音書10章38~42節
この題目を見て、そんな馬鹿な、と思ったかもしれません。私自身、この題をつけながらも、疑念はあるのです。そう、これは今日の聖書の一節からとったわけで、私の言葉ではありません。ですから、イエス・キリストのこの言葉に対して、疑問をぶつけながら、この言葉を含む今日の箇所全体の真意を確かめてみたい。
イエスは旅の途中、ある村に入ったという。するとマルタという女性が現れ、イエスを家に招いた。中にはマリアという姉妹もいた。この二人はイエスとその一行が来たこと非常に感激していたのだろう。イエスの噂は広く知れ渡り、その癒しの力、勇気を与える言葉、人を立ち上がらせる力をこの姉妹も強く求めていたに違いない。招き入れるとすぐにイエスは説教を始めたようである。するとマリアはイエスの前に座り話を聞き始めたのだった。そしてその話に聞きほれていたのだろう。他方、マルタはイエスの一行をもてなそうとせわしなく働いていたのである。やがて、自分が忙しく動き回っているのに、マリアが何もしないでイエスの話を聞いていることが癪に障ったのか、なんとイエスに「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか」と尋ねた、いやイエスをたしなめている。あなたは先生なのだから、ずるいマリアをきちんと注意しなくてはだめだ、手伝うよう促してほしい、というわけです。
その時イエスが答えた言葉に今日の題目とした言葉があります。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」。このお話はここで終わっています。短いのになぜか意味が深そうな、印象的なお話です。私は大学に入ったとき、キリスト教入門担当の先生が、この話についての感想を授業の課題としたことを今も覚えています。なんと書いたかはもはや覚えていませんが、この話そのものはなんだか印象的だったので、ずっと記憶に残っているのです。その頃はまだ、キリスト教や聖書のことなどまったく知らなかったのに、です。マルタは損している、逆にマリアはずるい。しかし本当にずるいのか。マルタのほうが、どうでもよいことをしているのではないか。いろいろ思います。
皆さんはこの話を聞いてどう思うだろうか。もちろんこれは一種のたとえ話です。だから、このまま読んでしまえば、マリアはずるい。イエスの言葉はマルタに何かを気づかせようとしているのです。マルタ、マルタと二度呼び掛けています。彼女を諭しているかのようです。イエスは彼女の苦悩を見透かして、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と語りかける。彼女がもてなしのために忙しく動き回っていることについてだけ言っているのではなく、彼女が多くの悩みやあるいは欲望や苦しみをもっていて、何をもとに自分の命に筋道を立てたらよいかわかっていないことをたしなめている。そのことが、もてなしのために忙しく動き回っていることに表れている。イエスという大切な人が来た、だから少しでも彼とのかかわりを深めるべきなのに、彼女はそうしない。大切だ、偉い人だ、だからもてなさなくてはならない。自然に見えますが。違うのです。大切なもの、それは人間であれ、モノであれ、その人、そのモノとかかわる、あるいは利用する。その相手からじかに良いものを獲得することが重要なのです。誰でも経験するかもしれませんが、どうも大切なものはしまっておくという傾向あります。たとえば宝石。これはしまっておいてもしょうがない。美しい輝きを外に輝かせなければ無意味です。お金もそうです。これをためてばかりいる人がいる。たまったお金を眺めていてもしょうがない。ときどきいます。通帳を眺めるのが好きな人。残念です。お金は単に数字か、紙切れにすぎません。その価値を自分にふさわしいものと交換しなければ意味がない。
イエスのマルタへの応答は、実は読者や聞き手に語り掛けているともいえるでしょう。あなたは何か思い違いをしていないか。自分の今本当に必要なこと、最も基本的なことを忘れて、違うことに思い煩っているのではないか。あるいは、なにか偽物の土台の上に立って、間違った建物を建てているのではないか。人生という建物を。
私自身学生時代は、何が自分の基になるのか、一向にわからない時代でした。「好きなこと」をやるのが一番と思っていた時もあり、確かに好きなことをやってみました。しかし、こんなあいまいな考えでどうにかなるわけではない。大体「好きなこと」なんて、実はほとんどないのです。せいぜい、みんながやっているから、あるいはかっこいい人がやっていることだから、といった程度で、好きなこと、やりたいことなんて、結局その時代その社会の、つまり周りの人の欲望を自分の欲望にすり替えたものにすぎないのです。
にもかかわらず、これが、あれが、そしてあれもこれも、自分のやりたいことだと思ってしまい、なんだかわけがわからなくなり、自分がバラけてしまう。
ところで、「やりたいこと」ではなく、「やるべきこと」をやるのだ、と思った時期もあります。勉強や仕事、中身はどうあれ、これをやらなくては将来がない、あるいは食べていけない。だからなめたことは言わず、生意気なことも言わず、ただ学び、働く。これが一番良いのだ、と。
しかし、これは一番だめです。意味も問わず、あるいはまともな条件もなく、ただ勉強し働くというのは、まったくの自己放棄です。現在、けっこうこれが強制される時代に、またなりました。前も言いましたが、ブラック企業、ブラックバイトなど、自分を捨てるほかない、疑問を挟む余地がないように働かされる。生きていくために、自分を向上させるためとか諭されて、結果、搾り取られて終わり。私は許せない。
一方、マリアはどうでしょうか。彼女は大切なイエスが来た、だから彼のそばでその一言一言をすべていただこう、自分の糧としようと決めたのです。マルタの問いかけにイエスはこう答えました。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」と。
マリアはやりたいことでもなく、やるべきことでもなく、自分にとって必要なことを優先したのです。やりたいこと、やるべきこと、これらは結局他人の欲望や命令にすぎない。だったら、何をするか?自分にとって必要なことをする。必要なただ一つのことをする。
では、「マリアは良いほう選んだ」とは、いったい何を言っているのでしょう。もちろん、この場面ではイエスの言葉に集中するということです。イエスはなんだか自画自賛しているように見えます。自分は偉いのだから、わたしを選んだマリアを邪魔するな、みたいな。もちろんそんなことではないのですが、ここにはマリアにとって必要なことが本当は何なのかが書かれていません。しかし、物語全体が言おうとしているのは、イエスが神の子であり、その救いの言葉と業こそ、命の糧であること、命の泉であること、そしてその糧と泉とを自分のものとすることがただ必要なことであるということです。つまり、必要なただひとつのこととは、イエスを通して、命の意味を獲得することです。それはこの世に生きることの意味といってよい。それは何か。キリスト教的に言えば、創造主であり、導き手であり、最後の救い主である神(キリスト)を知り、その思いを自分に重ねて生きること。生きることの根源的な目的を発見することです。
本当に必要なこととは、生きることの目的、あるいは希望のことである。「マリアは良いほうを選んだ」というのは自分の生きる目的を、希望を見出したということです。だからそれを取り上げてはならないのです。良いほうを選んだ、という言い方はやや違和感をもちますが、これを取り去られることは、結局生きることがあなた任せ、他人任せになって、自分を見失うことになる。だから「良いほう」を選んだというは、もっとはっきり言えば、かけがえのないものを選んだということです。
何をしようか、何を飲もうか、何を着ようかと悩むな、ともイエスは言っています(マタイによる福音書6章25節以下参照)。一番大事なものを忘れるな、まずは命、そしてその命の目的、希望こそが一番大切なのです。
皆さんはもちろん日々の営み、そして仕事が大事であることに変わりありません。しかし、そのことと本当に必要なことをしっかり分けて考える必要がある。そうでないと、ただただ追われ、流されて行ってしまいかねません。聖書も含め、本物の「何か」との出会いと通して、必要なものはただ一つということを日ごろ確認してほしい、そしてそれを核にしてしっかりと歩んでまいりたいと願うものです。